荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『アイアンマン』 ジョン・ファヴロー

2008-09-30 23:33:48 | 映画
 『アイアンマン』には大らかな肯定の意志が宿っている。米国型スーパーヒロイズムを与太者が擁護するというそのポジショニングのはた迷惑ぶりが絶妙だ。アメコミ的スーパーヒーローなどにはまったく興味がないどころか、スクリーンには視線を投じながらも心では目を背けている私のような人間にこそ向けられた作られ方をしており、よりによってロバート・ダウニーJr.のごとき酒臭い中年俳優にわざわざ主人公を託したり、ジェフ・ブリッジスにパワフルな悪役を任せたりしていることで、その意図が分かりやすすぎるほどありありと現れている。

 軍需産業の若く高慢な経営者が、アフガニスタンで人質となった経験から、これまでの「死の商人」としての半生を初めて深く恥じ、一転して軍需産業とテロリズムの癒着を影で司る不正と戦う、という物語はじつに馬鹿馬鹿しいものではあるのだが、卑劣な武器商人や新兵器で武装したテロリストたちの悪行を打倒するために、もっと凄い新兵器を嬉々として開発してみせる主人公、その威力を見て敵がまた狂喜してしまうという皮肉の効いた展開は、非常に的を射ていると言うしかないだろう。
 映画と映画観客間の和解調停係のような映画であり、それ故にかえって、幾ばくかの侘びしさも感じてしまうのは、観客側の勝手な同情というものだろうか。


日劇PLEX他、全国で上映中
http://www.sonypictures.jp/movies/ironman/

井関種雄から、川崎弘子へ

2008-09-27 06:30:00 | 映画
 先日、葛井欣士郎の自伝インタビュー本『遺言』(河出書房新社)について書いたが、本書の中で非常に印象深かった点は、ATGの2人の創設者、東宝副社長の森岩雄と、葛井自身の当時の所属会社であった三和興業の社長・井関種雄(ATG初代代表)という2人の故人に、葛井がなんどもなんども感謝の言葉を述べていたことである。

 偶さかこれと相前後して、五所平之助監督の『わかれ雲』(1951)を見、この作品のスポンサーが三和興業社長の井関種雄であるという事実の一致に遭遇した。つまり、1948年に勃発した東宝争議の際に先頭に立って運動したために、赤化した立場が敬遠されて独立プロでの活動を余儀なくされた五所平之助が、ノー・スター、信州オールロケで撮りあげたインディーズ映画の草分けのような作品なのだが、これが非常に素晴らしいもので、清水宏の『按摩と女』あたりと較べても遜色がない。嘘だと思ったら実際にご覧いただきたいものだが、風景と人間の融合が素晴らしい(なんとも貧弱な評言だが)。
 ちなみに『お化け煙突の世界』(ノーベル書房 1977)という本の中で、五所自身、1000万円予算でのオールロケだから、「ATG1000万円映画は『わかれ雲』からじゃないのって、冗談言ってるんですよ」と語っている。

 殊に、蒲田の元メロドラマ女優・川崎弘子(1912-1976)が、戦争未亡人となって山奥の旅館で働く年増女中という脇役で出演しているのだが、プレイボーイ福田蘭堂の夫人に収まって引退していたところを、五所本人が懇願して本作のために現場復帰させてしまっただけに、実に心のこもった演出が施されて、正直、川崎弘子はこんなにいい女優だっただろうか、と思うほど絶品の演技であった。
 だから映画はやめられないのだ。たとえば、ほんの数年前に作られたに過ぎない『マトリックス』が、70年前のエドガー・G・ウルマー作品よりはるかに古臭くなってしまう一方で、信州の片隅でちまちまロケされた作品が、現在という時制にこんなにもこんこんと息づいてくれるのだから。

 備忘録として記載しておくならば、彼女は戦前、蒲田の若手スター監督の膨大な量の以下のリスト作品に出演している。

▼小津安二郎
1930 『朗かに歩め』
1931 『淑女と髭』
1932 『また逢ふ日まで』

▼清水宏
1929 『ステッキガール』
1930 『真実の愛』『岐路に立ちて』『海の行進曲』『青春の血は踊る』『霧の中の曙』『新時代を生きる』
1931 『銀河』『子の母に罪ありや』『青春図絵』『七つの海 前篇・処女篇』
1932 『七つの海 後篇・貞操篇』『満州行進曲』『学生街の花形』『暴風帯』
1934 『金環蝕』
1935 『双心臓』
1937 『金色夜叉』
1939 『居候は高鼾』
1941 『暁の合唱』『簪』
1942 『兄妹会議』

▼成瀬巳喜男
1930 『不景気時代』『愛は力だ』

▼五所平之助
1930 『独身者御用心』『処女入用』
1931 『若き日の感激』
1932 『天国に結ぶ恋』『不如帰』『恋の東京』
1934 『さくら音頭』『生きとし生けるもの』
1935 『花婿の寝言』
1936 『新道 二部作』

 特に、1930-32年あたりの切れ目のない使われようからは、彼女が監督たちからいかに愛されていたかがわかるだろう。上記中、見られるものの中で私が好きな作品は、小津の最高傑作の1つ『淑女と髭』(1931)、そしてモダニズムの権化(上野耕路あたりが音楽を新録したがりそうな)のごとき『金環蝕』(1934 清水宏)といったところか。同じく清水の『簪』(1941)が以前、東京フィルメックスで上映されたところ、観客投票でベストワンとなったと聞いた。たしかに『簪』もなかなかいい作品ではあるが、『簪』はトーキー以後の作品であり、川崎弘子というと、基本的にはサイレント映画のヒロインというイメージなのである。

 上記リストを見てもわかるように、清水宏だけは拘泥して後年まで使い続けるが、彼女の出演は野村浩将などのベテランか新人監督中心の、よりコマーシャルな作品が増大していき、上記監督作品への出演は途絶えてしまっている。ただし戦後となった1946年、溝口健二が『歌麿をめぐる五人の女』で、ついに彼女を起用するのである。

クリストフ・ルセ+マリア・バジョ『Arias de zarzuela barroca』

2008-09-24 06:31:00 | 音楽・音響
 先月、セビージャ・セントラル街の「エル・コルテ・イングレス」で購入した、クリストフ・ルセとレ・タラン・リリークの演奏による『Arias de zarzuela barroca』というアルバムをきのうやっと聴き、これが予想を超えた美しくきらびやかな音楽であった。ヴォーカルはマリア・バジョという人。

 「zarzuela barroca(サルスエラ・バロッカ)」とは、バロック期、つまりボウルボン朝(ブルボン朝)下のスペイン帝国で流行した、詩の朗読、オペラ形式のアリアと当時の流行歌、民族舞踊がごった煮となった叙情的な上演音楽のこと。サルスエラを聴くのは初めてだが、なんともしっとりとして美しいアリアがこれでもかと襲ってくる。欲を言えば、こういうメロディ映えするアリア集ではなく、もっと上演自体の総合的再現を聴きたかった。
 バロック様式は、美術・建築・音楽ともに18世紀中盤以降は長きにわたって「歪んだ真珠」と侮蔑的に呼ばれ、その厳格なる不規則性および歪んだありようが忌み嫌われてきたが、20世紀に入ってから突如として再評価されることとなった。映画ファンにはお馴染みストローブ=ユイレ『アンナ・マクダレーナ・バッハの日記』(1968)も、この点での功績をやはり過小にとらえてはなるまい。ストローブ=ユイレというパイプを通して、J.S.バッハ=レオンハルトが現代音楽と通底したと言える。

 サルスエラは、膨大なバロックというジャンルの中でもとりわけ非-禁欲的な音楽かと思われる。ひょっとすると、フランスのアンサンブルの演奏ゆえに、悦楽性が強調されてしまったのかもしれず、後年のバロック・オペラより遙かにモーツァルトの近所にいる。往時は王族、諸侯から一般民衆までを熱狂させたらしいが、やがて絢爛豪華なるイタリア・オペラが輸入されると、すっかり衰退してしまったらしい。それが今日、再び甦ってきたわけだ。


「ナイーヴ・クラシック」レーベルHP
http://www.naiveclassique.com/

『ウォンテッド』 ティムール・ベクマンベトフ

2008-09-21 08:50:00 | 映画
 この土曜日から上映開始された、アンジェリーナ・ジョリー主演のアクション映画『ウォンテッド』の監督は、ティムール・ベクマンベトフという名前である。まるでペルシャか中央アジアあたりの皇帝のごとき立派な名前であることよと感心していたのだが、友人Hにこの監督の出自を問いただすe-mailを夕べ出してみたら、先ほど返事が来た。結論から言うと、中央アジアという推理は当たり。わが地理・歴史感覚も伊達じゃないわい。以下は、友人Hからの返信の引用である。

 “ ベクマンベトフはカザフ人です。アジア人の顔をしています。1961年生まれ。監督になるきっかけはマルコ・フェッレーリを見たことだそう。徴兵されソ連兵をやっていた時には、まさかハリウッド映画を撮るとは夢にも思わなかったとのこと。
 『デイ・ウォッチ』『ナイト・ウォッチ』という二部作をロシアで大ヒットさせて、米国進出しました。後者は見たが、私はそれほど面白いとは思わなかった。しかし確かにロシアというよりは、異教的というかオリエントの香りが漂っている映画でした。”

 以上がe-mailの内容であった。『デイ・ウォッチ』『ナイト・ウォッチ』共に私は未見である。なるほど、ソ連と米国の間にはじつは多大なる親和性があるというのが、わが少年時代からの持論なのだが、こういう履歴の判明もその一例証なのである(20歳以下の方々はびっくりなさるでしょうけれど、カザフスタンは昔、ソ連を構成する一共和国だったのですよ)。また、ブログ「MINER LEAGUE」の主人が最近指摘していたアレクサンドル・ソクーロフのペキンパー的スペクタクル性というのも、例証その2である。
 嘘だと思ったら、レフ・クレショフやボリス・バルネットを見てみてごらんなさい見てみて!(加東大介ふうの力説口調 …「艦長、これで勝っててごらんなさい、勝ってて」)

 …お後があまりよろしくないが、しかしともかく、持つべきは友であるという教訓を改めて得た。


『ウォンテッド』は日劇PLEX他、全国で上映中
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『お國と五平』 成瀬巳喜男

2008-09-18 10:28:00 | 映画
 CSにて成瀬巳喜男監督の『お國と五平』(1952)を。戦争末期に撮られた『三十三間堂通し矢物語』(1945)を未見であるため、私にとって初めて見る成瀬の時代劇。『めし』『おかあさん』と『稲妻』(いずれも1952)の間に作られ、これはまさに成瀬の絶頂期にあたるが、現代劇専門だった成瀬としては、異色作であることは間違いない。
 ところが、フィルムアート社から出ている『映畫読本 成瀬巳喜男 透きとおるメロドラマの波光よ』(1995)というムック本を参照すると、「主役三人の愛欲心理の葛藤の表現に至らず情緒に流れた失敗作として、彼のフィルモグラフィーでは黙殺された形。」と、酷たらしい書かれようである。同時代の批評ではたしかにそう言われたのを、客観的に記録し直しただけかもしれないが、どうも納得しかねる。

 騙し討ちに遭った亡き夫のために、あだ討ちの旅に出た奥方様・お國(木暮実千代)と奉公人・五平(大谷友右衛門 のちの4代目中村雀右衛門)が、仇になかなか遭遇できないまま、幾歳月を宿場から宿場へと渡るうちに、身分違いの心の通じ合いに苦悩し始めるという、ふたを開けてみると、ストレートなまでに成瀬的な主題である。
 不自由もないが愛もない結婚生活が、夫の不慮の死によって中断を余儀なくされた奥方様にとって、あだ討ちの旅路を支えるモチベーションはいつの間にか、「貞女の誉れ」を証明することではなく、忠義を尽くしてくれる奉公人と共に二人で歩き、同じ宿で荷を下ろす心のときめきに変わってしまっている。女は、「このまま仇が見つからず、こうしてこの奉公人と永遠に旅を続けられたら、どれほど幸せであろう」とまで考えるようになる。しかしあの成瀬が、そうした穏便な運命を、主人公たちに与えるわけがないのである。

 旅の先々で聞こえてくる、虚無僧の奏でる尺八のうら寂しい音色は、夫の仇(山村總)が出奔前によく吹いていた尺八の音色を連想させ、愛し合い始めた二人の背後に、べったりと幽霊のように張り付いて離れない。