荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ブラインドネス』 フェルナンド・メイレレス

2008-11-29 07:01:00 | 映画
 『アイ・アム・レジェンド』『ハプニング』『WALL・E ウォーリー』など、今年もアメリカ映画は人類滅亡、黙示録的な終末を描くことに余念がなかった。中には『インベージョン』『地球が静止する日』のように、地球外生物なり未来人なり機械なりの具体的な仇敵を伴った旧来のパニック型映画も残存することはしているが、黒沢清の『回路』(2000)のように意味ありげ、かつ理由不明な破局の方がトレンドとなっている。このことによって、パニック映画からアクション性が失われていくのは若干寂しいけれども、「きっと近いうち、人類はこんな風に破滅するにちがいない」という、正直にリアルな共時感覚に沿っているだけなのだろうから、仕方がないだろう。
 その代わりに、『ブラインドネス』のような珍品が出てくる事態も見逃すまい。『シティ・オブ・ゴッド』のフェルナンド・メイレレスの新作(日加伯合作)である。人類破滅の重苦しいパニック性になんと、コメディ感覚を導入するという増長ぶりには、好感がじつに持てる。視覚を失った人類はみな、食べ物を求めて連結トロッコのごとくさもしく縦列に連なり、あっちにふらふら、こっちにふらふら。エゴ丸出しとなる隔離施設での騒動にしても、基本線は笑い飛ばしである。
 『ケミカル・シンドローム』(1995)から早13年、あの素晴らしい女優ジュリアン・ムーアにまたひとつ、珍品の案内役という勲章が増えた。J.S.バッハの傑作カンタータ『我が片足は、墓穴にありて』(BWV156)のラルゴが、巨大な廃墟と化したストリートの2階窓から幻聴のように聞こえて、伊勢谷友介が盲目の瞳で見上げるあたりの終盤の一連も悪くない。


11月22日(土)より、丸の内ブラゼールなど全国で上映中
http://blindness.gyao.jp/

『幸福(しあわせ)』 アニエス・ヴァルダ

2008-11-25 02:44:00 | 映画
 有楽町、飯田橋、池袋など、都内各地でうずうずさせられる上映イベントが目白押しだが、それらにはほとんど出かけられそうもない。アァそれらのイベントが24時間運営だったら、深夜早朝の回に駆けつけられるのにと恨み節ばかりが嘆息と共に出るばかり。

 現在の私に残されているのは、アニエス・ヴァルダの『幸福(しあわせ)』(フランス 1965)を自宅のTVで20年ぶりに再見しつつ瞠目することのみである。この美しすぎる画面、そして青、白、赤へのフェードアウトは、ある若い一家の息災を保証しはしない。
 真夏のある日曜日、一家で郊外の森林へピクニックに出かける際に主人公の愛妻が着ている青のワンピースは、微笑みが凍りつく前に消滅し、それと入れ替わるように、人生の秋のような、黄色へのフェードアウト、枯木の森がセーター姿で幾分か呆然とした表情の主人公の眼前に広がるばかりである。主人公が同時に愛した二人の女は、ブロンドのヘアと屈託のない微笑みこそ類似しているが、もはやたしかにそこには、冷え冷えとした秋の気配、時間の残酷な経過を漂わせてしまっている。

 私がこの『幸福』を初めて見たのは、製作後20年以上が経ったあとだったし、その時点でこの作品は未熟な私の目には、すでに黄昏れた印象を与えたものだったが、あれからさらに、20年の歳月が経ってしまったのである。

今秋訪れた、5つの茶の湯展

2008-11-23 13:08:00 | アート
 ここ1ヶ月ちょっとの間に、都内で行われた5種類もの茶の湯関連の展覧会を、期せずして訪れてしまった。東京美術倶楽部の《禅・茶・花》を皮切りに、畠山記念館の《数寄者 益田鈍翁》、東博平成館企画展示室での《茶人好みのデザイン: 彦根更紗と景徳鎮》、日本橋高島屋の《江戸・東京の茶の湯展》、そして最後に三井記念美術館の《森川如春庵の世界》である。こうしたリストというものは、茶人でもないくせに知った風な、私自身の生来のミーハーな性質を物語っているようで、はなはだ気恥ずかしい。

 ただしこうした世界から、数多くの事柄を学ばなかったと言ったら嘘になる。茶の湯で具現される、総合的にしてディテール豊かでもある美は、「心づくし」という他者への意識の伝達となっていて、その意味では、いわゆるアートそのもの以上に直裁的で、その痕跡は後世の私たちの心をも打ってやまないのである。
 世界には、茶を飲まない国はないだろう。たとえばスティーヴン・フリアーズの『クィーン』でも、スティーヴン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』でも、侯孝賢の『フラワーズ・オブ・シャンハイ』でも、溝口健二の『噂の女』でもいいのだが、そこには必ず、充実した愉悦の時間、淹れる者の悦びと、飲む者の悦びが交差してはいなかっただろうか。ものの本によれば、室町後期に茶道が発達する以前、茶の湯はなにより、競技であった。「闘茶」と呼ばれる、鎌倉貴族や大商人の間で、一口飲んで茶葉の銘柄を当てるゲームの規則が流行したのであるが、この競技は北宋から伝来したとのことである。


《森川如春庵の世界》は、日本橋室町の三井記念美術館で11月30日(日)まで開催。他の展示会はすべて会期終了
http://www.mitsui-museum.jp/

三隅研次の「意地」について

2008-11-21 01:29:00 | 映画
 「邦画バブル」などと言われ、好成績に沸く日本映画であるが、私に言わせれば、真に活躍すべき映画作家が縦横無尽に活躍し、大ヒットを飛ばし得ていない現状は、たしかにバブルとしか思えない。では、真に活躍すべき映画作家とは誰たちであるのか、それはいちいち名を列挙せずとも推して知るべしだろう。
 1960年代後半から日本のスタジオ・システムが崩壊し、死に瀕した歴史は、もはや再考・回顧に値しない事象なのであろうか。私はその答えを保留する。その代わり、少しずつそうした時代の作品を再び眺めてゆくことにしたのだ。私の視線は当分、劇場公開される新作の封切りと、そうした事象との間を往還することになるであろう。たとえば、ハリウッドのスタジオ・システムが崩壊した影響をもろに受けつつ、ニューシネマにも乗り切れなかった『冷血』『ロード・ジム』のリチャード・ブルックスのような存在に、視線は注がれてしまう。
 きのう私は、三隅(みすみ)研次監督、勝新太郎主演の2本、『御用牙』(1972)と『酔いどれ博士』(1966)を、あらかじめ録画しておいたHDDで再見した。三隅研次は現代の価値観で計るなら、「作家」と、ブログラム・ピクチュアの監督の中間ぐらいの存在となるだろうか。条件の悪化が如何ともし難く画面にべったりと暗い影を偲ばせているが、やはりここには「作家」にしか可能ではない意地の発露がある。この意地というものが現在の私には、同時代に篠田正浩がATGの『心中天網島』『卑弥呼』あたりで試みていた実験より、はるかに貴重なものであるように思える。
 滝田洋二郎の『おくりびと』(2008)のごときは、野坂昭如の原作を翻案した三隅研次の奇作『とむらい師たち』(1968)の前では、あっけなく吹っ飛ぶであろう。

テキサス

2008-11-18 00:23:00 | 味覚
 今夜は、オススメのお店を紹介させていただきます。

 水天宮の日本橋劇場(旧「日本橋区」区役所 昭和22年廃止)裏手にあるアメリカ料理店「テキサス」は、午前2時まで旨いサーロインステーキ、フィレステーキを食べさせてくれる素晴らしい店である。
 近隣にあるIBMの社員連中が残業だったのか、終電を逃した後などに、カリフォルニア・ワインで旨そうに乾杯している光景は微笑ましく、深夜でも満員である。ハンバーグは、米国風・テキサス風・メキシコ風の3種類があるが、それぞれ何味なのかは実際に行って確かめていただきたいところである。
 ここのマダムのきりりとした給仕ぶりも見ていて気持ちがよいのだが、店内の内装もハワード・ホークス的なサルーンで、実に渋い。カントリー&ウェスタンのファンはたまらないだろう。