荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ジヌよさらば かむろば村へ』 松尾スズキ

2015-04-29 02:45:21 | 映画
 都会で絶望した人間が田舎で再生する物語⎯⎯田舎でアナクロな執筆生活に入ったり、無農薬野菜の栽培に熱中したり、人里離れた岬の先っちょで喫茶店を営んだりと、いろいろなバリエーションがある。私は先日これらの映画群に、三島有紀子監督『しあわせのパン』にちなんで「パンの映画」というあだ名をつけた。これは世のパン好きの方々にケンカを売っているわけではなく、このジャンルが放つロハス的、オーガニック的、田園ヘルシー的なメッセージ性を一まとめにしたいためである。キューバ風サンドイッチを作っては売りまくるジョン・ファヴローの『シェフ』は出来のいいパン映画であり、吉永小百合がむかしの皇族のようにふるまう『ふしぎな岬の物語』はかなり出来の悪いパン映画である。
 劇作家・演出家・俳優の松尾スズキにとっては『クワイエットルームにようこそ』以来8年ぶりとなる新作映画『ジヌよさらば かむろば村へ』は、いわゆるカルチャーギャップ・コメディで、これはかつてアメリカ映画が最も得意とするジャンルだった。田舎者が都会で巻き起こす珍な騒動、または都会人が田舎で場違いなふるまいを披露して笑わせるジャンルである。タイトルの「ジヌ」は東北弁で「銭」を意味する。『ジヌよさらば』もまた「パンの映画」であろう。「パンの映画」のずらしと言った方が正確である。ロハス的な精神再生を謳歌するのではない。東京で「お金アレルギー」なる精神病を発症した主人公(松田龍平)は、流れ着いた東北地方の過疎村で、貨幣経済の全否定を宣言する。そしてそれは当然のごとく、まるでうまく行かないのだが、人足労働と実品の物々交換でなんとか切り抜ける。
 これを敷衍するなら、日本経済の縮小傾向、国際的地位低下をニヒルにデフォルメ化した史上最初の風刺喜劇であるのかもしれない。もう日本は国際競争のプレイヤーを引退します、こちらは勝手にフェイドアウトしますから、あとはご勝手に、という。日本は、貨幣経済がいち早くスムーズに機能した社会として知られる。李氏朝鮮の使節団が江戸時代の日本に来て、鎖国下ではめずらしい外国使節団なので列島各地で歓迎を受けた。そして朝鮮側の官僚が、ひとつの事実に衝撃を受けたことを日記に書いている。この卑しい島国では腹立たしいことに、乞食ですら食料を与えても感謝せず、こしゃくにも金銭を要求する。いまだ貨幣経済をスタートしえずにいた自国との対比において、少なからずプライドを傷つけられたようである。
 後期資本主義も、アメリカ中心主義から中国へのシフトが明確となった現在、アメリカのNo.2子分というウマミある地位を喪失しつつある社会が、長期フリーター化、下流化の拡大をとめどなく進行させた結果、ついに貨幣経済の全否定へと帰結するというニヒルな笑いである。松田龍平のぼんやりとして虚ろな目を上映時間のあいだずっと眺めているうちに、松尾スズキという演劇人の、現在の空気に対する容赦ない吐き捨てがあぶり出されてくるようだ。


丸の内TOEI(東京・銀座)ほか全国で上映
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『ラブバトル』 ジャック・ドワイヨン

2015-04-23 01:58:20 | 映画
 近年のフィリップ・ガレル作品の痛々しい弛緩は、評価しないというより、これはこれでひとつの壮大な実験だと思う。たとえばデヴィッド・ボウイーにしても1980年リリースのアルバム『スケアリー・モンスターズ』を最後に第一線から後退して早35年もの歳月が経過したが、それは当人も先刻承知で、いわば彼の老いと人生の下り行く道行きそのものが生涯をかけた実験なのである。ガレルも同様ではないか。
 そしてジャック・ドワイヨンの新作『ラブバトル』だが、これは正視に耐えない弛緩を見せている。1980~90年代の彼の作品の緊張感とは比べるべくもない。愛がどうしても諍いの形を取ってしまうというのが往時のドワイヨン映画だったとすれば、今作におけるバトルはあまりにも目的的すぎる。そしてそれはガレル、ボウイー同様、作家自身が自覚している自家撞着であろう。
 しかし結果として出てくるもののユニークさは無視すべきではない。作家自身が言うように、これは言語化される以前の原初的なボディ・ランゲージである。身体表現としての言語と言ってもいい。古代エジプトの象形文字をロゼッタストーンで辿っていく体験と同じであり、紀元前中国文明で全盛を迎えた芸術である青銅器、あの見込み(器の底の部分)に刻まれた甲骨文字(動物の骨や亀の甲羅に刻んで吉凶を占った言語)を覗き込むのと同じ体験である。ものの形であると同時に文字へと変化していく、つまり絵画が文字に転じていくプロセスである。時にグレコ・ローマン・スタイルであり、時にアルティメットであるような男女のレスリングは、ホモサピエンスの愛情表現を現代に甦らせようという試みだろう。「戦う時はタンゴのように黙って。君はしゃべり過ぎる」という男の言葉は、彼らの組手じたいが言語であり、象形文字の再発明なのだから、さらにオーラルに言葉が重ねられるのは冗語法的に過ぎると主張しているのである。
 ただし、コーチぶった年上の男がリードしているように見えて、じつは象形文字の主体は女の方にある。女は戦いを提案する。男は主体的ぶっているだけであり、つまり男は説得されているに過ぎない。オーストリア貴族出身の作家レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの諸作において、マゾヒズムはマゾヒストによる相手に対する教育が前提になる、とドゥルーズは書いていたことがある。サディズムはサディストが主体になれば、すぐさま成立する(加害者側が被害者を単に痛めつけるだけだから)のに対して、マゾヒズムは相手を教育(=説得)しなければ成立しない。最近ではポランスキーの『毛皮のヴィーナス』が解りやすい事例だった。本作における女性主人公は気性の荒いじゃじゃ馬だが、彼女は本質的にはマゾヒストであって、執拗に懇願、説得を反復しているのである。


ユーロスペースにて上映終了 そのあと全国で順次上映
http://www.lovebattles.net

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

2015-04-19 12:51:54 | 映画
 監督と同郷、メキシコ・シティ出身の撮影監督エマヌエル・ルベスキ・モルヘンステルンによる、劇場の楽屋など舞台裏をグリグリとかけずり回る移動撮影の勤勉さは賞讃に値するけれども、だからと言って、オスカーをふくむあらゆる映画賞の撮影賞を獲りまくるというのは、どうにも腑に落ちない。映像業界のトップ中のトップとして君臨するハリウッドにおいて、たいていコスチューム・プレイが衣裳デザイン賞を独占し、実在の偉人を演じた俳優が主演男優賞を毎年のようにかっさらっていく。大ヒットしたSF超大作の製作者に作品賞までは差し上げられぬが、視覚効果賞は無条件で彼らのものだ。アカデミー賞の投票基準が素人と大して変わらないのは、百年一日のごとしである。たとえば各部門でノミネートされた『フォックスキャッチャー』も、撮影賞はノミネートさえされていない。オーストラリア出身の若手グリーグ・フレイザーの撮影の素晴らしさは本作のルベスキ以上だと思うが、地味だとダメだということか。
 本作について友人Hからメールをもらった。曰く「やはりこのジャンルは『オープニング・ナイト』にトドメを刺すと思いつつも、『女優志願』とか『おかる勘平』とかこのジャンルはいいなと思った」というのだが、私もこれには同感である。バックステージものというジャンルが見る側にもたらす恍惚感は格別だ。本作も、ロケ場所として使われたセント・ジェームズ・シアターの隅々の空間、近所のブロードウェイ界隈などは、写っているだけでワクワクする。主人公たちが稽古の後に寄るバー、あそこで私も一杯やりたいものだ。
 バックステージものというジャンルは、『バンド・ワゴン』『雨に唄えば』などのミュージカル・コメディを除いても、マンキーウィッツ『イヴの総て』、ルノワール『黄金の馬車』、マキノ雅弘『おかる勘平』、溝口健二『残菊物語』、成瀬巳喜男『鶴八鶴次郎』、パウエル=プレスバーガー『赤い靴』といった第一級の名作が数多くあり、カサヴェテス『オープニング・ナイト』、リヴェット『地に堕ちた愛』『彼女たちの舞台』、デプレシャン『エスター・カーン』など「作家の映画」でも力作が少なくない。薬師丸ひろ子と三田佳子がぶつかる『Wの悲劇』も素晴らしい。
 本作は精神分裂(薬物中毒?)の舞台人が見た虚実混濁という点で、『ブラック・スワン』(2010)を彷彿とさせる。いや、ほぼ同じ映画だと言っていい。内気なバレリーナの代わりに、図ぶとい熟年俳優の主観で万事が進展するから「何でもあり」になっている。かつてヒーロー映画で名声を博したハリウッド俳優(マイケル・キートン)が低迷打開を図って、ブロードウェイでレイモンド・カーヴァー作品を上演する。西海岸vsニューヨークという対立構図。「NYタイムズ」紙の劇評家(リンゼイ・ダンカン)の主人公たち映画人に対する軽蔑がリアルで、いかにもありそうだ。私的な趣味をひけらかすと、誰かが誰かを軽蔑し、面と向かって罵倒するシーンが大好きだ。罵倒される側に同化してシュンとなるのは映画体験の醍醐味のひとつだ。その点、本作のマイケル・キートンのシュンはいまひとつ甘い気がする。いずれ、そうしたシーンの映画史についてまとめてみてもいいかもしれない。
 バックステージものの中の位置付けとしては、上記のような傑作の森にあっては、本作はやはりごく標準的な佳作におさまる。マイケル・キートンと『バットマン』(1989)、ナオミ・ワッツと『キングコング』(2005)など、出演者の過去作との連係が重要なファクターになっていて、実録ものの興味を掻き立ててくれる。ピーター・ジャクソンによる2005年版『キングコング』も、広義のバックステージものだった。


TOHOシネマズシャンテ(東京・日比谷)ほか全国で上映
http://www.foxmovies-jp.com/birdman/

『花籠の歌』 平之助ごしょ

2015-04-16 03:11:50 | 映画
 スカパー!で平之助ごしょ(五所平之助の当時のペンネーム)監督の『花籠の歌』(1937)を見た。五所の現存作品はそれなりに見ているが、これは初見。あくまで私見だが、五所という人は全盛期が2回あると思う。1つ目が『花嫁の寝言』(1935)、『人生のお荷物』(同)、『朧夜の女』(1936)、『新道 前後篇』(同)、そして本作『花籠の歌』と畳みかけた1930年代後半、2つ目が最高傑作である『わかれ雲』(1951)、そして『煙突の見える場所』(1953)、2番目にいい『大阪の宿』(1954)と続いた1950年代前半である。つまり本作は五所の最初の全盛期の掉尾を飾る作品である。五所はこの『花籠の歌』の撮影中に結核に倒れ、その後3年間、生死をさまようことになる。同時期に結核に倒れた伊丹万作はついに復帰できぬまま亡くなったが、五所は舟橋聖一原作の気迫あふれる『木石』(1940)で映画界に帰ってこられた。
 『花籠の歌』は五所が同年代の小津安二郎、清水宏と競いつつ同じ釜の飯を食っていたころの、ナンセンスでありながらリラックスしていいムードのスケッチ的作風である。小津は厳格、清水は奔放、そして五所は感傷だ。感傷というのはたいてい褒め言葉ではないが、松竹蒲田・大船においては必ずしもネガティヴなものではない。

 銀座で評判のとんかつ屋「港屋」の主人が河村黎吉、看板娘がまだ可愛かったころの田中絹代、その恋人である大学生が佐野周二、佐野の同級生が笠智衆、田中絹代の妹が高峰秀子(まだ子役)、そしてなんといっても「港屋」の腕のいい中国人コック「李さん」を演じた徳大寺伸の名演が光る。また、河村黎吉の磊落ぶりはいつもながらに素晴らしく、私の個人的な彼のベストは千葉泰樹監督『生きている画像』(1948)のツンデレな寿司屋役だが、今回のこのとんかつ屋主人役もそれに迫るほどよかった。
 こういううすくちの、なんとなく人肌恋しいような、大都会の寂寥感を愛でるような作風は五所の面目躍如である。「港屋」の2階に陣取った佐野周二が窓外を眺めつつ思わず出る「銀座はやっぱりいいなあ」というセリフは、本作の共同シナリオを書いた野田高梧によってのちに反復されている。小津1951年の作品『麦秋』で同じく佐野周二が丸の内のビルディングの窓から外を覗きながら原節子に言うセリフ「君、ちゃんと見ておけよ。東京はやっぱりいいぞ」に呼応している。その心情の根を張った確かさは、昨今の日本映画でやたらと垂れ流される、田舎で再生する人間の物語で必ずと言っていいほど東京が「人間性をないがしろにする砂漠」として描かれるクリシェの底の浅さを、数十年も前にすでに撃っているのである。学生時代から見たくて見る機会のなかった『花籠の歌』をようやくこの年齢になって、ぽっと見る。映画の格別さをそんな時にあらためて感じさせる経験、それは汲み尽くせぬものである。

藤竜也 著『ストレンジャー・ブルース』(「文學界」5月号)

2015-04-14 00:26:50 | 
 雑誌「文學界」5月号の巻頭を飾る〈総力大特集 映画の狂宴〉は、個々の記事の面白さはもちろんあるにせよ、鼎談・対談・インタビューのオーラルな記事のみに限定してダーっとただ並べている点は、あまりいい気がしなかった。書き言葉としての映画批評なんてもうとっくに死んでいるのだから、誌面をそれらに割くにあたらぬ、とでも言わんばかりだ。編集方針に異議あり!である。
 が、なかんずく高崎俊夫による藤竜也のインタビューがあった。北野武の新作PRの一環として実現したものだろうが、長谷部安春の影響でジャズファンとなり、長谷部と一緒にニューポート・ジャズ・フェスティバルに出かけて、帰りの飛行機の中で読んだ「週刊新潮」かなにかで「日活撮影所売却」という記事を見て「しまった」「大金を使っちゃった」と思った、などととぼけたエピソードを披露していて面白く読んだ。
 高崎が「話は変わりますが、1974、75年に雑誌『話の特集』に発表された藤さんの小説をお持ちしました」と言っておもむろに取り出してみせて、藤が「うわあ(笑)、こういうものが出てくるとは!」となるあたりは高崎の面目躍如で、さらに副産物として藤竜也の小説3篇のうちのひとつである短編『ストレンジャー・ブルース』が、誌面の150ページほど後ろにしれっと再掲載されている。編集方針、気に入った!
 『ストレンジャー・ブルース』の内容は、ジャズファンの風来坊アカハチと、米軍払い下げの分厚い防寒コートに身を包みつつ「追われているんだよ……かなりまずい状態なのさ」と告白する男サドの、わずか一昼夜だけの旅の道づれ、凍てつく真冬の新潟でのジャズを聴きながらのドライブである。鄙びていて、渋くて、男臭い、ヴェンダースの『さすらい』もかくやというロードムービー風、ニューシネマ風の股旅小説である。時代の空気と言われてしまえばそれまでであるが、クリフォード・ブラウンとサム・ペキンパーとル・クレジオをさりげなく引用してみせる藤竜也という人への興味がさらに増す読書体験となった。