荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『きみの友だち』 廣木隆一

2008-07-30 01:13:00 | 映画
 廣木隆一の新作『きみの友だち』が素晴らしい仕上がりを見せている。この廣木という監督は晩成型というか、もちろん若い頃から活躍してはいるのだが、ここ数年着実に進化を見せている。少年と少女を主人公とする廣木作品としては『4TEEN』(2004)というWOWOWドラマがあったが、今回はあの時の経験を肥やしに、さらに磨きをかけている。

 最近フランシス・F・コッポラの『アウトサイダー』(1983)を再見する機会があったのだが、これに匹敵する青春悲話だと言っても過言ではない。輝かしく光り、散っていく悲哀と、再生の希望を託した一篇であり、芦澤明子のカメラは、その光景をぐっと引きでこらえつつ、少しずつドリーしながら捉えていく。山梨という、自然に恵まれつつも盆地的に閉塞した地形の中でうごめく10代の生が一度きりのものとして写しとられている。
 うごめくといっても、はちきれんばかりのエネルギッシュでスポーティな青春ではない。身体的なハンディキャップゆえに他のクラスメートのように謳歌しえなかった女子生徒たちの、どちらかというとスタティックな、歩みの緩やかな物語ではある。
 また、引きの画といっても、例えば青山真治や諏訪敦彦の画面のような強いインパクトを残すというものではなく、相米慎二のように一瞬一瞬が怒濤のようなものでもない。もう少し職人芸的な世界ではあるのだけれども、画面を大切にしようという作者たちの真心が伝わってくる。主要登場人物を演じた10代の若き演者たちにとっても、一生で1度きりしかできない演技だっただろう。

 『アウトサイダー』の終盤では、大火傷で死んでいくジョニーが親友のポニーボーイに“Stay gold...(黄金のままでいろよ)”と遺言を残して息を引き取る感動的な場面があったが、『きみの友だち』の終盤の病室の、白日夢から現実に引き戻される一連はこれに匹敵する感情の表出がある。個人的には『天然コケッコー』よりも遙かに優れた作品だと思う。



7月26日(土)より新宿武蔵野館他、全国順次公開
http://www.cinemacafe.net/official/kimi-tomo/

ユーセフ・シャヒーン死去

2008-07-28 11:59:00 | 映画
 すでに各紙朝刊が報じているように、アラブ世界を代表するエジプト人監督、ユーセフ・シャヒーンが、7月27日、脳出血で死去した。享年82。
 坂本安美さんが「カイエ」用のインタビューをするのに、臨時のスチール係を買って出て、帝国ホテルまで付いていったのは、『炎のアンダルシア』(1997)のプロモーションで来日した時のこと(1998年初頭?)だから、もう10年前となる。あの頃はまだ当然のことながら、巨匠の溌剌とした姿があった。取材するこちら側が元気をもらったほどだった。

 去年の今ごろ、アントニオーニとベルイマンが同時に亡くなったが、残念ながら映画界は、またしても偉大な作家を失うこととなってしまった。今の中堅作家がいっこうに巨匠に登り詰めてくれないので、巨匠の数が少なくなるばかりだ。

『スピード・レーサー』 ラリー&アンディ・ウォシャウスキー

2008-07-28 00:19:00 | 映画
 ウォシャウスキー兄弟の新作『スピード・レーサー』は、徹底的に平面性が追究された作品だ。画面上のコースは縦横無尽に、まるで草月流の生け花のごとく蜷局を巻き、客席の応援者、または出場者の家族たちは、なにか一点を見つめてコースの一部始終に視線を合わせる雰囲気を作る。各社ロゴがあしらわれたコンパネ前に陣取る各国放送局の実況アナも同様だ。レーサーたちはとにかく画面の奥へ奥へと猛進する。その光景を眺める連中は、なにやら画面隅の方角へ虚しく視線を投げかけ、ハーとかオーとか気勢を上げるのが精々だ。要するにここでは映画を見る受け手への過剰な信頼がある。視線の演出をめぐる甘えである。
 だが、この編集に対して特に言うべき言葉はない。鮮烈な原色の世界だとか、薄っぺらなポップ性だとか、ゲーム的スピード感だとか、そういう参照物を手繰り寄せる必要もない。日本のいにしえの名作アニメを実写化してくれたのは光栄なことだが、ウォシャウスキー兄弟は一刻も早く、このスパイラルから抜け出すべきで、『マトリックス』(1999-03)を超えるために時間を使うべきだと思ってしまうのだ。むしろポール・バーテルの『デス・レース2000年』(1975)のグロテスクさがふと恋しくなった。
 ただし、ここまで書いて無責任にも、以上のような評言を根底から覆したくなっているのも事実だ。題名は、スピードを出すレーサーの物語だと単純に思っていたら、なんと「スピード」というファーストネームに「レーサー」というファミリーネームを持つ主人公の固有名詞だった。一杯食わされたわい。


P.S.
ちなみにこの兄弟の姓 "Wachowski" はおそらくポーランド系の姓と思われ、ネイティヴ的には本来「ヴァホヴスキ」となると思われる(完全な余談)。



TOHOシネマズ錦糸町他、全国で上映中
http://wwws.warnerbros.co.jp/mach5/

舟越桂 個展『夏の邸宅』

2008-07-26 23:58:00 | アート
 いま、白金台の東京都庭園美術館で現代彫刻家・舟越桂の個展が開かれている。『夏の邸宅』という実に魅惑的な題が付けられたこの個展は、まず玄関ホールに《森に浮くスフィンクス》(2006)が置かれている。いや、正確には置かれているのではなく、スフィンクスは中空に浮遊している。だが釣り下げられているのでもない。
 彫刻というものが宿命的に引き受けなければならない重力というものを拒絶するかのように、四方から大枝が伸びて、まるで古代青銅器の方鼎のごとくスフィンクスを支え、中空に浮遊させている。スフィンクスは、たわわな乳房を誇りつつも股間にはペニスを有する両性具有の姿をなしている。両性具有というモチーフは、舟越が近年最も関心を寄せているものだ。

 今展で最も劇的なのは、個室に1体ずつ置かれたシリーズだろう。アール・デコ装飾に彩られた旧・朝香宮邸である庭園美術館の空間と、絶妙な調和を醸している。1階奥の部屋に、カーテンの薄ら暗い逆光を受けた《冬の会話》(1998)、2階角の客間に佇む《森へ行く日》(1984)、書架の《夏のシャワー》(1985)、2階奥の寝室の《冬の本》(1988)、そして何と言っても2階バスルームに置かれた女性像《言葉をつかむ手》(2004)は、なまめかしさの極致を行っている。

 楠の木は非常に堅い。柘植に次ぐ堅さを持つ(仏壇に飾る小仏像は楠か柘植が多い)のだが、舟越は楠の木彫にこだわる。エルヴィス・コステロ『All This Useless Beauty』のアルバム・ジャケットを思い出させもする木彫のスフィンクスたちは、楠の香りを部屋中に匂い立たせている。誰もいなくなった真夜中の旧・朝香宮邸で、彼ら彼女らは人知れずおしゃべりに興じているにちがいない。



9月23日(火・祝)まで東京都庭園美術館で開催
http://www.teien-art-museum.ne.jp/


P.S.
今夜は隅田川花火だった。去年同様、清洲橋上で小さく咲き乱れる花火を見物したあと、そのまま川向こうまで渡りきり、高橋(たかばし)のどじょう屋「伊せ㐂」にて丸2枚と泥鰌汁食す。それにしても、私が撮った写真、円谷プロの特撮みたいに見える。

『クライマーズ・ハイ』 原田眞人

2008-07-26 00:56:00 | 映画
 原田眞人らしさの出た力強い映画となった。トム・ハンクス型のヒューマンドラマを想起させ若干臭い部分も多く、また、あれこれと伏線を張りすぎて回収しきれていないうらみも残るが、乗客乗員524名、うち生存者4名、死亡者数520名という史上最悪の航空機事故に直面した地元新聞社の記者たちの奮闘を、原田が熱血漢的に描き切っている。

 日航機巣鷹山墜落事故の全権デスクに抜擢された悠木記者(堤真一)の、広い編集室をのたのたと歩き回る動きがいい。事故の重大さのためか『ヒズ・ガール・フライデー』的な軽快さは回避されている。その代わり、主人公が生涯の手本とする、カーク・ダグラス出演の記者もの映画とは、ビリー・ワイルダー監督の『地獄の英雄』(1951)のことであろうか。この映画、私は未見だが、堤真一の実母がパンパンで、父である米兵と映画館でこの作品を見るシーンがある。年代的には辛うじて事実と合致しているだろう(『地獄の英雄』の日本公開は1952年9月らしい)。

 それにしても、職業生活そのものが日々、その人物の最も敬愛する映画へのオマージュにもなっているという設定描写をこのように受け取るということは、悪くないものだ。



新宿バルト9他、全国で公開中
http://climbershigh.gyao.jp/