荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『夜の鳩』『地熱』から見えてくる竹久千恵子のただならぬ影について

2012-01-29 14:27:26 | 映画
 織田作之助が42歳で逝った武田麟太郎を追悼する一文(1946)を偶さか読んでいたところにもってきて、つい最近スカパー!で、武田がみずから腕をふるったシナリオ『一の酉』を石田民三がJ.O.スタジオ(やがてP.C.L.と共に東宝へと糾合する京都のスタジオ)で撮った『夜の鳩』(1937)を見る機会を、奇しくも得たのであった。
 都市生活者の憂鬱な刹那を詳細に描写し続けた武田麟太郎に、織田作がシンパシーとリスペクトを抱いていたことはよく理解できる。そしてなんといっても、石田民三の演出のじつに細やかであるのには恐れ入った。すでに一部では高評価を得てはいるが、より広範な再評価が期待できる映画作家である。私が石田のすごさを知ったのは、1995年に筒井武文が書いた記事によってであり、それからようやくぽつぽつと見始めたのだった。

 『夜の鳩』において浅草・馬道あたりの居酒屋で酌婦をやっている「おきよ」さんというヒロインに血を通わせたのは、年増の色香を発散してやまぬ竹久千恵子という女優の存在だ。溌剌としたモダンさがきわだつ初期の東宝女優たちにあって、この影は異質で、夜の生活が祟ったか、25歳にして「おきよ」さんはみずからの美貌の衰えを嘆いてやまない。そして、ついちょっと前まで浅草界隈で1、2を争う看板娘であったプライドが、「おきよ」さんをいっそうかたくなにするのである。
 竹久千恵子は、山本嘉次郎『新婚うらおもて』(1936)や斎藤寅次郎『思ひつき夫人』(1939)といったナンセンス・コメディにおけるお内儀役もはまっているが、やはり、呆然と立っているだけで淪落の匂いを漂わせる女が、一番似合う。そのいい例が『夜の鳩』であり、三好十郎の原作を鳴滝組の滝沢英輔が映画化した『地熱』(1938)での、炭坑町の勝ち気な酌婦役がこれにとどめを刺すだろう。この仇っぽさは、ただごとじゃない。
 滝沢と山中貞雄ら鳴滝組は、前年に同じく三好十郎の『戦国群盗伝』を前進座と組んで映画化したし、歴史的にはそちらのほうが有名だが、私は個人的には『地熱』のほうを愛する。竹久千恵子、石田民三、鳴滝組といった1930年代が生み出した幾重ものトライアングルをつぶさに眺めていると、『人情紙風船』(1937)のニヒリズムは突然変異ではないことが手に取るようにして分かってくるし、この種子が戦後の川島雄三、三隅研次、さらには神代辰巳をも生み出したのだと思う。

『贖罪』 黒沢清

2012-01-27 02:02:27 | ラジオ・テレビ
 15年前、小学校の校庭で5人の女児が遊んでいて、その中から最も華やかな少女エミリが選ばれ、体育館に連れ去られてから殺される。エミリの母(小泉今日子)が娘の誕生日に、4人の少女たちを招待し、「あんたたちは、目の前でエミリが殺されようとしているのに、助けなかった。犯人が依然として捕まっていないのは、あんたたちが役立たずだからだ。犯人を捕まえるか、償いをするかしなさい。さもなければ、私はあんたたちを絶対に忘れないし、赦さない」と、トラウマになるような激白を4人の少女に投げつける。こうして物語はおずおずと始まり、15年後の本題へと入っていく。

 周知のごとく、黒沢清の作品において物語はたいていその冒頭で、決定的な何かがあっけなく起こってしまっている。本来は主人公になるべきだった人物の失踪、誘拐、自殺、入獄などによって、物語がいったんガクっと始まり損ねた後に、その骨を拾う人間なり、指令じみた遺言やら符牒やらに誘われて前任者の宿命や使命を代行しようとする人間が現れ、この人間が無知から知に転じていくにしたがって、画面内の現実が激しく歪曲していく。そして、あたかもそれは、ファッショの原始的発生を体現するかのようでもある。

 黒沢清にとって初の連続ドラマとなった『贖罪』でも、決定的な事柄(女児殺害)は、まず最初に起こってしまう。そして、犠牲者(今回の場合はエミリ)を見殺しにする恰好となった4人の少女の償い、過去の落とし前を、ひとつひとつ検証していく。
 まだ物語は半分を過ぎたに過ぎないから、今後の放送でどうなるかは見当もつかない。だが連続ドラマという特性ゆえ、これまでの黒沢作品のように、選ばれし代行者によって世界が変質していくというような状況に掘り下げていくという構成をとらず、禍々しい精神性の伝染を水平に平らげていくのが興味深い。つまり、「世界の秩序を回復せよ」といった直裁的な指令を孤独に受信する役所広司やオダギリジョー、洞口依子といった別格的な代行者が現れるのではなく、「この彼女の場合は」「そしてあの彼女の場合は」というふうに、横へ横へと広がっていく。その広がりを受け止めるエミリの母は、15年間喪服のような黒い衣装を着続け、被害者としての特権的地位を振りかざす『黒衣の花嫁』であると同時に、フリッツ・ラングの『死滅の谷』(1923)で闇の中、ロウソクの炎を1本1本消していく “疲れ果てた死神” でもある。
 今後の『贖罪』は見逃せない。


WOWOWで毎週日曜よる10:00から放送
http://www.wowow.co.jp/dramaw/shokuzai/

『がめつい奴』 千葉泰樹

2012-01-24 13:02:12 | 映画
 大阪・釜ヶ崎でドヤをいとなむ強欲な婆さん(三益愛子)を中心に、吹きだまりの人間模様を、千葉泰樹がドロドロと油っこく撮った『がめつい奴』(1960)。その後は同名のテレビドラマも放送されたから、子どもの頃からこのタイトルだけは知っていて、訳もわからず大阪という街にあこがれを持っていた思い出について、以前にも拙ブログには書いたことがあったけれども、さすがにここまで辛気くさいドラマとなると、子どもに興味を持てというのは無理である。
 そして今回、ついに現物を見る機会を得たのだが、これがすこぶる面白い。「がめつい」という、現在でもよく使われる形容詞は、本作の原作戯曲を書いた東宝取締役の菊田一夫の造語で、それ以前には関西にもなかった形容詞だというから、社会的影響を大いにもたらした作品ではある。それにしても、関東の地でぬくぬくと暮らす輩が、かえってこんなのを好んで見る傾向があるのは、昔から変わらなかろうという自覚くらいは私にもある。

 原作戯曲が菊田一夫指揮下の芸術座(東京・日比谷 現在のシアタークリエ)で初演され、ロングランしたのは1959年から。名手・千葉泰樹が舞台版と同じ三益愛子を使った映画化は翌1960年であるから、松竹ヌーベルバーグ版『がめつい奴』とも言うべき大島渚の『太陽の墓場』と同時期の作品ということになる。
 ちょっと検索してみると、『太陽の墓場』が8月9日に松竹系で公開、『がめつい奴』がこれに遅れることわずか1ヶ月、9月18日東宝系で公開とある。こういうタイミングは、偶然ではないのだろう。当時の観客はこういうドヤ街を扱った作品を、現代人がホーンテッドマンションに入場するのと同じような怖いもの見たさで、そのどぎつく不衛生な人間模様を、おやつを食べながら楽しんだのにちがいない。

 森雅之の演技が楽しい。かつて釜ヶ崎一帯を所有した一族の元令嬢で今はホルモン焼の屋台引きに身をやつした女(草笛光子)の体を奪った上に、言葉たくみに女から土地の権利書まで巻き上げる強欲なポンコツ屋を、嬉々として演じていた。田中眞澄ほか編『映畫読本 森雅之』(フィルムアート社)に1枚も本作のスチールが載っていないのが残念である。なお、本書の年譜にしたがえば、この年の森雅之は、成瀬巳喜男2本『女が階段を上る時』『娘・妻・母』の後にこの『がめつい奴』、それから黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』、市川崑『おとうと』と続く。スタジオ・システム最後の輝きが、森雅之の華奢な肉体を透過して浮かび上がるかのようだ。


神保町シアター(東京・神田神保町)の特集《川口家の人々》で上映
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

『テトロ 過去を殺した男』 フランシス・F・コッポラ

2012-01-22 12:16:17 | 映画
 前作の『胡蝶の夢』(2007)といい、今回の『テトロ』といい、コッポラがどこかすごい領域に行ってしまったらしいことは、多くの人の感嘆するところで、私もそれに大いに賛同する。愛娘ソフィアの監督としての成功によって生じた刺激が、ワイナリー経営に転向しつつあった父の時ならぬ何度目かのピークを──いや、ひょっとするとこれは、彼にとって最高の時代ではないのか──呼び寄せたのであろうか? そして今のコッポラならば、たとえばオリヴェイラやペドロ・コスタと対抗することもじゅうぶんに可能ではないだろうか。
 『テトロ』でいぶし出されるモノクロームの陰影は、デジ撮影ながら目を細めてしまうほど鮮烈である。物語は、父と息子の相克、兄と弟の相克、アメリカとラテンアメリカの相克など、矛盾が幾重にも折り重なり、現代という時代があたかも50'sアメリカ映画に相応しい時代であるかのように、作家は仕向けていくのだが、その手さばきがあざやか過ぎる(またそうした相克は、『ゴッドファーザー』から『ランブルフィッシュ』にいたるコッポラ自身のフィルモグラフィを彩ってもいた)。
 舞台となるのはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスだが、そうした認識だけでは、この映画の根底を理解するためには不十分であろう。ここはブエノスアイレスの中でも、ラ・プラタ川の河口に面した港湾地区「ラ・ボカ」である。王家衛『ブエノスアイレス』(1997)の舞台ともなったこの地区は、国内大多数のスペイン系というよりもむしろ、イタリア系の移民が歴史を精魂こめて作りあげ、19世紀の雰囲気を今に伝えている。「南米で最もヨーロッパ的」と評される大都会ブエノスアイレスきっての下町であり、タンゴの中心地でもある。
 マラドーナがなぜボカで活躍したのか? Maradonaという苗字の響きを聞けば分かるように、メッシやサネッティ、マスケラーノと同じようにそれがイタリア系であることを示しているのである。ちょうど本作のタイトル “テトロ” の元となった主人公たちの一族の苗字 “テトロチーニ” が、明らかにイタリア系であろうことと符合するかのように。オーケストラ指揮者を頂点とするイタリア系のテトロチーニ一族は、同じくイタリアを父祖にもつコッポラ一族の鏡像であり、コルレオーネ一族の分身でもある。


シネマート六本木、シネマート心斎橋で公開中
http://www.cinemart.co.jp/

《北京故宮博物院200選》@東博

2012-01-18 02:35:19 | アート
 東京国立博物館でおこなわれている《北京故宮博物院200選》の常軌を逸した大混雑は、いったいどういう理由でこうなるのか、私には見当もつかない。日本国内のトレンドはどちらかというと嫌韓、嫌中といった排外主義に達した観があるが、それとあべこべのことも、たまにあることはある。同展のホームページには、会場に入るまでに「40分待ち」、“神品” と喧伝される張択端の『清明上河図』を見るための列は「210分待ち」などと、気の遠くなるような情報が掲載され、リアルタイムで待ち時間情報が更新されている。
 私としてもあまり作品そのものに集中できぬまま、あっという間に閉館時間となってしまい、時間がまったく足りない。それでも最高度のものがかなり来ていて、『清明上河図』以外にも、米友仁『雲山墨戯図巻』、李迪『楓鷹雉鶏図軸』、夏珪『遙岑煙靄図冊』、そして趙孟頫『水村図巻』といった有名画家による絵画をはじめ、玉器、青銅器、漆器、陶磁器、文房具、書、仏教美術など、一生に一度は見ておくべき美の基準がそこにはあった。
 真の優品の過半数が北京故宮(紫禁城)にではなく、台北故宮(蒋介石の邸宅の近隣地区)に所蔵されていることは、近代史の語る歴然たる事実であり、またそれは美術ファンの常識でもあるのだが、今回は改めて、北京故宮の所蔵品のすばらしさも再認識した次第だ(私は北京に行ったことがない)。中国政府は今後、GDPで日本を抜き去った圧倒的な経済力を盾に、台湾政府に対して「台北-北京 両故宮の統合」を強引に提案、推進してくるかもしれない、と私は予想している。

 ひとつイチャモンをつけておくならば、今回の展示はあまりにも時代が清に偏りすぎている。清の芸術は、以前に〈存在した〉美の模倣であり、オマージュとしての性格を濃厚に有する。技術的な進歩、材料の進歩ゆえ見た目には美しいが、精神性に凄みはない。徳が以前ほどではないのである。
 これはようするに清が、ツングース系の女真族による征服王朝であることと深い関連がある。一握りの少数民族が何百倍もの人口を有する漢民族を相手に専制支配を続けるためには、あらゆる面で朝廷の正統性を掲げなければならない。これはアートにおいても同様なのである。こうした政治的理由により、清の芸術は、日本のようにオルタナティヴな前衛性をまとうこともなく、見た目の正統性をパラノイア的なまでに追究し、中華思想への恭順、既存の美の守護を推進している、とそう思えるのだ。建前と本音が一緒くたになった世界である。


《北京故宮博物院200選》は東博(東京・上野公園)で2月19日(日)まで開催中(※張択端の『清明上河図』は1/24までの期間限定だそうです)
http://www.kokyu200.jp/