荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

正木美術館《物 黒 無──モノクローム》

2013-12-31 00:07:55 | アート
 私が日本一渋い美術館だと勝手に思っている正木美術館(大阪・忠岡町)で、開館45周年記念展《物 黒 無──モノクローム》が開かれている。NY在住の現代美術作家・杉本博司の作品──水墨画の題材『叭々鳥図』を模して剥製を撮影した『カリフォルニア・コンドル』、長谷川等伯の代表作に範を取った『松林図』など──が正木美術館所蔵の国宝、重文といっしょに並べられている。並べたのは正木のスタッフであって杉本自身ではないにせよ、この並々ならぬ自信は恐ろしいものがある。
 《物 黒 無》のタイトルどおり、墨蹟、水墨画、楽茶碗など、黒いものばかりが展示されている。この渋さは尋常のものではない。関東の地からわざわざ馳せ参じた甲斐があるというものだ。2階に展示されている等春の『瀟湘八景図』、この作品は以前に見た際も仰天したが、淡墨でサーッとガス状のものを描いただけであり、室町時代の作品とはいえ、完全にアブストラクト絵画である。
 そして、わが愛する『玳皮盞天目茶碗』。南宋時代(12世紀)に江西省の吉州窯で焼かれた、エロティックなまでに黒い器形と、鼈甲に似た階調の釉薬が妖しく底光りする。「玳皮盞天目」というのは日本での呼称で、中国では「鼈盞(べっさん)」と呼ばれるそう。
 また、書き忘れないようにしたいのが、入場して最初に目にする明恵上人筆『夢記断簡』(鎌倉時代)である。細かな字で明恵が前夜に見た夢を記録したもの。当然妙なエピソードばかりで、漱石の『夢十夜』ではないが摩訶不思議な気持ちになる。入場早々に魔術じみた合図をかけられたようである。


正木美術館(大阪・泉北郡忠岡町)にて2014年2月2日(日)まで
http://masaki-art-museum.jp

『キャプテン・フィリップス』 ポール・グリーングラス

2013-12-30 00:43:10 | 映画
 見始める前の予想と若干異なる作品である。
 私の予想では、ソマリア沖の航路で海賊の襲撃を受けた輸送船の船長フィリップス(トム・ハンクス)が、乗組員の命と引き換えにみずから進んで人質になる決心をし、たとえばこんなやり取りが──「君たちは生きろ!」「船長!」「早く逃げろ」「船長も、どうかご無事で」──エモーションたっぷりと交わされ(『海猿』のような陳腐なヒロイズムの米国版)、ハンス・ジマーの重厚なオーケストラが流れて…犠牲的精神がなんども描かれた後は、改心した海賊のひとりの協力もあって、形勢逆転に成功するも、その協力者は死ぬ。そして最後は、命からがら脱出したフィリップス船長と、愛する妻子の再会が、なみだなみだで演じられる──。

 そんなわが予想とは裏腹に、本作はもっとドライかつ即物的なタッチで進行する。主人公の犠牲的ヒロイズムも最小限で、それに心動かされる部下たちの悲痛な表情も皆無に等しい。追いつめられているのはトム・ハンクスではなく、彼を人質に取ったソマリアの海賊たち(じつは漁師を生業としている)のほうだ。
 彼らをたしなめるようなトム・ハンクスの口ぶりからこんな会話が交わされていた。「君たちはもう漁師ではなくなってしまったな」「……」「漁業をちゃんと営んでいれば、こんなことをするまでもなかっただろうに」「ここはアメリカじゃないんだ。アメリカなら、そうかもしれないが」
 翌朝には、3隻もの駆逐艦が到着し、海賊たちに圧力をかける。米国海軍の圧倒的なプレゼンスの前に、海賊たちを乗せた救命艇は木の葉にすぎない。そして映画は言外にこう主張しているのだ。曰く、「年間数百件の海賊行為が発生するソマリア沖をはじめとして、世界中には危険な海域が数知れない。今後は、南シナ海や東シナ海もきわめて危険な海域となるだろう。だから、防衛費の削減は愚策である。米国海軍に今後とも適切なる予算が組まれるなら、たとえ今回のような一民間人の安全確保のためであっても、ご覧いただいたような手厚い作戦の実施が可能である。」
 つまりこれは、米国海軍が予算確保をするためのプロパガンダ映画であると言っても過言ではないだろう。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映中
http://www.captainphillips.jp

『ペコロスの母に会いに行く』 森崎東

2013-12-28 01:31:02 | 映画
(拙稿は物語展開の結末に触れていますので、未見の方はお気を付けくださいませ)
 長崎新地中華街がランタンフェスティバルで賑わう春節の一夜。あざやかに灯された清朝提灯の黄や赤の光に促されたのか、記憶の綾とりがほろほろと解けていき、認知症をわずらう老婆(赤木春恵)の口から、少女時代に窓外からのぞき見た女子合唱団の「早春賦」の歌詞がスラスラと出てくる。そして彼女の生を呪縛してきた(必ずしも楽しくはない)思い出が、祝祭的に数珠つなぎになっていく。
 赤木春恵がさまよい歩いた先に行き着いた橋の上で、時空間の祝祭がウワンととめどなく実現してしまい、それを見る私たちは動揺をどうすることもできない。「橋」という、古今の映画史で夥しい数の伝説を生み出してきたこの過剰なる装置を、現在87歳の森崎東はなんの躊躇もなく活用した。アルコール依存症の夫(加瀬亮)、女郎部屋に売られた上に原爆病の犠牲となった親友(原田知世)、腺病質の体を気遣えぬまま見殺しにしてしまった妹。赤木春恵は生涯をかけて彼らに赦しを請い、それがスクリーンの中でみごとに完遂されてしまう現場を、私たちは目撃することになる。
 迷子になった老母を捜索していた一人息子(岩松了)が橋の上の母を発見するが、すぐには駆けつけない。岸の橋詰のところで立ち止まり、母の祝祭の邪魔をせず、遠巻きに注視する。息子がこれほど母の意識のドラマに理解を示すのは、彼自身もまたその記憶の中で傷ついてきた当事者でもあるからである。
 いわばこの映画は、母と一人息子の母子愛をあたたかく描く大船調の人情譚と見せかけて(もちろんそういう面もあり、それが本作の魅力ともなっているのだが)、戦友どうし、もしくはガンマンどうしの相互慰労を歌い上げている、というふうにも感じられた。


ユーロスペース(東京・渋谷円山町)で1月上旬まで、その後全国で続映
http://pecoross.jp

『利休にたずねよ』 田中光敏

2013-12-22 11:43:51 | 映画
 根津美術館で《井戸茶碗》を見る3日前、田中光敏監督『利休にたずねよ』を見た。なにやら茶の湯ずいた日々となったが、この映画はもっと別の演出を施したなら傑作となったのにと老婆心がうずく、少しばかり惜しまれる作品である。
 織田信長にも太閤殿下にもかしずかなかった千利休が激情的なまでに美に服従する理由を、過去の恋愛体験に遡行して探りあてる物語。しかしながら、モノ、ヒト、コトガラが有機的にからんでいかず、お行儀のいい謎解き物語になってしまったうらみが残る。
 ただ、六本木クラブでの暴力沙汰や傲慢な人柄がマスコミでさかんに報道されるなど、モンスターのイメージが定着した十一代目市川海老蔵が、勝新太郎の怪人ぶりと、同じ姓を持つ市川雷蔵のニヒリスティックな形式美を併せ持つ逸材であることが垣間見える。所作の才能が一挙手一投足に見えるのである。勝新と雷蔵のイメージが共有されたのか、撮影・照明ともに、溝口健二・伊藤大輔・三隅研次・森一生・田中徳三らを代表とする往年の大映京都撮影所のごとき陰影礼讃を見せてくれた。

 戦国時代に全盛を迎えた「茶の湯」という、即興演劇と美術鑑賞とグルメ修行とがグジュクチュに合体した、世界でも類例を見ぬ独特の芸術形式は、「一期一会」という観想を根本としている。「わたくし千利休が、あなたというサムライに茶を点てました。かくなる上はこれを名誉と思っていただき、主君のためにどうか戦場で思う存分に暴れて、悔いなく死んできてください」という死刑宣告を、ボウル一服の液体と、壁の掛け軸と、竹筒に挿した一輪の花で言いくるめてしまう、1万ボルトの電気椅子のごときじつに兇暴な装置なのである。女子高校の花嫁修業とはいっさい無縁の、血なまぐささである。
 利休とは、信長・秀吉につかえた、寸分の狂いなく美の意匠によって装飾された死刑執行人である。この点を、海老蔵はとらえ損ねることなく、ワビ・サビをぎらぎらと体現してくれた。

 そして、日本の茶人の間で珍重され、諸大名が大判小判をはたき競って手に入れようとした「井戸茶碗」なるシロモノが、じつは朝鮮半島の名もなき陶工が土をこねて焼いた、単なるビビンパ用の雑器に過ぎなかったように、隣国・朝鮮の存在が日本人にとって永遠に(おそらく先史時代から)アンビバレンス的対象だったことが、現在の(朴正煕の娘と岸信介の孫によるツンデレごっこが延々と続く)芳しからざる日韓関係の只中にあって、あからさま過ぎるほどに諭される。
 李氏朝鮮王朝の公主(「コンジュ」 日本では皇女にあたる)が利休の前に現れて、アフロディーテの役柄を演じる。死刑執行人としての利休の生涯が、この薄幸の姫とのロマンスの結末によって方向付けられた、と説明してみせたのが本作である。「死刑執行人もまた死す」、である。
 そして、韓国のセクシー女優クララがその役柄にリアリティを与えた。これは絶妙なキャスティングである。


丸の内TOEIなど全国東映系ほかで公開中
http://www.rikyu-movie.jp

根津美術館《井戸茶碗》

2013-12-20 14:43:58 | アート
 根津美術館(東京・南青山)から『館蔵 茶碗百撰』という写真集が1994年に出ている。A5変型版のコンパクトな造本で手に馴染みやすく、私はこの本をぺらぺらとよく眺める。日本・朝鮮・中国の3章に分けてそれぞれの陶磁の魅力のちがいを簡単に比較しながら愉しむことができる好書である。
 それもこれも、東武鉄道の創業者一族・根津家のコレクションを企画展示するこの根津美術館じたいが魅力的な作品を数多く収集・保存・展示してきたからこそ可能になったということだ。師という言葉は、人に対して言う単語だが、私は場所に対しても師という言葉はあてはまると思う。
 ところが、根津美が一点集中でなにかを企画すると、事態は物々しい奇怪さに達する場合がある。たとえばここが青銅器を特集したと想像してみる。あれらの厳つい、グロテスクな文様をほどこされ、怪獣のような奇形をなした青銅器たちに空間が占められたとしたら、これに耐えられない人もいるにちがいない。
 この15日まで、ここでは特別展《井戸茶碗》というのをやっていた。井戸茶碗だけに絞っているから、基本的には朝鮮半島のどこで誰が焼いたのか素性のはっきりしない、薄土色をした粗忽な雑器が延々と並んでいる。そういう朝鮮の雑器群が安土桃山時代の日本の知識階層によって珍重され、茶の湯の席で大切に使用され、あらたな価値と生命を付加されたのが、井戸茶碗である。形、色、深さ、厚み、ひび、景色(表面の土模様)、さらには破損箇所の金継ぎの補修ぐあいに至るまで、つぶさな鑑賞対象となる。と同時に、誰がいつ所有したとか、誰がいつ誰に譲ったとか、誰が誰といつどの茶会で使用したとか、そういうコンテクストも重要な見どころとなる。
 それにしても、この特別展の過激なる単調さには舌を巻くしかない。


根津美術館(東京・南青山)にて12/15で終了
ahttp://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html