荻野洋一 映画等覚書ブログ

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茶葉を以前愛用のものに戻す

2017-11-29 09:16:01 | 味覚
 久しぶりに緑茶を替えてみた。「うおがし銘茶」から出ている「にゅう」という茶葉である。替えたと言うより10余年ぶりに元に戻したと言ったほうがいい。ここ10年ほどは、近所のスーパーで適当に美味そうな茶葉を購入して飲んでいた。では「にゅう」が極上に美味いかというと、そういう意味でもない。上等ではあるけれど、たとえば最高級の玉露などとは比べものにならない。いや、むしろ、やや番茶の気配とエグミが混じる味は、下卑の一歩手前であり、普通の煎茶よりクセがある。極上というより、普段使いとしてはパンチがあって、日々の生活に元気をもたらしてくれる。そんな茶葉である。
 「うおがし銘茶」は亡父の好物だった。霞ヶ関の某庁の勤め人だった亡父は、勤務の前や後に築地市場を冷やかすのを趣味にしていたようだ。かといって上等のマグロを買って帰ってくるとかいった、これ見よがしのことをするような人物ではなく、よく言えばクール、悪く言えば地味な性質である。ただし、場内に店舗を置く「うおがし銘茶」で茶葉を買っては、兄弟の家に送り届けたりといった程度の自己主張はしていた。気づいてみると長年のそんな慣行のせいで、関東一円の荻野一族はみな「うおがし銘茶」が好きになっている。
 2005年晩夏に、その父が癌で逝った。葬儀を終えた直後に母も交通事故で入院してしまい、窮した私は四十九日法要の香典返しに「うおがし銘茶」の茶葉詰め合わせを選んでみた。故人の好物でもあり、親戚一同の皆さんもお好きでしょ、といった体で選んだのだ。そんな縁もあって、しばらく私自身も築地の店舗に通っては、せっせと「うおがし銘茶」のなかでも自分好みの味だった「にゅう」を買って、日々飲んでいた。しかしその慣行も、いつぞや時間的余裕の喪失と共になくなり、先述のように、近所のスーパーの茶葉で間に合わせるようになってしまった。
 この夏、私は中央区の日本橋中洲から、新宿区の市谷某町に引っ越した。さびしいことに早くも日本橋時代の付き合いはとぎれつつあるのだが、4ヶ所ほど付き合いは残っている。それは江戸文物研究所の内村所長との親交、室町の路地裏で和服のマダムが営む隠れ家バー「M.N.」、人形町のお香屋「松榮堂」、そして浜町の理髪店「F」である。正直、床屋なんてどこでもいいのだが、頭皮に湿疹ができた時に親身にケアしてくれたり、手のあかぎれにまで軟膏をくれたり、いろいろと世話になった誼(よしみ)がある。
 先日、わざわざ浜町まで散髪に出かけた際、話題が食べ物の話から茶の話へと移り、理髪店「F」の主人は「うおがし銘茶」が大好きだと言った。その時、私は非常なる懐旧の念におそわれた。数日後、新宿伊勢丹のデパ地下に「うおがし銘茶」が出しているテナントで、「にゅう」を久しぶりに買った。帰宅して、淹れる。味、香りからは、すでに隔ててしまった、そしてもう戻ることもない時間の薫りまでが立ちのぼった。


うおがし銘茶(本店 築地市場)HP
https://www.uogashi-meicha.co.jp/

『月と雷』 安藤尋

2017-11-11 18:52:29 | 映画
 ペットなんかをスマホで撮影したら、誰にでも可愛らしく撮れてしまうだろうが、映画はまったく別次元である。映画作家も動物を撮れたら一流だとよく言われる。なかなかそういう人は出てこないのだけれど。動物同様に才能が要求されるのは、火、水、風、光、土だろう。そして何と言っても気象である。晴天を晴天として撮れる人、曇天を曇天として、雨天を雨天として、嵐を嵐として撮れる人を、私は尊敬してやまない。青山真治を以前から変わらず「現代では稀少なグリフィス的映画作家」として敬ってきたのはそういうことであるし、『愚行録』で急に登場した石川慶監督に期待するのもそうなのである。
 安藤尋監督の新作『月と雷』を見た。茨城のさびれた農村の一軒家を、じつに表情豊かに画面に収めている。「表情豊か」などと陳腐な表現しかできない自分がもどかしいが、言いたいのは、場面ごとにその家が変化するということだ。安藤尋は、原作と脚本のプレテクストに恵まれている映画作家だけど、映画それじたいのありように一作一作、安藤の色が濃厚に出てきていて、今回私は作品のなかをどっぷりと徘徊してしまった。一軒家に誰かが一人取り残されたと思ったら、こんどは親類のようで他人のような人々が集まりだして、妙に賑やかになる。でもそれがかりそめの賑やかさであることは、誰もが承知している。
 安藤映画は、ここぞという時の火、光に力を感じる。『海を感じる時』(2014)終盤の市川由衣と池松壮亮の頭上で街灯がパンと割れるシーンが、いまだに脳裏に残っていて、今回の『月と雷』も、高良健吾の足元で燃える炎が素晴らしかった。火という移ろいゆくものの中に過去の証拠物を投入して、移ろいの風に乗せていく。
 安藤映画の光、炎はどこかしら人間忌避を示しているのかもしれない。決して冷たい映画ではなく、むしろ人間臭くすらある安藤映画だけれども、どこかしら否定の意志が働いているように思う。そして否定のあとにくる諦念を引き受けた上で、なおも元気でいる。近作のヒロインたちの強さを、私はそんなふうに解釈している。


横浜シネマジャック/ベティ、シネマテークたかさきなど、各地で続映中
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