荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ガルシア・ロルカ作『イェルマ』 ナショナル・シアター・ライヴ2018

2018-10-10 00:42:31 | 演劇
 生ではないとはいえ、現代イギリス演劇を見られる貴重な機会だから、「ナショナル・シアター・ライヴ」には可能なかぎり足を運ぶことにしている。東京での上映場所はTOHOシネマズ日本橋のみ。去年までは日本橋の中洲に住んでいたから徒歩で劇場に行って、上映後は劇場そばのバーで一杯やってそのまま徒歩で帰ったものだった。日本橋を去ったいまでは、この「ナショナル・シアター・ライヴ」のみが日本橋に帰る数少ない機会となった。

 今回上映されたのは、スペインの詩人・劇作家フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)の戯曲『Yerma』を、2016年にロンドンのヤング・ヴィック劇場で翻案上演したものの上演収録だ。戯曲ではスペインのアンダルシア地方が舞台だが、現在のロンドンに置き換えられている。夫婦の物語。夫はなにかの事業でそれなりの成功をおさめ、地価の安い犯罪多発地域とはいえスタイリッシュな邸宅を購入したばかり。夫婦は左翼系知識人階級に属し、自立した男女どうしの共同生活であって、旧弊な家族至上主義を標榜してはいないが、妻のイェルマ(ビリー・パイパー)は「そろそろ子どもが欲しい」と言う。こうして妊活が始まるが、これが悪夢の始まり。
 いや、妊活が悪夢の原因なのか? 一見するとこの芝居は、ヒロインの過剰な妊娠願望がもたらした悲劇として語られていく。しかしそもそもこのカップルはその関係性のなかに悪夢の因子を孕んでいたのではなかったか。妻に引っぱられるまま不妊治療に付き合う夫は、じつを言うとさして子どもなど望んでもおらず、現在のそれなりにゴージャスなライフスタイルをただ維持したいだけだろう。いっぽうイェルマのブログは、進歩的な政治発言やセックスについての率直な記述で人気がある。彼女が夫のEDについて書くと、夫の会社同僚はみな翌朝にはそのことを知っているという寸法だ。妊活はなんの効果もなく推移する。夫婦はたがいに相手の機能不全を言い立てて争う。現代日本の用語に適切に(笑)したがえば「生産性」についてのお話。傷ついたイェルマの精神は、目に見えて崩壊していく。
 ヤング・ヴィック劇場の中央にガラス張りの舞台がしつらえられ、ぐるりと取り囲むように観客が彼らの転落を、理科の実験のごとく見つめる形だ。ガラス張りの残酷格闘技を見るかのように。一場一場は「たとえばこんなこともあった」というような、あたかもそこに必然性がないかのごとくぶっきらぼうに提示され、シーンとシーンのあいだに広がる暗闇に轟音で音楽がかかり、観客はそこで表示されるスーパー字幕で、彼らの惨状がどこまで行ったのかを知る。スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に感覚が近い。「こんなことがあった」とあっけらかんと恐怖の描写が提示されたあと、シーンは数日か数週間は経過している。「少しは状況が回復するかも」という淡い期待はそのあとに続く描写によって完全否定される。
 
 「ナショナル・シアター・ライヴ」はそれが方針なのか、DVD発売もしないし、名画座にも落ちないから、安心してラストをばらすと、ヒロインのイェルマは、事業破綻した夫に去られ、昔の恋人にも去られ、不動産に売りに出されたからっぽの邸宅でひとり、割腹自殺する。つまり、不在たるお腹の子どもをみずから殺す。子どもを宿す可能性を殺す。そしてそれはみずからに対する子殺しの死刑宣告でもある。腹から噴き出す血を抑えながらもんどり打つヒロインの姿は、まるで増村保造映画の若尾文子のように狂おしく壮絶だ。
 本篇上映前のアバンタイトルに、本作の演出家サイモン・ストーンと劇場オーナーの対談VTRが付いていたのだが、その中でサイモン・ストーンは「重要なのは、これを書いたガルシア・ロルカが若くして死んだこと、リベラルだった彼がフランコ派右翼によって暗殺されたという事実だ。彼は自分がまさか早死にするとは思っていなかっただろう。『イェルマ』は彼が暗殺される2年前に書かれた作品だ」と言っていた。

 絶讃された同作は翌2017年にローレンス・オリヴィエ賞の最優秀リバイバル賞および主演女優賞(ビリー・パイパー)を受賞し、今年は同じスタッフ&キャストで、ニューヨークのパーク・アヴェニュー・アーモニーでも上演されている。


10/4まで全国の指定劇場で上映
https://www.ntlive.jp

ハロルド・ピンター作『誰もいない国』 ナショナル・シアター・ライヴ2017

2017-10-03 06:50:28 | 演劇
 TOHOシネマズ日本橋など全国数カ所だけで上映されたナショナル・シアター・ライヴの『誰もいない国(No Man's Land)』を見に行った。イギリスの劇作家ハロルド・ピンターが1974年に発表した戯曲で、当時はまだイギリスに検閲があったため、じつに曖昧模糊としている。
 2時間半の芝居は2幕に分かれるが、舞台は老作家の自宅の居間のみ。どうやらロンドンの富裕層が多く住むハムステッド・ヒースの近くらしい。老作家とパブで意気投合した詩人を名乗る老人が、2人して作家の自宅に入ってくる。2人は興に乗ったまま、昼酒の続きをたしなむ。この家には家族はおらず、老作家の身の回りの世話をする2人の若い男がいる。この2人は、突然の客人を丁重にもてなしたり、乱暴に扱ったりと、時によって態度がころころ変わる。若い男たちのしゃべり方は、演じた俳優の述懐によれば、サッカーチーム、ミルウォールの1970年代サポーターのしゃべり方を体得して臨んだとのこと。ようするにフーリガンである。この戯曲からまもなくして、イギリスはパンク=ニューウェイヴの時代が来る。その直前の英国病の鬱屈ということか。
 居心地の悪い会話、楽しい会話、ギスギスとした口げんかが代わる代わる展開される。詩人を名乗る客人はもうずいぶんと侮辱されたはずだが、いっこうに帰る気配がない。当然である。この家には充実したホームバーがしつらえられており、タダで良質なウィスキー、ウォッカが飲み放題だからだ。
 芝居は2時間半のあいだ、ずっと曖昧模糊としたままだ。この作品は何なのだろう。考えながら見続けた。検閲のためか、非常に分かりづらい描写だが、ここに登場する老若4人の男たちはおそらく全員がホモセクシャルだろう。もちろん同性愛を示す描写はほのめかしでしかないが、ハムステッド・ヒースで男同士が出会うというのは。そして彼らはいずれも精神的な疾患を患っており、人格が一定しない。また、昼間からウィスキーを何杯もお代わりしている。夜となり、朝となって、起きるとまた彼らはグラスに酒を注いで、思い出話のような、空想の連鎖のような、狂気の披露のような会話を再開する。老作家と老客人をパトリック・スチュワートとイアン・マッケランが相手の出方を窺うように演じる。つまり、映画『X-MEN』のシリーズでプロフェッサーXとマグニートーを演じてきた二人だ。片やミュータントと人類の和合を信じて学園を創設した学者、片やホロコーストの生き残りで、ミュータントが殲滅されないためには人類の殲滅も辞さないというテロリストの長。その二人が今や、ロンドンの豪邸で酒浸りとなり、混乱した「竹林の清談」に花を咲かせている。
 私たち映画ファンにとって、ハロルド・ピンターとは、赤狩りでハリウッドを去ってイギリスで映画を撮り続けたジョゼフ・ロージー監督の盟友としてその名を覚えたものだ。『召使』『できごと』『恋』に熱狂した。と同時に居心地の悪さをも抱いた。今回の『誰もいない国』で抱く居心地の悪さは、それとまた別種のもののように思える。何なのか。
 ピンターというと、2012年に東京・初台の新国立劇場で見た『温室』の鮮烈さが記憶に新しい。演出の深津篤史は、この上演のあとに若くしてガンで命を落としてしまったが、彼の手によるピンター演劇を、もっと見たかった。深津は翌年、同じ新国立劇場で別役実の『象』を演出しているのだが、これもすごい出来だった。原子爆弾の被爆者の大杉漣がケロイドを大道芸のネタにしている。ネタにしつつ彼はいまわの際へと追いつめられていく。そして看護に当たっていたナースの奥菜恵も、やがて原爆病を発症する。上半身をつねに伏せて、異常な姿勢を上演中つらぬいた大杉漣は、たいへんだっただろう。すさまじい演技だった。


TOHOシネマズ日本橋、TOHOシネマズ六本木ヒルズなどで上映(終了)
http://www.ntlive.jp/nomansland.html

庭劇団ペニノ『ダークマスター』

2017-02-12 10:20:04 | 演劇
 タニノクロウ主宰の庭劇団ペニノの新作は、『ダークマスター』(こまばアゴラ劇場)で、これは2003年に下北沢駅前劇場、2006年にこまばアゴラ劇場で上演された戯曲の再々演である。3度目となる今回は大阪の場末を舞台にして大幅に改訂されたものである。改訂されたとはいえ、ペニノ旗揚げ3年後に初演された作品ということで、これまで何本も見てきたタニノクロウの演劇作品のなかで最もオーソドックスに小劇場的な、いわゆるお芝居だった。
 腕は一流だが、客あしらいの悪さとアルコール依存症のために、客足がぱたりと途絶えた洋食屋のワンセットドラマである。偶然店にやって来た東京のバックパッカーが、「自分捜し」ついでに、成り行き上この店の見習いとなる。料理未経験の若者の耳に超小型のWiFiイヤホンが装着され、店の主人の指令どおりに料理する。店のありとあらゆる場所にミニカメラが仕掛けられ、上階に閉じこもった主人は的確に指令を出し、若者のつくる洋食はSNSやグルメ評価サイトで好評を得て、あっという間に行列店になってしまう。
 大阪弁の荒っぽい主人と、東京から来たナイーヴな若造の、奇妙な友情と成功をニヒリスティックに描いた喜劇かと思いきや、どうやらそうでもないらしい。若造の耳にイヤホンを入れた次の瞬間から主人は上階に引きこもってまったく姿を現さなくなり、ただ単に指令の声だけの存在となる。それも徐々に若造の腕前が上がるにつれて聞こえなくなっていき、芝居の序盤では主人公とも思われたはずの店の主人は、存在しているのかどうかさえ分からなくなる。
 リモートコントロールによる指令、実体のない司令塔、知らぬ間に群衆を寄せつけるプロモーションなど、ある種ドクトル・マブゼ的、洗脳主義的なドラマが薄気味悪く展開していく。若造の料理パフォーマンスは客たちによってスマホで撮影され、YouTubeなどで世界中に流布される。こんな分かりやすいタニノ演劇があるとは。初期らしい作風なのかもしれない。近年のタニノ演劇はもっと不可解で謎めいていた。おととしの東京芸術劇場アトリエイースト・リハーサルルームにおける『タニノとドワーフ達によるカントールに捧げるオマージュ』などはその極北であった。だから、今回の『ダークマスター』は最新の上演なのに、すこし懐かしい、アナクロの感触がある。
 後半に登場する、札束攻勢で店を翻弄するバブル的な中国人客と、店の若造との確執は、あまりにも分かりやすい比喩的表現に落ち着いていて、疑問に思えた。劇を通じて会場内に笑いが絶えず、その点では成功作ということになるのかもしれない。しかしながら、この大阪的笑いに落ち着いている点に、私は物足りなさも感じた。喜劇ではダメだと言うのではない。しかしもっと挑発的であってほしい。


こまばアゴラ劇場(東京・駒場東大前)できょうマチネで終演
http://niwagekidan.org

『戦火の馬』 ナショナル・シアター・ライヴ2016

2016-11-15 01:52:24 | 演劇
 ロンドン・サウスバンクのロイヤル・ナショナル・シアターが2007年に初演し、ロングランとなった舞台『戦火の馬(War Horse)』が、イギリス演劇の上演ライヴを世界中の映画館で紹介するシリーズ〈National Theatre Live 2016〉に含まれて、TOHOシネマズ8会場で上映中である。公演に感銘を受けたスティーヴン・スピルバーグが2011年に映画化したことは周知。今回上映されたのは、2014年にロンドン・ウェストエンドのニュー・ロンドン・シアターで上演された際の実況録画である。
 なんといっても本公演の最も大きな特長は、南ア・ケープタウンを本拠とするあやつり人形劇団ハンドスプリング・パペット・カンパニーによる等身大の馬のパペットである。スピルバーグによる映画版は本物の馬とCGの組み合わせで乗りきっていて、その判断も当然のことではある。しかしながら、こうして元となった演劇版のパペットによる見事としか言いようのない形態模写、擬声によるいななきや息遣いなどが、この作品の太い生命線であることに気づかざるを得ず、スピルバーグ版もいい映画ではあったけれども、パペットによる独創性とたぐいまれな詩情を捨ててリアリティの追求に引っ張られたのはしかたのないことだ。
 あらゆる動き、音の醸す馬の生命感。ギャロップするときは、3人のパペット遣いも馬と一体化してギャロップしている。首、前足、後ろ足の3人の係が主人公の馬ジョーイを担当する。その他、ジョーイを手塩にかけて育てる農家の飼うアヒルもパペットでコミカルさを出し、後半にはなんと戦車さえもがパペット化されていた。
 ジョーイの首(かしら)を担当したパペット遣いは、厩舎の調教師のような衣裳に身を包み、姿が観客にさらされている。それは決して透明な存在ではなく、あたかもジョーイの意志と一体化し、命を吹き込む守護神のごとく振るまい続ける。まるで日本の文楽における「主遣い(おもづかい)」のようだった。


TOHOシネマズ日本橋ほか、全国8箇所のTOHOシネマズで限定公開
http://www.ntlive.jp/warhorse.html

浮世企画『ザ・ドリンカー』@下北沢駅前劇場

2016-03-10 22:07:50 | 演劇
 濱口竜介監督『親密さ』(2012)の主演女優・平野鈴さんにお誘いを受け、平野さんの出演作である浮世企画『ザ・ドリンカー』(作・演出 今城文恵)を、下北沢駅前劇場へ見に行ったのは、もう先月中旬のことで、ブログにしたためるのは遅きに失した感がある。しかし、面白く思ったものは曲がりなりにもここに備忘録を残しておかないと、この唐変木の頭のなかでうやむやとなってしまう。
 『ザ・ドリンカー』は、幕末から明治前半にかけて人気を博した実在の絵師、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい 1831-1889)についての芝居である。河鍋暁斎というと昨年の真夏、東京・丸の内の三菱一号館美術館で《画鬼・暁斎──KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル》展が催され、酷暑のなか同館を訪れた私は満員札止めで入場すら叶わず、そのまま再訪の縁を持ち得なかったのである。
 少年時代、神田川の出水で流れてきた生首を拾って写生したという伝説は有名で、この『ザ・ドリンカー』では生首の主が主人公の狂斎(暁斎の改名前の名前)に取り憑いて悩ますという構図を上手に取り入れていた。絵のためならどんな非道者にも化けてみせる狂斎を、人は「画鬼」と呼ぶ。奇想の浮世絵師・歌川国芳に幼い頃から弟子入りし、さらに狩野派へも入門と、まさに江戸絵画の真髄を硬軟まとめて体得した河鍋暁斎の「画鬼」ぶりを、本作はじつに魅力たっぷりに描写することに成功していた。
 生首の幽霊を演じる男(猪俣三四郎)と、主人公の狂斎(伊達暁)が激しく怨恨をぶつけ合いながらも、いつしか観客の私たちにはこの二人が一心同体で、この二人の魂の合作こそ河鍋暁斎という「画鬼」の正体ではないかと合点させる。
 狂斎の女房という女が代々3人も登場するが、うち2番目の女房・お登勢を演じた四浦麻希という女優さんの造作が出色である。このお登勢は胸の病でまもなく昇天するが、狂斎は「これ幸い」と思ってしまっただろうが、撃たれた兵士の倒れる瞬間にシャッターを切ったロバート・キャパよろしく、息を引き取ったばかりの生温かいお登勢の死顔を写生しはじめる。まさに「画鬼」の面目躍如だが、このお登勢を演じた四浦麻希さんが、暁斎のはるかなる大先輩、円山応挙の筆によるとされる『幽霊図』(写真参照)に描かれた女幽霊にそっくりなのである。描き手は自然と応挙の境地をイメージしながら、逝ったばかりの女房の死顔を描きまくったことだろう。
 これを「愛」だなどと早合点するほど、私たち観客の誰も鬼の境地に達するすべを知らぬが、下北沢の狭い芝居小屋で、しばし情け容赦なき芸術の殉教者と共に時間を過ごした。大酒飲みである彼を指して、「ザ・ドリンカー」とアメリカ映画のような軽薄なタイトルが付けられているのも、いい。


2016年2月17~22日、下北沢駅前劇場(東京・世田谷)で上演
http://ukiyokikaku.jimdo.com