荻野洋一 映画等覚書ブログ

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在りし日のホテル吉兆

2009-01-29 11:10:00 | 身辺雑記
 2008年の年末に閉鎖され、現在はすでに分譲マンションへの転換を目的に解体工事が始まっている人形町2丁目のプチホテル「吉兆」の在りし日の姿。残念ながら、この携帯写真2枚もクリスマス頃に撮影したもので、廃業後のものに過ぎない。低価格のビジネスホテルチェーンが幅を利かす中にあって、東京のど真ん中で独立単館系のホテルがやっていくのは大変だとのことだ。
 なお、この「吉兆」とは、名称こそ同じだが、近年偽装問題で騒動を起こした料亭グループとは別物である(はず)。

 すっかり人影の途絶えた左の写真では窺い知れないが、このホテルは、小振りながらも可憐で清廉な雰囲気が漂っていた。私自身は宿泊したことさえなく、2階にあった料理店「割烹 吉兆」もついに使いそびれてしまった。わずかに1階の可愛らしいカフェを何度か訪れた程度であるが、どうにも惜しいものを失った気持ちがする。

 上写真の手前の樹木のあるところは、浜町緑道といい、かつての浜町川が昭和50年頃に暗渠化されて遊歩道となったものである。浜町緑道を挟んだ反対側には、イタリア料理店「アル・ポンテ」、ドイツパン店「タンネ」、そして「浜町藪蕎麦」がある。ホテル脇から甘酒横丁に折れるとすぐ、緑茶の「佐七」や、構えの渋い胡麻豆腐屋「凡味」などがあり、さらに甘酒横丁を一本裏に入った小径には、内村修一氏主宰の「江戸文物研究所」がある。またこの研究所の向かいには、旨い日本酒をカウンターで飲ませる知る人ぞ知る名店「万華鏡」がかつてあったが、いまはもう失われてしまった。

ぽろり、と何かの間違いのように

2009-01-27 13:58:00 | 映画
 ジャック・ドゥミのデビュー作『ローラ』(1961)は、まだそれを見ていないという人が、これから初めて見ることができるという幸運に感謝しつつ画面に眼を投じるべき傑作であり、また、真に映画ファンからの神格化に値する不滅の一作だ。そんな作品が、ぽろりと何かの間違いかのように、シネセゾン渋谷のスクリーンに、明晩(1/28)から1週間だけレイトでかかるのだという。こうした映画を見逃したまま、いったい人間は何を見るべきだというのか。

大阪の映画をめぐる推察 その1

2009-01-27 11:30:00 | 映画
 『大阪ハムレット』に端を発して、大阪の映画について、詮無きことを何項目か考えた。きょうはその1回目。

 溝口健二の『残菊物語』(1939)は、東京と大阪の風情を両方味わえる稀有な作品だろう。柳橋の花街に遊興んだ主人公の歌舞伎役者(花柳章太郎)が、深夜2時に隅田川沿いの道ばたで風鈴を買い求めつつ、弟の乳母(森赫子)からの自分への直言に耳を傾ける場面や、両国花火の夜にこの2人が西瓜を切る場面が醸す風情。一方、大阪では道頓堀の芝居町からほど近い下宿屋の2階が醸す情緒、そして森赫子をほとんど斜め後ろからしか捕らえようとしない、映画史上最も残酷なカメラワーク。ここには、本当は簡単に風情やら情緒やらの言葉では片付けてはいけないようなものが、あった。

 思えば、あの『大阪の宿』『夫婦善哉』『わが町』の大阪3傑作がいずれも1950年代中盤に作られているとして、大島渚監督の『太陽の墓場』(1960)までほんの5、6年しかインターバルがない。すでに『太陽の墓場』で映っている世界は、近年に濫造された岸和田なにやら(数年前まで持て囃されていた三池崇史の岸和田映画なんて今はもう見ていられないでしょう)とか、なにわ金融なんとか、そういう世界とは地続きの世界に見える。ちなみに『太陽の墓場』の作者・大島渚は、後年に梅本洋一と私が行ったインタビューの中で、「いや、釜ヶ崎なんていう所は、実につまらない所であってね」と、冷たく突き放していた(「釜ヶ崎」は現在の「あいりん地区」の20世紀初頭までの旧称)。映画作家としての醒めた視線である。私にはそんな単刀直入に、ある土地に対して「つまらない所」などと言い放つ度胸などまったくないのだが。

 推測するに、おそらくこの5、6年のインターバルの間になにかあったのではないか。

『大阪ハムレット』 光石富士朗

2009-01-24 02:04:00 | 映画
 先週末から公開されている『大阪ハムレット』という映画は、なかなかにしみじみとした味わいのある小品であった。すでに忘れ去られて久しい大阪の市井を扱ったローカル・コメディが、何の前触れもなく復活している。

 大阪を舞台にしたものというと、漫談的な哄笑か、暴力団や悪徳金融、ヤンキーの抗争、そうでなければ、逆に『赤目四十八瀧心中未遂』(2003)のような極度のスノビズムなど、どぎつくステレオタイプ化された印象が強く、どうも辟易とさせられてしまうと同時に、いくらなんでもそんな認識では大阪の人に失礼だ、太閤殿下の時代からあれほど厚みある文化空間を現出させた大都市なのだから、そんな浅薄な認識はポスト戦後的戯画の反映に過ぎず、「本当の大阪」はもっと他の、私の知らぬ所にあるのだと言い聞かせていたのだった。
 しかし『大阪ハムレット』が、西成区の岸里玉出という(変な名前の)街にうごめくベタついた人情を描いた群像劇であるにもかかわらず、どこか超然として涼しげであるのは、監督の光石富士朗自身が東京の人間であり、外部からの醒めた視線を通しているゆえであろうか。

 私個人の以前からの謎として、なぜ大阪にはかつてあれほど非常に雰囲気のいい人情噺──たとえば五所平之助の『大阪の宿』(1954)を筆頭に、豊田四郎『夫婦善哉』(1955)や川島雄三『わが町』(1956)など、あとは『ぼんち』(1960)や『王将』(1948)、『浪華悲歌』(1936)あたりまで加えてもいいが、そういう、デタラメな感じの中にしっとり、しみじみと心が思わず豊かになっていくような空間を現出させた大阪映画の数々──が幾つもあったのに、今ではすっかり影も形もなく、かくもどぎついこけおどしに占拠されてしまったのか、という謎があるのだ。
 あとは、現代の大阪を使って『トウキョウソナタ』を撮ることはできないのか、せいぜい『ホームレス中学生』しかできないのか、という謎もある。
 それともこれらは大阪の謎などというものではなく、上記作品を並べた私自身がただ単に、八住利雄や織田作之助の世界が好きである、ということだけなのであろうか。
 ともかく『大阪ハムレット』には、そういう情感の残り香がたしかにあったのだ。


1月17日(土)より、シネスイッチ銀座など全国で順次公開
http://www.osaka-hamlet.jp/

さらば、ベニサン・ピット

2009-01-21 02:06:00 | 演劇
 新大橋の芝居小屋ベニサン・ピットが閉館すると聞いていたので、今夜、最後の上演作品を見に行けたのはよかった。今後1ヶ月の間に見たい芝居がちょこちょこあり、時間の許す限り少し劇場に足を向けたいと思っている。
 それにしても、下町・深川の住宅街の只中にひっそりと建つ無骨なレンガ造りの、尖んがった試みを25年間も続けてきたこの貴重な劇場が、老朽化を理由になくなってしまうのは、非常に淋しく悲しいことである。親会社の染色業者・紅三はいつか、同じ地に劇場を新築して再出発してもらいたいし、間違ってもマンションなんかが建たないよう祈っている。しかしこの辺でいうと、佐賀町の「食糧会館」もマンション建設地になってしまったし、人形町の小洒落たホテル「吉兆」もマンションへの転換を目的に、まもなく解体工事が始まろうとしている有様だから、そうした危惧もあながち図星でないとも限らない。

 最後の演目は、トム・プロジェクトの『かもめ来るころ』(作・演出 ふたくちつよし)。2004年に逝去したノンフィクション小説家・歌人の松下竜一の反権力闘争の生涯を、もっぱら妻との会話のみで語り継いでいく。テーマを豊前火力発電所の建設反対運動に絞り込んでいることで、作家・歌人としての、運動家としての、またひとりの夫としての、松下の生きた姿勢が非常に明確となった。やや単線的にストーリーが流れていくのは、劇構造として冒険がなさ過ぎるとも感じたが、松下を演じる高橋長英、妻を演じる斉藤とも子の演技そのものを見る作品であるがゆえに、これでいいのだとも言える。