荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ギマランイス歴史地区』 アキ・カウリスマキ他

2012-11-29 01:12:48 | 映画
 ポルトガルの古都ギマランイスが「2012年欧州文化首都」になったことを記念して製作された4話オムニバス。アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・ド・オリヴェイラとクラック級の監督が揃った。上映前のプロデューサーのスピーチによれば、今後もギマランイスで合計なんと40話が製作されるとのことで、「文化首都」なる冠は伊達ではないのである。
 「そもそも論」を持ち出して無粋だが、オムニバス映画というのは個人的にあまり波長に合わない。大映の『女経』なんかはかなり好きだが、あとはどうも。この日は努めて「オムニバスっていうのはリラックスして眺めればいいんだ」などとド素人のような念仏を唱えつつ、ポジティヴに見ようと心がけた。
 その甲斐あって、特にビクトル・エリセの『割れたガラス』には思わず胸を震わせた。10年前に閉鎖されたギマランイス市内の紡績工場の廃墟で、かつての従業員が代わる代わる就労時の回想を語る。全盛期はヨーロッパで第2位のシェアを誇ったこの名門工場は、いまや見る影もない。
 大食堂で昼食をとる何百人もの従業員を撮影した昔のパノラミックな巨大写真が、回想者たちの頭上に掲げられ、魔術的な効果を上げていた。「この写真に写っている人は、誰も存命していないでしょう」と、写真を見上げながら元従業員のひとりが言う。もはやこの世の人ではない肖像をカメラは目一杯アップでとらえ、数多くのカットを連打するエリセ。そのアップは驚くほど解像度が高く、死者たちの遺影が異様なまでに精気を帯びてくる。スクリーンを見つめる私たちの方が、あやうくこの古い写真の中へとおびき出されていくようだ。


第13回東京フィルメックス〈特別招待作品〉部門で上映(作品解説に「配給:ロングライド」との記載あり)
http://filmex.net/

井上雪子追悼

2012-11-25 00:23:54 | 映画
 前記事で小津安二郎の『東京の女』(1933)にふれたけれども、同作でヒロイン岡田嘉子の弟役で出ていた江川宇礼雄はドイツ人と日本人のハーフである。物語上は新派悲劇ふうである『東京の女』のバタ臭さは、ひとつには小津の演出、もうひとつには配役によるところが大きい。
 今週、サイレント期の松竹女優・井上雪子が97歳で亡くなった。この人については、出世作となった小津の『美人哀愁』(1931)のフィルムが現存していないのが悔やまれる。ただ、清水宏の『港の日本娘』(1933)のさめざめとしたモダニズムは衝撃的で、先述のドイツ人ハーフたる江川宇礼雄と、オランダ人ハーフの井上雪子の新スターコンビが、じつにバタ臭い夫婦役を演じている。当時17歳の彼女の役名は「ドラ」。イプセン『人形の家』のヒロインがノラならこちらはドラということで、こんなけったいな役名が板につくのも、井上雪子くらいなものだろう(写真左は及川道子、右が井上雪子 =同作のスチール)。
 モダニズム全盛の1930年代横浜。山下町あたりのモダンな町並みは、現代日本の開発者がどんなにがんばって再現してみても、模型にしかならない。もちろん当時のモダニズム建築だって西欧近代の模型にすぎないのだけれども。

 『港の日本娘』はスクリーンやビデオで何度か見ているが、非常に感動的だったのは、2003年の東京フィルメックス〈特集上映 清水宏生誕100年〉における朝日ホールでの楽団演奏つき上映で、その夜の演奏の質の高さは衝撃的だった。澤登翠さん、柳下美恵さんらの多大な貢献にもかかわらず、それまでの私は、「サイレント映画は同時代に見るのでない以上、もはや弁士も伴奏も不要で、純粋に映画として対峙するためには、無音で見るのが一番好ましい」などと偏狭な解釈に囚われていた。しかし、あの時の『港の日本娘』楽団演奏つき上映は、そんなわが短絡を徹底的に痛めつけたのだ。
 斎藤達雄の演じる画家がラスト、腐れ縁の愛人と共に大型客船で日本を去る。スクリーン前に陣取る楽団が、惜別のマーチを情感豊かに響かせる。デッキに立つ画家は、自分が今まで描いてきた絵を海へと投げ捨てる。波光きらめく横浜港の水面に、ぷかぷかと浮かぶキャンバス。日本映画史上でもっとも輝けるショットのひとつだろう。
 上映後、フィルメックスの林加奈子さんが「会場には、特別な方が駆けつけておられます」と言うと、関係者席からとてつもなく上品な令夫人が立ち上がり、挨拶を述べた。井上雪子その人である。自分もこの映画を見たのは70年ぶりだ、と彼女は言った。そして、自分の座席からそのままホール出口へと退場する主演女優を、私たち観客の全員がスタンディング・オベーションで見送ったのは言うまでもない。

電力館の終焉

2012-11-23 01:43:26 | 映画
 東京・渋谷ファイヤー通りの「電力館」がその歴史を完全に終え、シダックスが賃借してスポーツ&カルチャー事業を開始するというニュースが、ひっそりと出ている。東京電力のPR施設として1984年にできた同館は、原発事故の影響を受けてすでに昨年春に閉館していた。当然だろう、原子力発電のすばらしさ、安全性をど派手にPRするための施設だったのだから。まったくどうでもいいニュースで、惜しくもなんともないが、一応、まつわる記憶を少しだけ記録しておく。

 東京国際映画祭がまだ六本木ヒルズではなく、東急Bunkamuraをメイン会場に、渋東やザ・ブライム、東急文化会館など渋谷地区の各所で分散開催されていた時代、電力館も開催の一翼を担っており、同映画祭の日本映画旧作部門の会場だった。あんなまやかしの施設に嬉々としてではないにせよ、足繁く通ってしまったおのれの蒙昧さが、いまとなっては嘆かわしい。8階にあったホールは、電力会社のつくったホールのくせにひどく上映環境が拙劣で、嫌な印象が残っている。それでいて、椅子の肘掛だけがやたらと幅広く偉そうなのも、気にくわなかった。

 いまから20年前のこと。当時、日本映画旧作部門のキュレーターをつとめていたのは、山根貞男と蓮實重彦だったと記憶する。小津安二郎の無声映画『東京の女』(1933)上映の際、私がこのホールの最前列の席に陣取ると(なにしろ座席の設置構造が、最前列以外は見づらいのだ)、あとから大柄な白人カップルが私の隣にドッカリと座ってきた。新作『夢の涯てまでも』(1992)プレミア上映のために映画祭出席中のヴィム・ヴェンダースが、当時つき合っていた主演女優のソルヴェイグ・ドマルタン(この方は若くして亡くなってしまいましたね)を伴い、『東京の女』を見るために電力館へやって来たのである。
 オープニング・クレジットに「原作──エルンスト・シュワルツ『二十六時間』」と出たとき、このエルンスト・シュワルツなる耳馴れないドイツ風の人名を英字幕で確認したドイツ男は、ヒソヒソ声でうれしそうにフランス女に説明し始めた。どういう説明をしているのかは、いちいち聞き耳を立てずとも、小津ファンにはおおむね見当がつく。曰く、 “エルンスト・ルビッチの「エルンスト」、ハンス・シュワルツの「シュワルツ」。小津の尊敬するドイツ系映画人の名前をつなげただけで、ようするに小津自身のペンネームなんだよ。エロ・グロ・ナンセンスの昭和モダニズムに青春を過ごした小津がよく使った手だね……” とかなんとか、そんなところだ。
 しかしながら、いくら親日家のヴェンダースといえども、あの日『東京の女』を見た、きらびやかだが嫌な感じのするあのホールが、放射能ダダモレ事故のゲシュニンの持ち物だったとは、夢の涯てまでも気づくまい。

『鱒(ます)』 ジョゼフ・ロージー

2012-11-21 00:48:40 | 映画
 秋の夜長、WOWOWで初紹介されたジョゼフ・ロージーの『鱒(ます)』(1982)を、録り貯めていたHDDでやっと見る。
 ちょうど30年前の映画で、思えばずいぶんと初見までに時間がかかってしまい、感慨深くないわけがない。ただ、作品そのものはそうした見る側のウェットな感慨などはするりと身をかわし、いっこうに正体を現してくれない。『唇からナイフ』と『秘密の儀式』の中間ぐらいの雰囲気だなとも思ったが、そんな感想も自分を納得させるための方便にすぎまい。
 元アメリカの共産主義者の映画監督が、赤狩りのせいでイギリスに亡命し、その四半世紀後になぜか日本ロケのフランス映画を撮るはめになり、投資家や産業人など資本主義者どもの動きを軽妙洒脱に演出したという作品であり、ひどく込み入った事情のせいで何やらよくわからないものになっている。「日本もフランスも鱒の養殖に使う生け簀のような国で、お前たちはお似合いのカップルだ」と、アメリカ人ジョゼフ・ロージーは吐き捨てているのである。
 『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラは、小柄なブロンド娘(スカーレット・ヨハンソン)に東京を歩かせるという設定において、本作のイザベル・ユペールを教科書にしたと思われる(それにしては『鱒』とちがって正直な映画だったが)。このころのイザベル・ユペールはたいへんコケティッシュである。本作の途中、彼女が東京都内の美容室で髪をヴェリー・ショートに切ってもらうシーンがあるが、ゴダール『パッション』(1982)でのショートヘアは時期的に見て、この時のカットのまま出演したものだろう。

山田野理夫 著『柳田国男の光と影 佐々木喜善物語』

2012-11-18 09:58:11 | 
 没後50年を迎える柳田國男については、徳間書店が『柳田國男と遠野物語 日本および日本人の原風景』なるムック本(これがちゃちな表紙で笑えるが、中身は意外に充実)を出したり、「現代思想」誌が10月臨時増刊号で「『遠野物語』以前/以後」というのを出している。
 私としては、いま思いをはせざるを得ないのが、今年1月24日(テオ・アンゲロプロスと同日)に逝った作家・農学者の山田野理夫が1977年に出した『柳田国男の光と影 佐々木喜善物語』(農山漁村文化協会 刊)である。山田野理夫は、いくどとなく佐々木喜善(ささききぜん 1886-1933)について書いているが、あたかもそれは蓮實重彦にとってのマキシム・デュ・カンのごとく、滑稽にして悲愴なるラインを浮かび上がらせる。デュ・カンのほうがまだ救いがあるのではないか。『凡庸な芸術家の肖像』なる的確なタイトルが与えられているからで、もしあの本のタイトルが『ギュスターヴ・フローベールの光と影』だったとしたら、どんなに空しいことか。

 小説家もしくは詩人となることを夢見て上京した東北青年・佐々木喜善は1908年、友人の水野葉舟を介して柳田國男に知己を得、得意とする郷里の民話、怪談のたぐいを、柳田の求められるままに語って聞かせたという。柳田ははじめ、この過剰に神妙な態度でひどく聴きづらい吃音の東北青年に好印象を持たなかったようだが、彼の口からとめどなく吐き出される物語にすっかり魅了され、こいつは使えると思った。これが、日本書籍史上の最高傑作のひとつである『遠野物語』(1910)の成立過程であることはよく知られている。
 ここで注目せざるを得ないのが、民俗学の初めの一歩とされてきた同書が、言わばこのような搾取によって生まれたということだ。青年は、柳田とのコネクションが自分の出世に役立つと思ったのだろう。しかし、事はそううまく運ばず、佐々木はもっぱら口承民話の説話者としてのみ知られるに留まり、晩年にチラっと地方紙に三文小説を書いた程度(それも不評のため中途打ち切り)で、望んだような文名をはせることなく46年の長くない人生を終えざるを得なかった。
 そしてこの搾取の構造は、当の佐々木喜善と、幼少期の彼に昔話を聞かせた祖父母、あるいは村の古老たちとの関係性でも反復されている。佐々木は村の家々を、家主好物の銘柄の煙草(時には一升瓶)を手みやげに訪ね歩き、物語という物語をかたっぱしから聞き出し、何冊かの民話集成本を自著として出版しているのである。小説家として大成できずにいる佐々木は、柳田の指導されるまま、民話の収集に打ちこむよりほかに生きる術がなかった。
 今日における柳田國男の絶大な名声、そして困窮のうちに死んだ佐々木喜善のささやかな名声──。これらはいずれも、村の古老たちがもらった煙草の箱とは引き合わない。

 ともあれ、この隠れた名著を物した山田野理夫の魂に、合掌。