荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『地球に落ちて来た男』 ニコラス・ローグ

2016-07-30 23:13:53 | 映画
 ユーロスペース(東京・渋谷円山町)にてデヴィッド・ボウイー追悼上映『地球に落ちて来た男』(1976)を再見。おそらく中学時代以来ウン十年ぶりの再見だろう。正直言って、部分部分の強烈な記憶はともかく、ほとんどのシーンが新作を見るように新鮮だった。人の記憶なんて曖昧なものである。ニコラス・ローグの演出はかなりアナクロで、現代にはちょっと通用しない部分も少なくない。でもたとえば、眼球のコンタクトレンズを外すカットや、ヘンテコなセックスシーン、桟橋での有名すぎる会話「私のことが嫌いなのね」「嫌いじゃない。誰も嫌えない」、白昼のジン飲酒など、すばらしいイメージは枚挙に暇がない。きょうは同作の評というより、もう少しとりとめなく行きます。

 1928年生まれのこのイギリス人監督の全盛期は、1980年代まで遡る。おととし閉館した新宿歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」が1981年にオープンしたとき、こけら落としがニコラス・ローグ監督、フォークシンガー、アート・ガーファンクル主演のラブサスペンス『ジェラシー』(1979)だった。自殺未遂したヒロインのテレサ・ラッセル(ローグ映画のミューズであり、妻でもある)がラストで見せる、気道確保のために切開した喉の傷がじつに鮮烈だったのを、子ども心に覚えている。上映終了後、やくざっぽい男性が愛人っぽい女性といっしょに退場しながら「ああいう女って、いるんだよな」と言っていたのが背後で聞こえてきた。なるほどねと。
 ニコラス・ローグは撮影出身の人で、監督に転身する前は『アラビアのロレンス』の第二班撮影、ロジャー・コーマンの『赤死病の仮面』やフランソワ・トリュフォー『華氏451』なんかのカメラも担当している。イギリス映画の次代エース候補みたいな存在だったはずだ。
 「シネマスクエアとうきゅう」の番組編成を監修していた映画評論家・南俊子さんの趣味だったのか、『ジェラシー』の客の入りが良かったからか、その後は旧作の『赤い影』(1973)まで拾って上映していた。思えばニコラス・ローグばかりでなく、リドリー・スコットのデビュー作『デュエリスト』(1977)、その弟トニー・スコットのデビュー作『ハンガー』(1983)共に「シネスクとうきゅう」での単館公開だった。『ハンガー』もデヴィッド・ボウイー主演である。
 兄リドリーの場合、次作の『エイリアン』(1979)がブレイクしたあとの事後公開だったが、弟トニーの場合、『ハンガー』のあと、いきなり『トップガン』(1986)で世界トップのヒットメイカーになってしまう。『ハンガー』を見たときは正直言って、あんなに偉大なハリウッド監督になるとは思わなかった。そういう意味では、「シネスクとうきゅう」はじつに先見の明のある劇場だったということになる。

 『地球に落ちて来た男』は、大気の調査のために地球にきた宇宙人(D・ボウイー)が、宇宙船の故障のために帰れなくなり、しかたなく先進テクノロジー企業を創業して富を築き、帰還のための宇宙船開発のためにがんばるが、だんだんアルコール依存症になっていく物語である。このモチーフはおそらく、ボウイー自身の楽曲「スペース・オディティ」(1969)の歌詞に登場する主人公、薬物中毒になっていく宇宙飛行士トム少佐から借りてきたものだろう。
 この名曲「スペース・オディティ」は、最近でもベルナルド・ベルトルッチの美しすぎる小品『孤独な天使たち』(2012)でそのイタリア語版(「Ragazzo solo, ragazzo sola」)が使用されていたほか、ベン・スティラー監督・主演の『LIFE!』(2013)でも重要な役割を担っていた。『LIFE!』でベン・スティラーが演じた主人公は、直接的には描かれてはいないものの、あの突如とした躁状態は、おそらく薬物中毒かアルコール依存症によるものだろう。人生応援歌みたいなポジティヴなノリの作品だったが、『LIFE!』は見た目ほどアカルイミライの作品ではないと思う。『孤独な天使たち』の主人公少年の従姉オリヴィアは、薬物依存がかなり深刻だった。おそらく彼女の未来はきわめて暗いものだろうと言わざるを得ない。
 『LIFE!』のベン・スティラーも、『孤独な天使たち』の従姉も、『ジェラシー』のテレサ・ラッセルも、『地球に落ちて来た男』のボウイーも、みなトム少佐の親戚である。


7/31(日)以降はユーロライブで続映
http://bowiechikyu.jp

松本裕子Objet展@Gallery SU

2016-07-25 23:44:08 | アート
 東京・麻布台のGallery SUで見た松本裕子さん(ふだんは「涙ガラス制作所」として活動 今回初めて本名を知った)のオブジェ展が素晴らしく、2回も見に行ってしまった。この作家を知ったのは偶然で、わが「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」時代の編集委員仲間である廣瀬純の著書『暴力階級とは何か』(2015 航思社刊)の表紙を飾った写真家・中村早さんの作品展を今冬に見に行った際に、一緒に松本裕子さんのガラス工芸作品も展示されており、その見た目は矮小・繊細・脆弱に見えながら、頑強さと放縦さとを体現するガラス作品の数々に、感銘を受けたのである。
 今回はガラス作品ではなく、木彫作品の展示だった。女性のクビが4体ほど。手首が2体ほど。ガラスと立体図形の組み合わせが数点。そして鳥の翼が1対。女性のクビをゆっくり回していくと、木彫とはいえ、彼女たちには固有の人格が宿っていることが手に取るにように分かる。いずれの顔も愁いを帯びて笑顔はないが、決して暗く沈んではいない。むしろ話しかけられるのを待っているような、何かを待機しているような表情に見える。そしていずれのクビにも共通する、後ろで束ねた髪の毛。目は口ほどに物を言い、というが、後ろ頭の髪の束も私には雄弁に思える。感覚の集約を感じさせるのだ。
 そして、鳥の翼。翼の単体で、胴体は作者によって放置され、今回は展示されなかったのだという。胴体から切り離され、無残にもがれた翼はそれでも凛とした威厳を失っておらず、マグネットによってさまざまな鉄にぴょんと吸い付いて、ペットのようにも見える。もがれた翼といえば、どうしてもヴィム・ヴェンダースの代表作『ベルリン 天使の詩』(1987)における、天使から切り離された翼を思い出す。そしてそれは元はといえば『嘆きの天使』(1930)のマルレーネ・ディートリッヒに遡っていく。
 ディートリッヒの時代錯誤な翼を復活させたのが、ディズニー映画『マレフィセント』(2014)におけるアンジェリーナ・ジョリーのもがれた両翼だった。ジェームズ・キャメロン、ティム・バートン、サム・ライミの美術監督を歴任したロバート・ストロンバーグの監督デビュー作である『マレフィセント』には、美術畑出身ならでは美学がたしかに花開いていた。
 そんな、あらぬ夢想と共に、同ギャラリーで松本さんの作品たちを見つめてきた。全作品が売れてしまった最終日、展示を終えた作品たちは梱包され、私たち鑑賞者はもちろん、作者本人のもとからも立ち去っていくのだろう。あらたな持ち主のもとで、マレフィセントの羽のごとくそれは保管されていくのだろう。そうした感慨と共に、ロベール・クートラス(クトゥラ)のコレクションをもつGallery SUの美しい昭和モダニズム(1936頃築)の洋館を後にした。


Gallery SU(東京・麻布台)
http://gallery-su.jp/exhibitions/2016/07/objet-1.html

『あなたの目になりたい』 サッシャ・ギトリ

2016-07-21 09:41:54 | 映画
 サッシャ・ギトリというとついつい、蓮實重彦が梅本洋一のお葬式で弔辞を読んだ際に出てきた、「この日本でサッシャ・ギトリの全作品レトロスペクティヴが実現するまでは、梅本洋一の死を真に悼むことにはならない」という(弔辞としてはやや人を喰った)言葉を思い出してしまう。あれを聴いた列席者の誰もが「それは無茶な注文だ」と心でつぶやいたにちがいない。しかし今、アンスティチュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)でギトリ作品4本がちゃんと日本語字幕まで付いて上映されたという事実――これには賞讃の念しか思い浮かばない。にもかかわらず、今回私が見ることができたのはたった一本、『あなたの目になりたい』(1943)だけである。情けないとしか言いようがない。
 『あなたの目になりたい』は、マックス・オフュルスも顔負けの流麗なメロドラマで、主人公の男女(サッシャ・ギトリ自身と、彼の妻ジュヌヴィエーヴ・ギトリが演じている)の出会いの場となるパレ・ド・トーキョーの美術展会場における諧謔に満ちた絶好調なコメディ演出から始まって、徐々に画面が陰りを帯びていく変調の妙が、なんとも第一級の匠としか言いようがない。
 恋人をみずから振っておきながら、悲嘆に暮れる彫刻家役のギトリが、すがるように自分の美術コレクションを拝み回したり、ロダンの手の彫刻をさすったりするカットの、あふれるような美への殉教ぶりが感動的だ。
 このカットは、映画冒頭のパレ・ド・トーキョーにおける、ギトリがユトリロやルノワールなど、先人たちへのオマージュの言葉を友人と手に手を携えて歩き回りながら、たっぷりと語るシーンと呼応しているだろう。それらの展示作品はいずれも1871年という年号によって集められた特集のようである。フランスは普仏戦争で敗れたが、そのさなかにこれらの傑作が生まれたのだ。敗戦はしても芸術の美によって勝利を挙げた――そのように豪語するサッシャ・ギトリのダイアローグはほとんどモノローグのように響きわたり、誇り高さが強調される。
 パリ・コミューンで殉じなかった(そしてそれは小心者を意味しただろう)芸術家たちによって傑作が生まれ、それによる永遠の勝利がある。ひるがえって自分は、ナチスドイツ占領下のパリで映画を撮っている。灯火管制のために真っ暗となったパリの街を、懐中電灯で足下を照らしながらナイトクラブから家路につく恋人たちの鮮烈なイメージ——トリュフォーが『終電車』を撮りたくなった理由のすべてが『あなたの目になりたい』にある。
 と同時に、サッシャ・ギトリが占領下でドイツ軍に媚びることによって、恵まれた製作環境を維持し得たという影の部分もあるとのことだ。パリ・コミューンで殉じなかった芸術家が生み出した美を讃えるその声には、どうしても自己正当化の色彩も帯びていることだろう。生きるのが困難な時代にこそ、偉大な芸術が生まれる。1871年のパリから1943年のパリは困難さによって結びついた。そしてそれを目撃する私たちの2016年。全世界が影に覆われつつあるこの現代こそ、第2第3のルノワールが、サッシャ・ギトリが、生まれて然るべきである。そうでなければ、なんのための人間世界なのだろう?


9月発売《珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX 2》に収録予定
http://net-broadway.com/wp/2016/07/16/珠玉のフランス映画名作選%E3%80%80dvd-box-2/

『ヒメアノ~ル』 吉田恵輔

2016-07-18 23:50:19 | 映画
 『ヒメアノ~ル』は、シリアルキラーの猟奇サスペンス、それからフリーターの一念発起的青春譚、ラブコメディといった複数ジャンルが、絶妙に溶け合っているというよりも、たがいに邪魔し合いながら、空々しい断層を作りだしていく点が非常に面白かった。そしてそうした中和しない各要素——猟奇サスペンス、フリーター青春譚、そしてラブコメディ——が、シネコン向け現代日本映画のクリシェに対する当てこすりにもなっている。
 連続殺人の猟奇性を体現するのはV6の森田剛で、フリーター青春譚は濱田岳とムロツヨシ、ラブコメディは佐津川愛美と濱田岳がそれぞれ受け持っている。彼らの言動ののりしろのような部分に、他のカテゴリーへの橋渡しの契機があるのだが、互いが互いの偵察と監視をしているような構造なのだ。
 シリアルキラーの森田剛にストーキングされた佐津川愛美は、ストーカー被害者としての恐怖と不安に満ちた生活の中で、恋愛も成就させ、ラブコメディのヒロイン役もやりこなしているわけだ。もちろん人の愛は成就されるほうがいいけれども、どうも濱田岳と佐津川愛美だけが、不幸の連鎖のようなこの映画の中で不釣り合いなほどに幸福を享受している。その幸福ぶりがどこか不埒さ一歩手前なものだから、ややこしい。
 現代日本はなにかと「不謹慎」という言葉で他人の不埒さ、不節操を監視し、弾劾する社会に成り果てているが、この映画もそんな構造なのである。シリアルキラーは別に、彼女の旺盛な愛と欲望を叱責するために脅しているわけではないのだが、どうもそうも見えてくる、という嫌らしい構造をこの映画は持っているのである。
 不埒さは、佐津川愛美のコケティッシュな佇まいからも、見え隠れする。『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007)など初期の主演作をのぞけば助演の印象が強い佐津川だが、本作では、そうした嫌らしさを見え隠れさせる難しいヒロイン役を好演したのではないか(欲を言えば、もっとできるはずだと思うが、事務所サイドの制約があるのだろう)。


ヒューマントラストシネマ渋谷等でムーブオーバー
http://www.himeanole-movie.com

ユーロ2016を終えて

2016-07-15 04:00:35 | サッカー
 ユーロ2016の感想を少しばかり。
 まず私にとってのベストマッチは、最も興奮させられたという意味で、イングランドvsアイスランド。イングランドが普通にルーニーのPKで先制するも、そのあとすぐにアイスランドが2点をパパッと取って逆転勝ちするという衝撃的な一戦だった。特にアイスランドの2点目。大きな展開からフリーの選手が決めた1点目は今大会のアイスランド特有のゴールだったが、2点目は違う。まるで好調時のスペインのような華麗なティキタカで、イングランド守備陣を完璧に翻弄してからのゴールだった。スコアは2-1だが、インプレッシヴ・ポイントはそれ以上の差があった。
 ウェールズvsベルギーもおもしろい一戦だった。ナインゴランの豪快ミドルが決まったときには、一方的な展開になると思ったけれど、意外な展開となった。ウェールズの1点目(つまり同点弾)がおもしろい。シメオネのアトレティコ・マドリーが時々使う「芋虫」的なセットプレーで、ジョルダン・ルカクがマークする相手をフリーにさせてしまった。この日初スタメンのジョルダン・ルカクの若さが出て、心理的駆け引きに負けた。
 評判となったリヨンでのフランスvsアイルランド、ハーフタイムでのデシャンのダブル交代も素晴らしかった。カンテOUT コマンIN、スタート時の4-3-3から、最近試していなかった4-2-3-1にシステム変更。トップ下に入ったグリーズマンの2ゴールはいずれも、後半のシステム変更の賜物だった。
 決勝ポルトガルvsフランスは、もちろん、休みの1日少ないフランスの疲労が大きかったけれども、クリスティアーノ・ロナウドの故障交代後がそこはかとなく漂う「鵺的」な妖気が印象深かった。ポルトガル、フランス双方のピッチ上の22人がみな、クリスティアーノの超能力の前に調子を狂わされたかのようだった。内容はともあれ、ポルトガルがついに同国史上初のメジャータイトルを獲得した。12年前の自国開催のユーロ2004決勝で、ギリシャののらりくらりとしたフットボールにしてやられて、涙を流した経験を方法論として体得したかのような、塩漬け型のフットボールを実践しての戴冠だったが、2年後のロシアW杯ではヨーロッパ王者の責任として、イベリア半島元来の美しいフットボールを再興してほしい。昨今は、美しいフットボールを否定するのが新しい、みたいな風潮が大手を振っていて嫌な感じがするから。