ヴィム・ヴェンダースの新しい写真集『Places, strange and quiet』(独Hatje Cantz社刊)が出ている。これは、今年の4月から5月にかけてロンドンのウェストエンドにあるアートギャラリー「ホーンチ・オブ・ヴェニソン」で同名の写真展が開催されたのと同時に出版されたもの。ただし、2006年に表参道ヒルズで開催された『尾道への旅』など、先行する作品集から再選されたカットもある。
カリフォルニア、モンタナ、尾道、ハイリゲンダム、ブリスベーン、パレルモ(!)、アルメニア、東京、直島、シチリア島、ベルリン、モスクワ、ヴッパータール、サンパウロ…。ヴェンダースのトレードマークとなったパノラマ写真の横長画面が、世界の片隅で見つけたさまざまな風景をとらえる。人物の姿はあまり見られない。いたとしても、たいがいは後ろ姿、もしくはまばらな点景のみであり、人物の個性や心理状態は完全に捨象されている。また、以前の作品集のタイトルにあったように、画面はつねに「かつて…」とつぶやいている。「かつてそこにあった」あるいは「かつてあの人がいた」。
これはいわば、〈誰が袖〉というものではないだろうか。〈誰が袖(たがそで)〉とは、安土・桃山時代に人気を博した日本画のジャンル名で、高貴な身分の女性が脱ぎ捨てたばかりの着物が無造作に衣紋かけにかけてあったり、はずした装身具が置きっぱなしになっていたりする室内の〈無人ショット〉の形式を指す。それは単なる無味乾燥な〈空(から)舞台〉ではなくて、ついさっきまで持ち主がフレーム内に収まっていた、という残り香を濃厚に漂わせるものでなければならない。いま、その人はフレームからわずか数メートルずれた蚊帳の中で、恋人に抱かれているのかもしれない。あるいは、お付の者の手を借りて湯浴みの最中なのかもしれない。そういう、遊び感覚にあふれた空洞の現前が〈誰が袖〉なのである。
小津安二郎『秋刀魚の味』(1962)のラスト近く、主人公(笠智衆)の娘(岩下志麻)が嫁いで、夜のとばりが降りたころ、薄暗い2階の部屋に取り残された鏡台や窓、机などを写した〈無人ショット〉、あれらこそ〈誰が袖〉であろう。また、あの〈誰が袖〉があったからこそ、その後に続く中村伸郎の「娘が嫁に行っちゃった晩なんて、嫌なもんだからな」と、先に帰宅した笠智衆のことを思いやりつつ、北竜二に対してポツリとこぼすセリフが、無残な凄みを宿しつつ、夜の闇深くに響きわたることになったのだ。
ヴェンダースはこの〈誰が袖〉と、いつまでもいつまでも戯れ続ける。それは、まず〈被写体〉が消失し、次に〈場所〉が消失し、最後におのれ自身が消失するまで終わらない、あまりにもシリアスな戯れである。
カリフォルニア、モンタナ、尾道、ハイリゲンダム、ブリスベーン、パレルモ(!)、アルメニア、東京、直島、シチリア島、ベルリン、モスクワ、ヴッパータール、サンパウロ…。ヴェンダースのトレードマークとなったパノラマ写真の横長画面が、世界の片隅で見つけたさまざまな風景をとらえる。人物の姿はあまり見られない。いたとしても、たいがいは後ろ姿、もしくはまばらな点景のみであり、人物の個性や心理状態は完全に捨象されている。また、以前の作品集のタイトルにあったように、画面はつねに「かつて…」とつぶやいている。「かつてそこにあった」あるいは「かつてあの人がいた」。
これはいわば、〈誰が袖〉というものではないだろうか。〈誰が袖(たがそで)〉とは、安土・桃山時代に人気を博した日本画のジャンル名で、高貴な身分の女性が脱ぎ捨てたばかりの着物が無造作に衣紋かけにかけてあったり、はずした装身具が置きっぱなしになっていたりする室内の〈無人ショット〉の形式を指す。それは単なる無味乾燥な〈空(から)舞台〉ではなくて、ついさっきまで持ち主がフレーム内に収まっていた、という残り香を濃厚に漂わせるものでなければならない。いま、その人はフレームからわずか数メートルずれた蚊帳の中で、恋人に抱かれているのかもしれない。あるいは、お付の者の手を借りて湯浴みの最中なのかもしれない。そういう、遊び感覚にあふれた空洞の現前が〈誰が袖〉なのである。
小津安二郎『秋刀魚の味』(1962)のラスト近く、主人公(笠智衆)の娘(岩下志麻)が嫁いで、夜のとばりが降りたころ、薄暗い2階の部屋に取り残された鏡台や窓、机などを写した〈無人ショット〉、あれらこそ〈誰が袖〉であろう。また、あの〈誰が袖〉があったからこそ、その後に続く中村伸郎の「娘が嫁に行っちゃった晩なんて、嫌なもんだからな」と、先に帰宅した笠智衆のことを思いやりつつ、北竜二に対してポツリとこぼすセリフが、無残な凄みを宿しつつ、夜の闇深くに響きわたることになったのだ。
ヴェンダースはこの〈誰が袖〉と、いつまでもいつまでも戯れ続ける。それは、まず〈被写体〉が消失し、次に〈場所〉が消失し、最後におのれ自身が消失するまで終わらない、あまりにもシリアスな戯れである。