荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『猿の惑星 新世紀(ライジング)』 マット・リーヴス

2014-09-28 07:36:38 | 映画
 『猿の惑星』の記念すべき第1作(1968)のラスト、砂浜に埋もれた自由の女神像のシーンはあまりにも有名である。それにしても、人類が滅んだのはいいとして、ではなぜ猿の文明が勃興したのか? そのあたりは謎のままであった。今回のシリーズがとり組んでいるのは、そこの部分である。人類になり代わって、なんでまた猿が文明の担い手に浮上したのかという事情の説明である。企画として理にかなっている。
 シリーズ物というのは、かつては第1作の後日譚を語るものというのが常識だったが、『スター・ウォーズ』のエピソード1/2/3以来、映画業者たちは、前日譚によってもシリーズを延命させることができるということを発明した。延命と引き換えに、シリーズは物語構造とエコシステムの奴隷となることを甘受したのである。エピソード1/2/3が抱え込んだきまじめさ、閉塞感はあれだけパイが大きければ、致し方ないのかもしれない。
 いっぽう『X-MEN』のチームはよくやっている。『ウルヴァリン』などのスピンオフからはジェームズ・マンゴールドのような落第者も輩出しているとはいえ、登場人物たちの前日譚を語る『ファースト・ジェネレーション』(2011)、およびその続編『フューチャー&パスト』(2014)のシナリオは、かなり高度なアクロバットだろう。
 この伝で言うなら、今回の『猿の惑星』の新シリーズ『創世記(ジェネシス)』(2011)、『新世紀(ライジング)』(2014)は共につまらなくはないのだけれども、どうにもきまじめさを免れていない。予想どおりの展開、予想どおりの描写なのである。ラストのサンフランシスコの高層ビルを舞台とする猿どうしの内紛シーンにしても、バベルの塔のアレゴリーなのだろうが、まったくはじけない。シーザー(主人公の猿)の決めぜりふは悪くないが。
 ティム・バートン版(2001)の評判は決して芳しくはないけれど、今回版にはない瞬発力、映画的爆発力はあった。カプセルからマーク・ウォルバーグのペットのチンパンジーが降りてくるあたりのおかしみ。ああいう遊びがもっと欲しい、というのは無い物ねだりではあるまい。
 ただし、今回版で素晴らしいと思うのは、人間の登場人物については、一話完結でリセットしてしまう点である。前作『創世記(ジェネシス)』から10年しか経っていない設定なのに、前作のメインキャストはだれも再登場しない。たぶんみな死んでしまったのだろう。おそらく次回作には、今回のメインキャストは登場しないのではないか。人間側の主人公ジェイソン・クラークがシーザーと別れの抱擁をすませたあと、人知れず(猿知れず)後退して、ビルロビー奥の闇へと溶け込んでいくショット、さらにはシーザーがしばらくして振り返ったあとの無人ショットは、この映画の最良のショットだと言えまいか。
 また、発電所の復旧工事が終わった瞬間、ガソリンスタンドの電力が復活し、突然ザ・バンドの『The Weight』の演奏が鳴ってしまうシーンのほのぼの感も捨てがたし(ようするにアメリカ映画だなと)。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)他、全国で上映
http://www.foxmovies-jp.com/saruwaku-r/

『月下の銃声』 ロバート・ワイズ

2014-09-26 09:32:09 | 映画
 “西部劇の皮をかぶったフィルムノワール” と友人からかねてより聞かされていたロバート・ワイズ監督『月下の銃声』(1948)を、CSにてようやく見ることができた。
 これは意図的なのだろうが、全体的に感情の抑揚が乏しく、西部劇らしい快活さもない。ムードアクションなどと形容すると別の意味になってしまうが、居酒屋の照明が落ちたあとのロバート・ミッチャムとロバート・プレストンの乱闘シーンにおけるノワールなライティングは、たしかに西部劇というより、まるでロバート・ジオドマークあたりがやりそうなスリラーの一場面のようだ。
 ラストシーンのウォルター・ブレナンの小屋に立てこもっての銃撃戦も、ひんやりとした感触。ミッチャムがブレナンに言う「俺が外へ出たら、たくさん撃ってくれ。硝煙が俺の姿を消してくれる」などというセリフは、ミッチャムにふさわしいことこの上なし。夜陰に乗じて敵の背後に回ったミッチャムが、敵の頭上めがけて拳銃を斧のごとく2度ほど振り下ろしてみせる時の顔つきは、もはや西部劇のヒーローの顔ではなく、ニューロティック・スリラーのそれであり、まさに7年後の『狩人の夜』(1955)を予告するカットだ。
 このノワールな画作りをおこなった張本人である撮影のニコラス・ムスラカは、RKOピクチャーズのB級暗黒映画をライティング面から支えたイタリア出身の名手だけれど、ムスラカとロバート・ワイズの出会いは、これの4年前の『キャット・ピープルの呪い』になるだろうか?

『舞妓はレディ』 周防正行

2014-09-24 12:21:47 | 映画
 このところシリアスな作品が続いた周防正行としては、1996年の『Shall we ダンス?』以来じつに18年ぶりとなる娯楽作である。下敷きとなった『マイ・フェア・レディ』(1964)は、ロンドンの下町英語(コックニー・イングリッシュ)しかしゃべれない花売り娘(オードリー・ヘプバーン)の発音を、言語学者(レックス・ハリソン)が上流階級の英語(クイーンズ・イングリッシュ)に矯正する物語であった。ジョージ・キューカーのカラフルな映画世界への憧憬の表明といえる。そして、今作では鹿児島弁と青森弁のハイブリッドという、日本列島を縦断するなんとも荒唐無稽な訛りを発明して、昨年ブームとなったNHKドラマ『あまちゃん』の訛るアイドル像(三陸訛りや琉球語 [ウチナーグチ]など )の競演に目配せしているだろう。
 しかし、ナンセンスなアナグラムで塗り込めていくというのは、周防作品としてはごく最初期からの得意技であった。古くは『シコふんじゃった。』(1991)において「教立大学」の相撲部という、監督自身の母校たる立教大学の一文字のみの転倒によって現実世界からの手品のような離脱へとスイッチを入れつつ、「本日医科大学(ほんじついかだいがく)」などという人を喰った語呂合わせ、さらにはジャン・コクトー来日時の大相撲についてのエッセーをからめて、ナンセンス・コメディの学究的アプローチを推進していた。『舞妓はレディ』の「レディ」とは「Lady」であるだけでなく、「L」と「R」の発音差を有しない日本語の特性によって「Ready」つまり「舞妓はまだ仕込み中」をも意味づけているはずである。
 今作の舞台となる京都の花街(かがい)の「下八軒(しもはちけん)」もまた、北野天満宮(京都・上京区 別名「下八社」)そばの実在の花街「上七軒(かみしちけん)」のアナグラムである。上七軒といえば、J.O.(ゼーオー)から東宝京都に亘って活躍した戦前の名匠・石田民三が戦後に46歳の若さで監督業を廃業し、お茶屋の旦那に収まった場所である。
 したがって本作はジョージ・キューカーによるミュージカル・コメディないしはバーナード・ショーの戯曲の翻案となっているだけでなく、戦後、下火だった上七軒のすべての芸妓と舞妓を集め、祇園甲部の「都をどり」に対抗して始められた「北野をどり」の創始者である石田民三へのオマージュともなっているのである。このような何層にも折り重なる演出の意図をこそ感受すべきハイブラウな作品であろう。お茶屋遊びの仕上げとしての「雑魚寝」、そして本作のクライマックスとしての「見世出し」など、周防ならではの題材研究が念入りになされていることが察せられる。埼玉県川口市のSKIPシティに建てこみされたオープンセットの配置ぶりもじつに素晴らしい。

P.S.
サウンドトラック盤の13曲目、主人公・春子役の上白石萌音とバイト舞妓の役の松井珠理奈(SKE48)、武藤十夢(AKB48)トリオによる和風ラップ『きついっしょ』は映画未使用の楽曲だが、なかなかの名曲である。


TOHOシネマズ有楽座(東京・ニュートーキョー)ほか全国東宝系で上映中
http://www.maiko-lady.jp

『青べか物語』 川島雄三

2014-09-21 10:12:37 | 映画
 いま神保町シアター(東京・神田神保町)で催されている特集〈作曲家・池野成(いけの・せい)の仕事〉は素晴らしい企画である。没後10年にあたる今年に、こうしてちゃんと特集が組まれることに拍手を送りたい。池野成の師匠である伊福部昭(いふくべ・あきら)については、今年が生誕100周年にあたるため、数多くの関連本が出版されて賑やかであるが、池野成という作曲家の日本映画に対する貢献度は、山本薩夫、吉村公三郎、鈴木英夫、川島雄三など300本近いフィルモグラフィを有し、師匠の伊福部に決して劣るものではないのである(伊福部とて『ゴジラ』の文脈で語られすぎのきらいがあるが)。
 今特集上映は『その場所に女ありて』と『非情都市』という、映画ファン必見の2本の鈴木英夫作品がクライマックスを形成しているのは間違いないものの、『青べか物語』(1962)の蕭々たる風情をたたえたギターのアルペジオを聴きたくなって、神保町シアターにおのずと足が向いてしまう、というのは致し方のないことである。
 森繁久彌、フランキー堺、池内淳子、桂小金治、山茶花究といった東宝の社長シリーズ常連が川島組にスライドし、そのシニックなユーモアにはまり込んでいる。森繁はいつもの鬱陶しいまでのケレン味がぐっと抑えられて、原作者・山本周五郎の分身を恥じらいと共にみごとに演じている。そして、1960年代前半(昭和30年代)は一漁村に過ぎなかった千葉県浦安の今は完全に失われた漁村風景がよりいっそう、諸行無常の念を呼び起こす(劇中、浦安のことを「浦粕(うらかす)」と呼ぶシニスムもいい)。左卜全の演じる連絡船船長が森繁相手につぶやく初恋相手(桜井浩子)との悲恋のくだりには、なんとも悄然とさせられる。左卜全の全フィルモグラフィにおいて、森繁の前で警笛をピューと鳴らす瞬間は、キャリア上最高の瞬間ではないだろうか。


〈作曲家・池野成の仕事〉は神保町シアター(東京・神田神保町)にて9/26(金)まで
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

『身をかわして』 アブデラティフ・ケシシュ

2014-09-17 00:31:35 | 映画
 9月4日と5日の両日に初めて開催された〈新文芸坐シネマテーク〉にて、アブデラティフ・ケシシュ監督の第2作『身をかわして』(2003)を見ることができた。初見である。いわゆるバンリューもの(パリ郊外もの)のひとつで、このジャンルの多くは低所得者層の子弟たちを主人公としていて、生活水準、教育的・環境的な水準は決して高くなく、たいがいは若年犯罪や薬物使用が描かれる。パリ北東部セーヌ=サン=ドゥニの公団住宅をロケ地とする本作にも、旧植民地移民の子弟ばかり登場する。
 しかし、バンリューものの典型といわれるマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』などと異なるのは、会話劇としての古典的なまでの追究ぶりだろう。18世紀の戯曲『愛と偶然の戯れ』(マリヴォー作)の稽古によって、会話劇が二重化・重層化され、執拗に反復される。ヌーヴェルヴァーグ以来の伝統ともいえるフィジカルなリアリズムを軸としつつ、ここぞという時にはクロースアップで言葉の応酬を、論争を、激しいののしりあいをいつまでも持続させる。ケシシュは新作『アデル、ブルーは熱い色』で昨年のカンヌ・パルムドールを獲得したが、これに先立つ10年前に、長編第2作『身をかわして』においてすでに自分の作風を完璧に作りあげていたことが分かる。
 上映後の大寺眞輔によるトークでも述べられていたように、本作ではありとあらゆる2つのものが並列、対立、相対化される。旧植民地の移民にとって、フランス文明は憎悪の対象であると同時に依存の対象でもある。マリヴォーの戯曲といういわば最もフランス的なテキストと対峙することによって、バンリューの少年少女たちは、対立する二項に対する身の処し方を──本作に倣って言えば、身のかわし方を──体得していくのである。