荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『親密さ』 濱口竜介

2012-07-30 11:05:58 | 映画
 They live by night. 彼らは夜生きる。夜の映画、あるいは夜の演劇というものがあるだろう。前者にムルナウの『サンライズ』が、後者にストリンドベリの『令嬢ジュリー』がある。夜の作品を司るのは、夜という時間の持続そして精神的・肉体的苦痛である。単に楽しい晩というだけでは夜はやって来ない。“面白うてやがて悲しき” 漆黒の時間的持続に対し、「おやすみ」と言うのを禁じる他者が必要なのである。

 オーディトリウム渋谷で開催中の《濱口竜介レトロスペクティヴ》で『親密さ』のフルバージョンが一般公開されている。昨年に発表された舞台中継作品『親密さ(Short version)』は、全体の第2部を形成している。今回のフルバージョン、第1部はこの演劇の稽古中の人間模様をとらえたドラマ。第2部のあとに、関係者のその後を映す10分ほどのせつないエピローグが付く。合計4時間15分の大作であるが、まったく退屈さを感じさせない。
 思えば第2部の演劇も、男女たちが最終的に思いの募る一夜を明かす内容だったが、今回のフルバージョンを見るに及びあらわとなったのは、この演劇を上演しようと企てている女性演出家と男性劇作家の熱い愛の物語であり、また、彼らが夜に生きる存在であることだ。深夜営業の飲食店で働き、日中は稽古に精を出す。ところが稽古の内容が突如として彼らの夜の夢想や鬱屈を反映したものとなっていき、劇団内に動揺と困惑が流れこむ。
 上演初日が危機的となった日、夜を徹して女性演出家と男性劇作家は歩き続け、互いをさらけ出していく。さらけ出され、苦痛に満たされた夜が、『サンライズ』のように張りつめた美しさに達している。そして(当たり前のことだが)夜明けがやって来る。多摩川で東京と川崎を隔てる丸子橋とおぼしき橋をたっぷりと時間をかけて渡る薄明の、極上の美しさ。人生は滑稽で悩ましいが、だからこそ、このように張りつめた薄明を経験することもできる。その時間、誰もが赤児のようにナイーヴとなり、誰もが老衰したように死と隣り合わせの感覚にめぐり逢う。
 深夜0時の時報と共に映写が始まり、終わると真夏の円山町はもう夜が明けている。私たち観客の身の上にも否応なしに鬱々とした薄明が降りかかってくるだろう。その時すでに、おのがじし薄明の意味を思考せざるを得ない鍵束が手渡されているのである。


オーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)にて、7/28、8/3、8/4、8/10の各日24時より上映
http://www.hamaguchix3.com

福田平八郎の黒い筍

2012-07-26 20:32:07 | アート
 なぜ筍が黒いのかは分からない。福田平八郎は日展の〆切り数日前に訪ねてきた友人に、ほぼ完成に近づいた出品作『筍』(1947)を見せながら、「もっと黒く、もっと黒く塗らねば」と言ったそうである。ストーンズじゃあるまいし、どういうことなのか。
 福田は対象物に向かうとき、フォルムをつかまない。彼の目には色彩だけが飛び込んできて、それをまずは水彩で素描していく。彼の筆によって色彩が徐々に解析されていき、その果てに初めてフォルムが立ち上がってくるらしいのである。釣りに出かけた際にぐわっと飛び込んできた水面の動き、変容する色と光の推移を画布の上に捕らえていく。それはほとんど常に一種異様なフレーミングとなり、“アブストラクト日本画” とでも言うしかないものとなって、21世紀の受け手である私を驚かせる。『雨』『漣』といった代表作もさることながら、1936年と1940年の2バージョンが展示された『芥子花』の一見すると可憐にも見えるモチーフの中にも、そこはかヒンヤリとした物が突如として見えてくるのである。
 この夏、東京・広尾の山種美術館で《福田平八郎と日本画モダン》展がおこなわれた。福田平八郎の名を冠した美術展はめずらしく、素晴らしい機会となった。今回も展示点数に不満がないではないが、従来はどこかの近代日本画展で1~2枚だけ見かけたり、竹橋・東近美の常設展でやはりちょっとだけ見られたりと、福田平八郎を見る機会というのは、(少なくとも関東では)あまり恵まれてこなかったから。「江戸絵画はいいが近代日本画はつまらない」という人は多く、私自身も「横山大観のいったいどこがいいのか」などと偉そうなことを考えたりするけれども、福平は例外です。この人はすごい。
 京都画壇で1890年代生まれというと、もうひとり甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと)という怪物じみた男がいて、福平のテクノ的反復性とは反対に、こちらはデロっとしたグロテスクかつ執念深い美人画の畸形を生み出している。2人とも同じころ京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に通い、巨匠の竹内栖鳳に習ったりしているが、画風はまったくの正反対だ。ただし、近代日本画を凶暴に食い破っている点では共通していると思う(名声的には福田の方がはるかに上である)。

『BRAVE HEARTS 海猿』 羽住英一郎

2012-07-25 01:43:52 | 映画
 冒頭の家庭団らんシーンで、主人公・仙崎隊員(伊藤英明)が幼い息子に「男なら世界のトップになれ、アメリカの大統領になれ」と発破をかけるセリフの醜悪さがネット上で取り沙汰されている。これはいわゆる「脳味噌が筋肉」である主人公のような人種の口を衝いて出る陳腐なクリシェが、ある程度のリアルさをもって発されたわけであり、失笑程度で済まさずに、これをもって作者の姿勢をことさらに論難するのは、いわば「洗足盥の子を湯水と一緒に捨てる」がごとき鑑賞法だという気がするのだが、いかがであろうか。スコットランドの義賊がブレイブハートならば、本シリーズで海上保安官たちの自己犠牲が必ず「皆」に還元されるべく機能している点で、今回は豪気にBRAVE HEARTSと複数で名づけられているのも、同じ類の滑稽さとして一笑に付せばよいのではないか。なにしろ「海の猿」というのが美称だというのだから。
 しかしながら、還元されるべき「皆」の息災は、周知のごとく昨年の東日本大震災で徹底的に破壊され、列島住民を精神的・理念的にも分裂せしめたのだ。この分裂ぶりが本作の製作過程で潜在的に意識されているにしろ、コンテナ船の湾上火災、ジャンボ旅客機の緊急着水という2つの海洋パニックが用意されたとき、はたして本作の物語設定は大震災以前なのだろうか、以後なのだろうか。作者たちは言うだろう。もちろんこれはポスト震災の物語ではあるが、なす術なき自然の猛威への無力感がトラウマになってはいけないのだ、日々出くわす危険に対し、海難救助の(ある種アイルランド人消防士的な)ヒロイックな行いがあらためて称揚されるのは理に適っているのだ、と。スコットランド義賊の精神性をもってアイルランド消防士のごとく活躍する、いわばそういうケルト的ダイナミズム(?)を日本映画に根付かせたいわけである。
 吉岡隊員(佐藤隆太)が旅客機救助作業の最中、なんと自身がプロポーズしてふられたCA(仲里依紗)と、東京湾に沈みゆく機内でご都合主義的に邂逅する。「何か重いもの」が(パニック映画ではよくあることだが)立て続けに男と女を襲い、閉じこめられた男はクリシェを叫ぶはめに陥る。「俺のことはいいから、お前は逃げろ」。こうした自己犠牲のお涙頂戴は相思相愛のきっかけ作りとして罪のない仕掛けではある。
 しかし彼らのいかなる犠牲的精神をもってしても原子力発電所の事故を無化することはできないという、ある絶対的絶望を忘却するための陽動として機能してはならない。そのあたり、どうもこの『海猿』シリーズは危ういというか、精々よく言って理念音痴であるのがいただけない。加藤あいの役柄が3作目、4作目と回を追って痛々しい扱いとなっていくのも、この音痴のなせる業ではないか。


TOHOシネマズ スカラ座(東京・日比谷宝塚)ほか全国で上映中
http://www.umizaru.jp/

『ドキュメント灰野敬二』 白尾一博

2012-07-24 00:17:43 | 映画
 『ドキュメント灰野敬二』は全編にわたって音圧による快楽に満ちている。灰野敬二のライヴは観客を陶然の境地へと誘うが、この映像作品も同様である。
 監督の白尾一博は1970年、北海道生まれ。あがた森魚『港のロキシー』、山田勇男『蒸発旅日記』、木村威夫『夢幻彷徨』『馬頭琴夜想曲』『夢のまにまに』『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』といったさまざまな作品の撮影や編集を担当したり、『ヨコハマメリー』のプロデュース、『美代子阿佐ヶ谷気分』のプロデュースと編集など、インディーズ界隈でいろいろなことに挑むマルチなベテランのようである。今回みずから監督するにあたって、おそらく盟友である『美代子阿佐ヶ谷気分』のカメラマン与那覇政之に撮影を任せている。デジタルの画質特性を知り尽くした画面、アングル、露出、巧みなフェイドアウトと、仕上がりの質が高い。冨永昌敬がライヴシーンのカメラだけでなく、「車輌」でもクレジットされているのが微笑を誘う。
 もちろん灰野敬二の音楽に親しんでいない観客にとっては、ほとんど無価値に思える作品かもしれない。しかし灰野の地元である埼玉県川越市の過去と現在がプリズムのように美しく儚く画面に映り込んでいるのを漫然と眺めつつ、「映画だな」と思わされてしまう瞬間がある。学校、キリスト教会、つぶれたレコード屋跡、ガスタンクなど、市内のディテールを溶暗でとらえ終わったりとらえ返したりする波は、本作のクライマックスをなすパーカッション・ライヴにおける綿密な打ち合わせによる照明の溶暗を──そして大中小の文字を複雑怪奇に組み合わせた奇妙な譜面から慎重に音へ変換しながらさっとミュートするリハーサルの手つきを──作品の枠組において、もう一度じっくりと転用しているのである。

P.S.
 エンドクレジットに「プライバシー保護のため、記録映画ではあるが、部分的に創作をまじえた」という趣旨のテロップがあった。いったいどのあたりが嘘八百なのか、悪い意味ではなく無性に気になるところではある。


シアターN渋谷(東京・渋谷桜丘)にてモーニング&レイトショー
http://www.doc-haino.com/

『きっと ここが帰る場所』 パオロ・ソッレンティーノ

2012-07-22 19:39:52 | 映画
 イタリアの映画作家パオロ・ソッレンティーノが、ショーン・ペン主演の新作『きっと ここが帰る場所』で日本初お目見えとなった。映画祭上映された過去作品を見る機会を逸していたため、私自身にとっても今回が最初のソッレンティーノ体験となる。イタリアの新たな才能、などと聞くとわけもなく応援したくなるのが人情だが、ロケ地がイタリア国内ではないという点で若干機先を削がれることも正直なところである。
 現役を退いた元ロッカーの主人公(ショーン・ペン)の隠遁場所がアイルランドであったり、彼の名前がシャイアンであったり、人捜しのためにアメリカ西部で執念の旅程を続けてみたり、ドアの四角い枠に仕切られつつ主人公が家屋から去っていったりと、何かとジョン・フォードへのオマージュがところどころにまぶされている。ナチス狩りはオーソン・ウェルズか。ところが肝心要の作者の精神性がどうもジョン・フォードとは乖離していることも否めない。また、流麗すぎるカメラワーク、登場人物がカットに写るためにポーズをとり続けたカットに首を捻る部分もある。
 ただ、イギー・ポップの「The Passenger」がくり返しかかるだけで見る側を如何ともし難くしあわせな気分にしてしまう効果も持っている、と評価するのは少々手っ取り早くに過ぎるか。隠遁する元ロッカーの身辺に近所住まいのロック少女が心優しく付き添うのは、トム・ストッパードの『ロックンロール』で描かれたシド・バレットの晩年を想起させる。「This Must Be The Place (Naïve Melody) 」を披露する本人役のデイヴィッド・バーンの蕭々たる白髪を見ると、惜春の念を抱かずにいられない。わが高校時代、トーキング・ヘッズが4枚目『リメイン・イン・ライト』のツアーでトム・トム・クラブを従えて来日したときの絢爛豪華な充実しきったライヴの思い出が、きのうのことのように甦るのである。あの時はバーンもすこぶる若かった。
 パオロ・ソッレンティーノは、アンドレオッティ首相の伝記映画『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』(2008)が近く公開されるということで、こちらも見ておかねばと思う。


ヒューマントラストシネマ有楽町(有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
http://www.kittokoko.com/