「三池崇史に、もっと本格的な時代劇を撮らせてやりたい。そしてそれは、藤沢周平でも山本周五郎でもあるまい。三池なら、『七人の侍』にも拮抗しうるだろうが、黒澤明のリメイクは森田芳光と樋口真嗣に先を越されたし、だいいち黒澤のあの如何ともしがたい人道臭は、どうにも三池の極道流とは相容れないものがある。
だから、工藤栄一である。『七人の侍』ではなく、『十三人の刺客』(1963)の泥だらけのアナーキーな血のりを、〈現代の時代劇〉というぬくぬくとした遊園地に塗りたくってやろう。とにかく三池を大いに盛りたてて、世界の映画シーンにおいて “張藝謀や呉宇森に負けた” と言われないような剣劇アクションを、思いきり撮らせてやろうじゃないか。」
以上のような、この映画の製作者たちが熱く語り合っただろう思いの丈を、ひしひしと感受できる作品である。工藤版では御大・片岡千恵蔵が演った暗殺団の首領・島田新左衛門役に、今回は役所広司が当たり、ひょうひょうとした中にそこはかとなく狂気を宿すという、彼得意のパターンでこれを演じきった。
人間が描けていないなどと、三池のような確信犯に野暮を言っても始まるまい。とはいえ、武士道のなんたるかが登場人物たちのあいだでさかんに論議され、また実際にサムライどもの波乱に富んだ死にざまが、これでもかというほどしつこく撮影されている。しかし、どれほど大げさに目を剥いて昇天してみせたところで、死は所詮、退屈なまでに単なる死である。病死であろうが、立派に本懐を遂げようが、どっちでも同じではないか。派手にアクション演出が施されても、私は勝手に死というものの無情さ、徒労感のほうに吸い寄せられていってしまう。それとも、こういう感触が、三池の三池たる所以であったであろうか。私という観客と、作り手たる三池崇史の距離は、果てしなく遠い。
いずれにせよ、近年の三池映画は、予算の増大に反比例して衰えを隠しきれずにいたが、また少しずつ調子を取り戻してきているようにも見える(最近のものでは、『神様のパズル』は好きな作品である)。
TOHOシネマズ日劇など、全国で上映中
http://13assassins.jp/
だから、工藤栄一である。『七人の侍』ではなく、『十三人の刺客』(1963)の泥だらけのアナーキーな血のりを、〈現代の時代劇〉というぬくぬくとした遊園地に塗りたくってやろう。とにかく三池を大いに盛りたてて、世界の映画シーンにおいて “張藝謀や呉宇森に負けた” と言われないような剣劇アクションを、思いきり撮らせてやろうじゃないか。」
以上のような、この映画の製作者たちが熱く語り合っただろう思いの丈を、ひしひしと感受できる作品である。工藤版では御大・片岡千恵蔵が演った暗殺団の首領・島田新左衛門役に、今回は役所広司が当たり、ひょうひょうとした中にそこはかとなく狂気を宿すという、彼得意のパターンでこれを演じきった。
人間が描けていないなどと、三池のような確信犯に野暮を言っても始まるまい。とはいえ、武士道のなんたるかが登場人物たちのあいだでさかんに論議され、また実際にサムライどもの波乱に富んだ死にざまが、これでもかというほどしつこく撮影されている。しかし、どれほど大げさに目を剥いて昇天してみせたところで、死は所詮、退屈なまでに単なる死である。病死であろうが、立派に本懐を遂げようが、どっちでも同じではないか。派手にアクション演出が施されても、私は勝手に死というものの無情さ、徒労感のほうに吸い寄せられていってしまう。それとも、こういう感触が、三池の三池たる所以であったであろうか。私という観客と、作り手たる三池崇史の距離は、果てしなく遠い。
いずれにせよ、近年の三池映画は、予算の増大に反比例して衰えを隠しきれずにいたが、また少しずつ調子を取り戻してきているようにも見える(最近のものでは、『神様のパズル』は好きな作品である)。
TOHOシネマズ日劇など、全国で上映中
http://13assassins.jp/