They live by night. 彼らは夜生きる。夜の映画、あるいは夜の演劇というものがあるだろう。前者にムルナウの『サンライズ』が、後者にストリンドベリの『令嬢ジュリー』がある。夜の作品を司るのは、夜という時間の持続そして精神的・肉体的苦痛である。単に楽しい晩というだけでは夜はやって来ない。“面白うてやがて悲しき” 漆黒の時間的持続に対し、「おやすみ」と言うのを禁じる他者が必要なのである。
オーディトリウム渋谷で開催中の《濱口竜介レトロスペクティヴ》で『親密さ』のフルバージョンが一般公開されている。昨年に発表された舞台中継作品『親密さ(Short version)』は、全体の第2部を形成している。今回のフルバージョン、第1部はこの演劇の稽古中の人間模様をとらえたドラマ。第2部のあとに、関係者のその後を映す10分ほどのせつないエピローグが付く。合計4時間15分の大作であるが、まったく退屈さを感じさせない。
思えば第2部の演劇も、男女たちが最終的に思いの募る一夜を明かす内容だったが、今回のフルバージョンを見るに及びあらわとなったのは、この演劇を上演しようと企てている女性演出家と男性劇作家の熱い愛の物語であり、また、彼らが夜に生きる存在であることだ。深夜営業の飲食店で働き、日中は稽古に精を出す。ところが稽古の内容が突如として彼らの夜の夢想や鬱屈を反映したものとなっていき、劇団内に動揺と困惑が流れこむ。
上演初日が危機的となった日、夜を徹して女性演出家と男性劇作家は歩き続け、互いをさらけ出していく。さらけ出され、苦痛に満たされた夜が、『サンライズ』のように張りつめた美しさに達している。そして(当たり前のことだが)夜明けがやって来る。多摩川で東京と川崎を隔てる丸子橋とおぼしき橋をたっぷりと時間をかけて渡る薄明の、極上の美しさ。人生は滑稽で悩ましいが、だからこそ、このように張りつめた薄明を経験することもできる。その時間、誰もが赤児のようにナイーヴとなり、誰もが老衰したように死と隣り合わせの感覚にめぐり逢う。
深夜0時の時報と共に映写が始まり、終わると真夏の円山町はもう夜が明けている。私たち観客の身の上にも否応なしに鬱々とした薄明が降りかかってくるだろう。その時すでに、おのがじし薄明の意味を思考せざるを得ない鍵束が手渡されているのである。
オーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)にて、7/28、8/3、8/4、8/10の各日24時より上映
http://www.hamaguchix3.com
オーディトリウム渋谷で開催中の《濱口竜介レトロスペクティヴ》で『親密さ』のフルバージョンが一般公開されている。昨年に発表された舞台中継作品『親密さ(Short version)』は、全体の第2部を形成している。今回のフルバージョン、第1部はこの演劇の稽古中の人間模様をとらえたドラマ。第2部のあとに、関係者のその後を映す10分ほどのせつないエピローグが付く。合計4時間15分の大作であるが、まったく退屈さを感じさせない。
思えば第2部の演劇も、男女たちが最終的に思いの募る一夜を明かす内容だったが、今回のフルバージョンを見るに及びあらわとなったのは、この演劇を上演しようと企てている女性演出家と男性劇作家の熱い愛の物語であり、また、彼らが夜に生きる存在であることだ。深夜営業の飲食店で働き、日中は稽古に精を出す。ところが稽古の内容が突如として彼らの夜の夢想や鬱屈を反映したものとなっていき、劇団内に動揺と困惑が流れこむ。
上演初日が危機的となった日、夜を徹して女性演出家と男性劇作家は歩き続け、互いをさらけ出していく。さらけ出され、苦痛に満たされた夜が、『サンライズ』のように張りつめた美しさに達している。そして(当たり前のことだが)夜明けがやって来る。多摩川で東京と川崎を隔てる丸子橋とおぼしき橋をたっぷりと時間をかけて渡る薄明の、極上の美しさ。人生は滑稽で悩ましいが、だからこそ、このように張りつめた薄明を経験することもできる。その時間、誰もが赤児のようにナイーヴとなり、誰もが老衰したように死と隣り合わせの感覚にめぐり逢う。
深夜0時の時報と共に映写が始まり、終わると真夏の円山町はもう夜が明けている。私たち観客の身の上にも否応なしに鬱々とした薄明が降りかかってくるだろう。その時すでに、おのがじし薄明の意味を思考せざるを得ない鍵束が手渡されているのである。
オーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)にて、7/28、8/3、8/4、8/10の各日24時より上映
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