荻野洋一 映画等覚書ブログ

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200回忌一日だけの鳥居清長展 @両国・回向院

2014-07-28 01:02:35 | アート
 さる6月21日、東京・両国の回向院で《200回忌一日だけの鳥居清長展》が開催された。名前のとおり、わずか一日だけの贅沢きわまりない展観であった。告知も広範囲というわけではなかったにもかかわらず、展示会場の回向院念仏堂には、驚くほどたくさんの清長ファンが来場した。清長の浮世絵を、こうしてたくさんの人と共有するのはすばらしい体験である。ただし、すこしは記録めいたものがないと、こういう催しがあったことすらすぐに忘却の彼方に去ってしまい、なかったことになってしまう。だから少々遅きに失し、なおかつ浅学の無様をさらしてもなお、こういうことがあったということを記しておきたいのである。
 ことの始まりは昨年である。清長没後200年を迎えるに際し、回向院ご住職の発願、そして有志の協力によって顕彰碑が建立された。私もこの趣旨状を受け取り、些少ながら賛同したひとりである。鳥居清長(1752-1815)は回向院に眠っているが、大正時代にはすでに墓石が失われ、過去帳に法名などを見出すのみとなっていた。今回あらたに建立された清長の碑は、あの鼠小僧治郎吉の墓と向かい合うようにして建っている。ぜひ回向院にお出かけになってご覧いただきたく思う。

 今展を主導したのは、顕彰碑建立にも尽くした「江戸文物研究所・内村美術店」(東京・日本橋人形町)の主人・内村修一さんで、私はこの人と長く親しくさせていただいている。親しくというか、ようするに人形町・水天宮界隈の飲み仲間ということなのだが、一介の素人のくせにクソ真面目な美術論議をやりたがる私の厚顔な言動を、苦笑と共に受け止めてくれている。今展でも、清長お得意の役者絵、美人絵はもちろんのこと、磯田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい)、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし)あたりのいいものをまぎれ込ませて並べるところに、内村さんのキュレーションシップがかいま見える。とくに鳥文斎栄之は、これから本格的な再評価の波がおこってしかるべきタレントであるとかねてより思っていたのだけれども、どうだろうか。日本美術史には、第2第3の “伊藤若冲” 的スター候補はいくらでもいる。
 今展で面白かったのは、天明5年(1785)ころに描かれた『三虚無僧』だ。タイトルどおり3人の虚無僧の立ち姿が、清長特有のスラッと丈長なスタイルで描かれている。虚無僧といえば、時代劇などで見るかぎり編み笠を被っているイメージだが、この絵では被っていない。3人のうち一番右で尺八を吹いている人は女性で、あとの2人は男だということだが、なんか変だと思ったら男2人は女装しているのだ。虚無僧がなぜこんなお色気を発散させなければならないのか、清長の意図は浅学の私には分かりかねる。しかし私に言わせれば、これは代表作『大川端の夕涼み』をはじめとする、得意中の得意であった画題、三美人図のバリエーションにしか見えないということなのだ。ジェンダー的解釈を巻き添えにしつつ、浮世絵師・鳥居清長が現代の私たちに仕掛ける極上のいたずらである。

小備忘記

2014-07-26 16:48:36 | 身辺雑記
 きょう午後、胸部の痛みがつらく(むかしからの持病なのでご心配無用)、1時間ほど横になって休んだ。しかし単に横になっているだけでは勿体ないという、われながら貧乏性的根性で呆れるが、本を読んでいた。
 途中すこし眠ったようだ。1カットだけ、夢を見た。夢というものは記録しておかないと絶対に忘れてしまうし、ノートにつけてもどうせ紛失してしまうから、ブログに残しておくことにした。ブログを訪ねていただいた方々にはハタ迷惑な極私的記述だが、請了承。

 私の視点はあまり高くない中空にあり、7~8メートルほどの高さか。眼下には、白い真四角のテーブルがあり、どうやら私自身らしい者がイスに座ってなにやら作業に熱中している後ろ姿が見える。顔がよく見えないものの、おそらく私だろう。仲間らしい人物が隣に1人か2人くらいいるように感ぜられるが、実際にその姿は見えない。気配だけという感覚である。私は何をおこなっているのだろうか。ノンリニアで編集作業か、それとも書きものをしているのか。思い返すまでもなく、私のこれまでの時間の大半は、その2つの作業をするうちに過ぎていったのである。
 まあ、わが自己流の夢解釈としては、上から見下ろす私の視点というのは、おそらく死後の私であり、眼下にいる後ろ姿というのは現在の私のことであろう。命ある限りはせいぜい怠りなく作業に打ち込んでおきたまえ、という死後の自分からの叱咤なのだな、とそんなふうに都合よく解釈しておくことにした。プロの精神分析学者なら何と言うかには、さして興味はない。

『Dressing UP』 安川有果

2014-07-25 21:39:06 | 映画
 抑えきれない暴力衝動をかかえた主人公の少女(祷キララ)は、自分がまだ2歳の時に死んだ母親の秘密を調べはじめる。母はどうして死んだのか。発見した母の日記には狂気と破壊衝動がつぶやかれている。徐々に母親の狂気が少女の体内にも入りこみ、少女は狂いはじめる。父親(鈴木卓爾)にはもう娘を腫れ物扱いすることしかできず、学校では魔女のように畏怖の対象となる。12歳の子役を使って、なんとも奇怪な映画が作られたものだ。
 狂気を宿した少女の孤独な彷徨、苦悩、悪夢。少女役の祷キララの素晴らしい非演技(超演技)は、ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』を思い出させる。けれども本作はブレッソンの写実に留まろうとしない。思いきった特殊メイクの導入でブレッソンとクローネンバーグを合体させようとしている。時として少女の顔は醜く爛れ、めくり上がり、グロテスクなケロイドが肥大する。フランシス・ベーコンの描く人物画のように、生の悲しみ、怒り、苦痛が表面に露出してしまうのだ。亡き母親の怪物性と一体化する少女。
 しかし、醜い怪物と化し、狂気に苛まれるのは少女(=母親)だけではないはずである。事なかれ主義で事態をやり過ごしてきた父親の内面だってボロボロなのだろうし、少女の同級生たちの屈託のない中学生活も、一寸先は闇、全員の顔面も一皮むけば、つまりフランシス・ベーコン的視点から見れば、醜く崩れているのではないか。だから本作は怪奇幻想譚とも言える一方で、少女がベーコン主義者のビジョンを獲得していく物語とも言えるのだ。
 観客である私たち自身の肉体にしたところで彼女やベーコンから見れば、ボロボロに引き裂かれ、滑稽にぶら下がり、醜く矮小化しているにちがいない。私たちの内面は日々の生の中で間断なく大ケガさせられている。私たちは、主人公の少女が体得するビジョンをみずから放棄し、忘却したことによって、おたがいの顔の醜悪さに気づかずになんとか正視できるのであり、みずからの肉体の滑稽さにかろうじて耐えられるのであろう。
 上映時間わずか68分の低予算作品だが、深い絶望から目をそらさずに作られており、気品さえ漂っている。


田辺・弁慶映画祭セレクション2014(テアトル新宿)で上映
http://www.ttcg.jp/topics/2014/tbff-collection2014.pdf
nobodyサイトにおける松井宏のレビューも請参照。
http://www.nobodymag.com/journal/archives/2014/0128_1427.php

青山真治『東京公園』&山田洋次『吹けば飛ぶよな男だが』をApple TVで試し見す

2014-07-23 03:10:59 | 映画
 近所で唯一のレンタルビデオ店が先日つぶれてしまい、レンタルビデオ難民となること数週間。つぶれた店の名前は「SHINBOW」といい、近隣の住民たちのあいだでは、揃えたタイトル数への不満ゆえ「SHINBOWで辛抱しよう」というのがもっぱら合言葉になっていたわけであるが、それはわれわれにとっては、親愛の情を逆説的に表象するニックネームのごときものであって、断じて本気であの店をディスっていたわけではない。
 ただ、いざレンタルビデオ店を失ってみると、その喪失感たるや絶大であって、難民としての悲哀が充満するにまかせるほかはなかった。「とはいえ、お前は都心に住んでいる身だ。その気になれば、新宿まで15分、渋谷まで17分の距離ではないか」と、私の中のもうひとりの私が私を冷静に諫める。新宿と渋谷のTSUTAYAは、品揃えという点で日本一を競い合っている。私も、誰か映画作家のまとまった批評を著す際には、この2店のお世話になったりしたものである。
 ただ、レンタルビデオの使い方というのは、そういう気合いの入った使い方だけではないのではないか。一日の仕事を終え、駅前の居酒屋で少し飲んで、それでも元気が持続しているとき、近所のレンタル屋でホラー映画の旧作を借りてみたくなるというようなことは、誰にだってある。街場のレンタル屋を喪失するということは、そういう恣意的な鑑賞体験が奪われるということを示している。私の現在の地元は東京・日本橋地区で、最近「TOHOシネマズ日本橋」というシネコンが開館して、ロードショー鑑賞には理想的な環境となったのだが、その代わり、レンタルビデオが皆無となってしまった。これも、現代の都市状況の一端をしめす好例なのであろう。

 ビックカメラのポイントを吐き出して、「Apple TV」というデバイスを購入してみた。これは、iTunes Storeでダウンロードした映画(購入したタイトルもレンタルしたタイトルも)や、YouTubeの検索映像、そして自分の音楽ライブラリを、Wi-Fiを使って自宅のテレビに転送し、大画面で視聴できるようにするセットトップボックスである。これまでiTunesでダウンロードした楽曲のPVは、(パソコンのモニター上で見る限りは)さして画質的に優れているとも思わなかったので、きょう「Apple TV」の実機を売場で眺めても、正直なところ疑心暗鬼だった。店員にデモしてもらって「あぁ、これなら、まあいいか」と納得した。
 買って帰り、デバイスとテレビをHDMIケーブルで接続して、さっそく青山真治監督『東京公園』(2011)、山田洋次監督『吹けば飛ぶよな男だが』(1968)の2本の映画、そして何曲かのPVを立て続けにダウンロードして視聴してみた。結果は期待以上で、これはNHK-BSプレミアムやWOWOWのオンエアを予約録画したのと遜色ない画質・音質である。少なくとも、パソコンのモニター上で見るよりも画質は飛躍的に向上している。
 今後、現代の大都市中心部では、レンタルビデオ難民が激増するのではないか。是枝裕和の『空気人形』では、東京・中央区の佃島のレンタルビデオ店がメイン舞台として描かれていたが、ああいう状況というのも、そう長くは続くまい。郊外の住宅街ではしばらく健在だろうが、都市中心部ではドーナツ化が進展するだろう。渋谷や新宿のTSUTAYAでレアなタイトル確保をするのと併行して、日々の平凡なレンタル経験の代替として、「Apple TV」はかなりいけるのではないだろうか。

『収容病棟』 王兵(ワン・ビン)

2014-07-20 02:01:03 | 映画
 このドキュメンタリー映画の舞台となる精神病棟が形成する「ロ」の字型の空間を、よもや「映画的」などと称したら不埒に過ぎるだろうか。中国西南部・雲南省の精神病棟のなかにカメラが分け入っている。四方八方を重度の精神異常者たちが徘徊する、と思いきや意外とおだやかな日常がある。ベッド下の洗面器に小便をドバッと垂れるシーンが何度も出てくるのには閉口するが…。だのに、なぜか大便がらみの不衛生描写は皆無である。そして、性欲がらみの描写が皆無なのはどういうわけなのか。ナースが単身で病棟内に入っていって、男性患者の尻にブスっと注射を突き刺したりするが、彼女と患者たちとのあいだで、まったく好色的なもめ事が起きないのである。どういうものだろう。
 本作における四囲の空間は、ドン・シーゲル『第十一号監房の暴動』の監獄空間がかもすドス黒い不快さと、ロベルト・ロッセリーニ『ロベレ将軍』の四囲空間で示される囚人同士のリスペクトの、ちょうど中間くらいの状況を素描しているように思える。王兵の前々作『無言歌』(2011)における、文化大革命の思想犯たちが入れられる、砂漠の洞穴のような収容所の苛酷さにくらべれば、平和そのものである(患者の中には思想犯も含まれていることが示唆される)。王兵は本作を通して、収容患者たちの不衛生な待遇を告発しているのだろうか。どうも、そういうものでもないようだ。しかしまあ、この病棟に入院しても、誰も病気が治らないことは、火を見るよりも明らかであるが。
 ただカメラを向けているといった執着のなさがいい。隣の住人を見るように、あるいは行きつけの飲み屋の常連を見るように、観客は、ここに出てくる患者たち各々の顔を完全に覚えてしまうだろう。年取った男性患者と、下の階の女性患者の鉄格子ごしの静かな交流には、すっかり時間が止まらせられた(しかし、女性患者は階段で上階下階と移動自由なのだろうか? それとも彼女の症状が軽いからなのか?)。第一部と第二部を、同日内に一挙に見終えることをお薦めする。


シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷宮益坂上)ほか、全国順次公開
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