玄徳道

道を語るブログです。

令和六年四月 三六九神示

2024-05-16 20:44:00 | 神示道
和合の道の開きに、素直にならねば救われぬと申しても、人の身は我を守り、生き通す為に素直になれば、我が身の負けと、自我強く我が意を通さむと、争いを起こすなり。

扨も、人の身はその昔、大海原に龍体と産みなされ、その龍体が玉を得る事によりて、人の身と進化する、道が開け、長い長い年月をかけ、龍は、海から陸に上がり、水中生活から、空気の暮らしとなり、段段と神に似せて、人の身と進化いたしたのであるぞ。

(注 脊椎動物の種は(細胞)は、海水より生ず。
人の身も母の子宮の羊水(塩水)の中で、長い精子(龍体)と卵子(玉)が結ばれて、人体となり、十月十日の水中生活から空気の世界へ生まれた来る。海原=産腹.子宮=龍宮)

龍体から人の姿と成る時には、神界は八百万の神々の神霊(みたま)を分けて、それぞれに御魂に相応の特技特性を授け、人の世が成りたぞよ。

長い年月、荒海の中で苦労いたし、その上、海中の龍体から陸に上がり、人の身と成るまでには、言うた言われん苦労いたしたから、人の身は、我を守らむ為に、やむをえず、自我や欲が強くなりてしまいたのであるぞ。

肉体の霊の自我や欲が、神授の御魂を押し込めておるから、中々、神の言う事を素直に聞けず、御魂の特技、特性も易く、発揮出来ぬので、あるぞ。

人の身が海中(塩水)の中から人として生まれる過程は、母の体内の水中生活から十月十日をして、空気の世界に生まれる事で教えておるのであるぞ。

(注 万物の種(細胞)は海中の水から生じ、末は水にかえる。)

龍体から苦労して、人の身と成り、生きてゆかねばならぬ故、自我や欲が強くなると申せ、人の身は我が身一人では暮らせぬものであり、家族あり縁ある人々、そして世界人類が時計の歯車の如く、かみ合い、助け合いて、人類社会が成りておるのであるぞ。

神には御魂や生命を頂き、生かされておると言えど、活きてゆくには、肉体の血の流れの中に伝わる様々の因縁(遺伝子)の浮上により、中々人生を楽に過ごす事が出来ずに、人それぞれ苦労があるが、それがとて、人をうらやみ、人の幸をうばうような事をいたしても、我が身が覚り、心改めぬ限り、争えば争うだけの因縁は深まりてゆくのであるぞ。

この日本の国も、よほど心いたして、政治の世界も改め、真を入れねばならず、経済も少し上向になりたとて、調子にのれば、これまで、以上に困らねばならぬ節目も来るから、常に引き締めて歩まねばならぬぞよ。

細かく申すようであるが、神が人類に任せた現の世も、神が構わねば行けぬ、ところまでなりて、おるのであるぞ。

このまま、世を持ち崩しては、世の元からの神々にも、祖先にも顔向けならぬ、事になるぞよ。

目先だけ、飾りた栄えでは、世は長続きいたさぬぞよ。

それぞれに、授けてある神授の御魂の特技特性を磨き、皆で活かしつつ、共存共生の世を開かねばならぬぞよ。

修聖には、小学五年生の頃、「ひろしま」と言う、原爆の映画をみて、焼けただれた、人々の右往左往する様を見て、恐怖心を起こし、こんな事になりたら、我も家族も世界の人類も如何になるか、真剣に重い、絶対に核兵器は、無くせねばと思い、それが神の道に入る、一つのきっかけにもなりたのであるぞ。

(注 映画「ひろしま」は、昭和二十八年公開、関川秀雄監督、原爆投下の映画、修聖、小学四年の三学期か、五年の一学期に見る。)

未だ世界各地で戦争は止まず、核兵器で威嚇し合い、国取り合戦や、宗教思想の争いを繰り返しておる有様であるぞ。

正月元旦、能登の地震もそうでありたが、地球の生命線、艮坤の神氣厳しく動き、各地に地震、天候異変が起こりておるが、神に任された責任を忘れ、我が世の春と有頂天になりておる人類の改心を迫る、神の警告であるぞよ。

早く、荒事は、現事(あらごと)、新事の始まりである事に気ずき、事ある度に地球を汚し、穢す事、人類相姦の悪事を改めてまいらねば、ならぬぞよ。

国々の頭(かしら)達も、我が身大事、国が大事と思うなら、核兵器、絶対使ってはならぬぞよ。

核兵器を如何にするか、人類発生以来の罪科を審(さば)く最後の審判の第一の課題であるぞよ。

その事を世界人類、真剣に考えねばならぬ、この時であるぞよ。

戦争に勝っても地球の人類が、滅びるような事となって、何とするのじゃ。

和の道じゃ。

話(わ)さねばならぬのじゃ。

腹の底から打ち開けて話すのじゃぞ。

良く考えよ、岩戸の開きとは、つつみ隠し無い言葉を発する事でもあるぞよ。

真の言葉(言霊)を発する事で、生命幸倍(いのちはきは)う道が開かれるのじゃ。

正しく生き、気の抜けておる、人類の生気を取り戻さねばならぬのじゃ。

枯れ木に花を咲かせる世

桃(百)の実りの世を開かねばならぬ

これからの世じゃ

さあ、闇の世を晴らす

日の出の神はすでに御現れであれど

それを覆う強い者勝ち

利己主義の黒雲を

祓わねばならぬのじゃ

天照国照日の出の神の宮が

天橋立籠宮じゃ

この年の四月の大祭には、久々に、日の出の神の大神輿も出でるぞよ。

皆々心の中の闇(病)晴らす、日の出の神を御迎えいたし、己が使命の全うに勇みて前へ進もうぞ。



言霊神也 ン。

令和甲辰六年四月二十七日

龍華斎修聖拝写。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成六年四月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(令和六年四月八日示)

2024-05-14 19:16:00 | 神示道
山上に残雪を頂き、美しい富士山と、その山下の桜の花も満開で、朱塗の社殿もあでやかな、木花咲耶姫命を祀る浅間神社が拝され、次に、伊豆半島の雲見にある、烏帽子山山頂の磐長姫命を祀る、雲見浅間神社が拝されました。

(注 木花咲耶姫命と、その姉の磐長姫命は、二人共、天孫瓊々杵の尊様の妃に上がらされたが、磐長姫命は、容姿がみにくいので返された。

木花咲耶姫命は、木や草だけで無く、万物万民、美しい花を咲かせ、栄えさす、神徳であり、その御栄えを磐の如く、末永く続く事を願っておられるのが、磐長姫命の神徳である。

木花咲耶姫命、磐長姫命一体となられて、花咲き実る末永き栄えの道が開けるとの神意であろう。)

次に、未だ、つぼみの広い、桃の林の中に、西王母に扮された、出口王仁三郎聖師が立って桃の木を見ておられました。

(注 西王母は中国の最も神聖な霊山、崑崙山に住まう仙女の長であり、東王父を厳の御魂とすれば、瑞の御魂であり、出口聖師と御魂通じる。

西王母は桃園の管理し、三千年に一度実る不老長寿の桃の実を持って下生され、その時は、地上天国成就の時と言う。

出口聖師は、瑞霊であり、地上楽土を開く先駆けをされたのであり、桃の実りは百(桃)の実りで、総ての事象の完成を意味する。

出口聖師は、大正十三年、五ヶ月にわたり、モンゴルで布教活動(東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する為。東亜とは、東アジアの事)をされる。

大本の、ある御神体(不明)を崑崙山に埋めてくるよう、笹目仙人(秀和)に預けられた。昭和十年、大本教弾圧の前か。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮心経道。

2024-05-05 14:01:00 | 大道
世を済(すく)い、民を経(たす)ける。これを経世済民と呼ぶ。

実際の意味は、世の中を治め、民衆を苦しみから、救済すること。です。

故に、どうしても、経をたすけるとは、呼ばない。

経の意味は、筋道をたどるとされて、おります。

北極真経では、七経とされ、七つの霊的器官(チャクラ)を現しております。

先天坐を修めれば、七つの経は、自らを助ける為に、働く。

なんせ、人が動かねば、七つの経は、動かず。

私の独善的思考では、経とは、また、仏典の御経も、人を救わないが、人を助ける存在であると、今の私では、思考しております。

また、神は、絶対に、人を救わないが、自ら動く存在を必ず助けてくださります。

私の神は、人の願いを叶いません。人を救いません。戦争があっても、人のカルマのままに、されます。

されど、自然力あり、けれども、人の悪意よりも、人の誠に善く繋がり、自助力を与えるのみと。


扨て、悪しき予言類、それは、夢であったり、胎内記憶による予言。

神様は、他人に生まれ変わるのに、人の記憶は残さない。

人の魂には、記憶が無い。

魂とは、方向、悟りて得た、性質、本性の在り方を示すのみ。

そこに記憶は無い筈です。

胎内記憶を宿すと称する、親を観ると、スピチュアルを学んだ人が多く、赤子から、以前、お腹に宿った瞬間から、言い聞かせが多すぎる。

お腹に宿ってから、教育するも、道でありまずか、それを度を越して過ぎれば全ては毒となるが、自然であります。

胎内記憶とは、人の妄想なのでしょうか。

否、確かに存在される。

前世の記憶が魂に深く根ざしておりますが、それは、脳の記憶に宿っているというよりも、感性感覚。

それは、不思議でもなんでもなく、母の胎内に宿ってから、脳が育って来たならば、その感覚を掴むのかと。

また、大日月神示を示されておる方は、胎内記憶とは霊による憑依の可能性もあると述べられておらます。

まさに、人間は生まれてから、すべからく、自然、環境、先祖、カルマ等等に、よって思想か定められる、悪癖があるのは、確かです。

しかし、胎内記憶や夢で観た、津波、天変地異などの予言類は、悪しき存在からの憑依であるのかも、知れません。
未来を予知する胎内記憶等には神様は働きません。

自然災害とは、地球の働きあり、また、人心(霊界)の悪意が積もり、溜まり、滞る故に、天は荒れ、地は揺れ、人も更に、悪意を育てる故に、起きるのでございます。

人は、天と地の間にあり、実に地球経綸の主体であり、天地運行のカナメ(要)となる働きが、あるのですが。

しかし、世界多くの人は、そこまで意識できておりません。

オカルトスピチュアル好きな方は、ハイヤーセルフ、守護霊云々が導き、また、悪魔、悪霊云々が邪魔をするなんて、想念しております。

故に、人の妄想を更に作るのが、スピチュアルや宗教なのかも知れません。。


故に、全ての蒙昧(宗教的観念)を打破すべきであると考えます。


人が自らを正義として、自分は、間違いが無く、正しいからと善悪、天使悪魔とタテワケル(自然には善悪は皆無)から、それが、悪因となり、カルマを造り、真善と真逆に働くから、宗教間の争いは絶えません。


扨て、鎮心経と云うお経があります。

私は、三十年前ぐらいに、当時銀座にあった東京総院にて鎮心経の存在を教えてもらいまたした。

当時の事務局の方が仰るには、「白光真宏会の幹部の方が、その宗教では大々的な催し事(神事、修行)をすると、結果、事故が必ず起きて絶えない、しかし、鎮心経を催し事の前に誦えると、事故が起きる事が無くなった。」

今の白光真宏会は知りませんが、創設時の教祖も、その養女も、共に、老祖の弟子でありました。その由縁により、幹部の方も老祖の弟子になられた方も多かったと考えます。

鎮心経。

老祖の弟子のみが誦える事が許され、世の刧劫を化する事が可能。

故に絶大な効果を発揮する為に、戯れで誦える事は許されません。

しかしこれは、道院に無断にて、書籍になりました。

私的には、鎮心経とは、老祖の真体でもあり、先天坐、後天坐ともに、坐による静寂を悟る者ならば、誠こころにより、誦える資質があると考えます。

また、一方、正当な道院の教えでは、道院から生まれた、経、咒は、老祖の弟子(修方)のみが誦えることを許され、修方以外の方は、誦えるのは許されておりません。

その理由は、一般の人が咒を挙げると神を穢すとも、神様に不敬になるとも言われております

道院の咒や、経、全てが、神伝(フーチ)による由縁であるからです。

確かに、かなり昔、深〇〇山さんが、強🔵と言う書籍にて、道院の咒を無断で公開されました。道院関係者からそれは、まずいと言われた、〇〇さんは、あわてて、香港総母宗に呈判(神様にお願い)し、お金を寄付して、理由を述べて、認めてくださいとお願いしましたが、却下。

「求修(老祖の弟子)もせず、また、誠のなんたるかを明らかにしない、一般の者が、どうして咒を信じ、誠によって感じることが出来るのであろか………たとえ、求修して長年にわたり、誠をもって咒を誦し、劫を化する事が出来る者であっても、多くの人がこの原理に不明であって、先天の大道を宣べ明らかにするに至っては更に論ずるまでもないことである。」

ちなみに、強🔵と言う書名も、「宇宙の主神に祈祷するのであるから、「強」の字を用いるのは宜しく無い。「誠運」と改めるべきである」とおっしゃっておられました。



扨て、日本道院紅卍字会とは、日本人には、厚い夙縁が無い限り、見向きもされません。

中国式のお祈り(九拝礼)がどうしても馴染めないと言われる方もおりました。

日本の神社のように誰でも気軽に参拝出来ないようです。

昔、大本教と提携していた、時代は、大本皇大神、即至聖先天老祖で、大本人が道院に来ても、神道式で祝詞を唱えたり、される方もおられたようですが、それは、出口聖師存命の間のみでしたし、日本人には、神社のように、親しみが全くありません。

また、道院日本紅卍字会自体も、修方以外の方には、公にできない事も多くあり、修方、老祖の弟子と成りたければ、東京総院まで、足を運びその上で、四誓顔の儀式を行わなければなりません。

また、フーチ(神示)の時代は終わり、自らの責務で物事を為される事を老祖がのぞまれておられます。

故に宗教にありがちな、御陰が貰える信仰でもありません。

坐と誦経と慈善活動を行うだけです。

言わば、神様を頼らずに、人自らが、その誠意により、道(坐道)を歩まねばならないのです。

故に、多くの日本人には広まりません。


その中で、先天坐の指南書「生きる意味と方法」や、「鎮心経」が道院という、組織に関わらず、世に出回ったのは、日本神界の働きが多少あったとも考えます。

地球には、人が生誕してから、人の思いが刧劫となり、積もっております。

人の歴史を見れば明らかで、お互いに争い、殺しあった事実があり、善き歴史もありますが、殆どが、奪い合う戦争の歴史であります。

人の思念か清からず、悪しき意図が増えて、それがカルマとなり、自然破壊も含めて、それが積もり、地球が苦しんでいるのであります。

その刧劫を祓い、清める為の法は、神国日本には、昔から降ろされております。(皇室の祭祀、古神道等)

また、出口聖師の「霊界物語」、道院での「太乙北極真経、午集正経」(これも修方が道院内でしか、誦えることを許されておりません)が活気的あります。

霊界物語などは、誰でも買え、誰でも音読すれば、効果があるとされます。

物語が長過ぎるため、根気が必要でもあります。(もしかしたら、必要な一巻を臨機応変に唱えれば善いのかも知れませんが)

故に、ここで鎮心経が道院に関係無く、世に出る、奇跡も、解る人には、判るかと思います。

言わば、世界と地球は、危機に瀕死ていると言う事であります。

ここで、鎮心経の書籍が発行(十年前)された、正否は、問いません。

ただ、坐や瞑想により、自身を回光し、誠心にて、鎮心経を誦えれば、自分の為には、なりませんが、地球の為になる事を明記致します。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の真通力道

2024-04-24 17:26:00 | 大道
梅で開いて、松で治めるのが、神の御心。


人には、魔法が存在します。

黒魔術、白魔術などは、悪魔と天使から授かったとされる方もおられるかも知れませんが過去の妄想(呪い、嫉み、破壊、自己幸福、利己主義)として、生まれた類のもののような、感じが致します。

全ては、想像。妄想なのかも知れません。

人の起源より、億年の産物。

人を魔法で呪い殺すには、生霊を憑けても、神社にて、藁人形に五寸釘を打ち付けても、人は決して、殺せません。

されど、暗示を与えれば、人は自らを殺める。

人の生死とは、言わば、天命、自然によります。。。天災地災人災すべては、自業自得に因るのかも知れません。

天命を得る者は、「生とは天が我を労するなり。死とは、即ち天が、汝を安んずるなり。」と感じるでありましょうか。

天命を知らぬ、存じぬ者は、災害により、病で死に、人により、戦により、人間関係によりて、死ぬもまた、自死するも、全ては、「私は悪く無い」と念を残されます。

それが、現存される、幽霊なのかも知れません。

また、呪術とは、多くが妄想であるので、人を殺したいのであれば、物理法則の中で、動けば、確実でございます。

なんせ、人間は脆く、小指一本、えぐれば、出血と痛みで、朦朧とする。

人とは、人の心とは、また、肉体も実に脆い。

故に、護る為の行いは、実に堅実となる。

堅実とは、真の、誠の神に通じる事でございます。

何をもって、堅実と言うのでありましょうか。

生きるなかで、大切な事は、生かされている存在への感謝、また、魂と心のままに、嘘をつかない、正直さ、そして、生きる為に必要な食べ物へのあり方。

扨て、余談。

戦後、花粉症が興ったのは、牛乳と小麦粉の弊害による。

それに、伴う、癌化。

私の妻が乳癌となった所以は、パンを好み、乳製品(バター、チーズ)好む癖に依る。

戦後、白砂糖により、人の鬱化が始まった。

甘いお菓子は、その場限り、脳に幸せを与えます。その後は、それを過剰に欲しがり、糖は、血液を濁し、神経の判断を狂わせる。

自然界の甘いものは、全て、酸っぱいが有る由縁でございます。

堅実な人は、ひたすら、米を愛し、納豆を好み、味噌汁に親しむなり。

さて、人の世に、魔法があり、神通力がある。

魔法とは、先に述べた通り、人の私欲が本であります。

されど、通力とは、神による、奇跡。

それは、神が人を信じて、人を通して行う。

ゆえに、それを扱う者は、自らをお取り付ぎとされ、自らの能力(ちから)では、無いと称されます。

神様から得た通力とは、けっして、その方の能力ではありません。

ゆえに、神様が人を信じる所以は、一重に、誠心あるのみ。

例えば、ぎっくり腰を指、1本、据えるだけで、ぎっくり腰を治療する人が、現実に存在します。

過去には、イエスキリスト、空海、出口王仁三郎聖師なども、有名ですが、原因不明な病人を多く治した実績を持つ者は、熊野の神人、松下松蔵さんでございます。

おおくの難病を通力にて、治療されました。

松下松蔵。

彼は、医者ではありません。農業を営まれた方でございます。

松蔵さんは、何時までも(年齢では、四十五歳)父親に何時も、何処でも、殴られて、おりました。

かれは、無学。育った環境では、農作業をする為に、育てられました。

田舎の君子は、教育、しつけとして、殴り、殴り、殴り、拳骨を落とすのは、当たり前でありました。

まっぽうさん、こと、松蔵さんは、逆らわず、ひたすら、恭順し、父親に従い、母を大切にされ、嫁を慈しみ、五人の子供を愛し、ただ、農作業をされておりました。

彼が、四十五歳の時に、何時も暴力をフルウ、父に「父上、私も本年は、四十五歳になりました。子供も既に五人あります。私を殴られるのは、私の至らぬからで、致し方ありませんが、ただ、子供の手前がありますから、子供の前では、殴らないでください。」と申されました。

父親は「うんそうか。」といって、打つ手を納められました。

松蔵さんは、父からの暴力を、全て受け止めておりましたが、それが、父の罪となると、悟ったが故に、父親に、衷心いたしました。

もともと、この父親は、唯我独尊にして、村人には、善人ぶり、家庭では、頑固にして、全て気に入らなければ、荒ぶり、子や妻を殴り、痛ぶるをもって、世間の不満を発散される癖があったようです。

されど、松蔵さんの、言霊により、父は、松蔵さんの示す、親慈(おやじ)のなんたるかを悟りました。

扨て。
かれの修行とは、瞑想せず、鎮魂せず、霊能者に仕えず、ひたすら、ひたすら、親に孝行を尽くされた。

松蔵師の神通力の秘儀とは、「親孝行。」あるのみ。

今の世には、霊能者開発セミナーや、セッション、セミナーなどがあり、自分が、神様に通じている、自分は霊能者と、勝手に思っている方が多いのであります。

かれら、かのじょ等は、それを(霊能力)金銭に変えておられる。(金銭によって得て、金銭の為に使う。)

また、霊能力開発セミナー、神法御得会、セッションにより、多額の金銭を払い、その金銭の恩恵にて、超能力を得られたと、幻覚している。(想念の扱いにより、それを超能力と錯覚。)

松蔵師と彼ら彼女らとの違いは、「松蔵師は、どんな、難病ですら、癒した、真実があります。」

霊能者自称は、自然の治癒を自己が為したと誇張するのみ。今の医者と、同じ、むじなにて、自己回復の自然力をされる人へ、「私が医者として、治した。」と述べる。

病とは、治るも治らぬも八卦なり。

人には、自然治癒力あり。

松蔵師は、自ら、農業を為して、親に孝行され、妻を愛し、子を慈しみ、神に敬虔であるが故に、奇跡を起こされた。

人間は、霊能を求める。それは、ひたすら、自己顕示欲の為に。

他人より、尊き自己でありたいと、願う欲望。

他人に、尊敬されたい、愛されたい、親しんでもらいたい。

松蔵師は、暴力をフルウ親ですら、尊敬し、食欲に左右されず、他人への施しは、当たり前にして、誰も妬まず、望まず、ただひたすら、生真面目に、しんどい農業に従事し、生きて来られました。

神通力を神から、通され、開示された、後も人柄も変わらず、ただ、ひたすら、難病を得られた、人々を救われた。

松蔵師の神通力の正体とは。

「私は、親孝行の為に力を得た。私は、決して顔(祈願)をしたのでもなく、行(修験)をつんだものではない。

唯、生まれつき、親孝行をする事が好きである。

一度も親に口答えせずに、そむいた事も無かった。

元来人間は、親あってこそ、自分の体がある。

生まれたのも、育ったのも、皆、親の恩である。

親あっての自分で、我が身を大切なら、親はなおさら大切で、ことに、親の子に対する愛情は、無限である。

それを思うなら、どうして、親を大切に思わずいられよう。

親孝行が人間の根本だ。

今日、私が神通自在の力を、神様から授かったのは、親孝行の一事からである。

如何に利口な人でも、偉い人でも、親孝行をする事を忘れたら、その人は無価値である。

私は何神様を信ぜよとか、仏様は何様を信ぜよとか、決してそんな事をすすめるのでない。

世の中は、親孝行が第一で、親孝行さえするなら、成功もでき、出世と出来る。

親孝行の心無い人は、病気もするし、運も悪い。

これは.現実のことだ。

孝の功徳は、広大無辺だ。

俺には、学問がある、親は無学だ」と、親を親とも思えぬ不心得者や、親は親、子は子だと、西洋流の個人主義的思想にかぶれ、孝道の大徳を忘れている人が多いのは、実に嘆かわしい。

私の教えは、孝行せよ、その功徳は偉大であると言う事にある。」

(鬼雷述べる。北極真経にも、源水木本として、自己の源(親や先祖、また、祖は神に基づくゆえに、神様。)を大切にしなければ、道無く、修道から、外れるとされております。

神通力とは、神様が通される人を選び、選ばれた方が、それを取り継ぐのみ。

奇跡により、難病を治癒するのは、神の機能でありますが、それを通せる人とは、素朴に、素直に、親を大切にし、人を大切にされる方。そこには、高額セッション、霊能開発にもなく、金銭も発生しません。)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和六年三月 三六九神示

2024-04-17 19:52:00 | 神示道
田ニ八(丹波 米+⬜︎)なる、男島女島の中程の、天と海との堺に、浮かぶ中津神の岩の上に、塩土翁が立ち、世界の行く末の事説いてて、ゆくぞよ。

(注 塩土神=海之御中主大綿津見神の変化。亦名を、全ての情勢を知れる故、知識大都知神(しりおおづち)とも称す。

鬼雷が述べる。かの神は、又の御名を住吉老人、又、南極老人とも、称されておられます。要所を悟る神でございます。)

今の世は、八頭八尾の八岐大蛇が荒れ狂いておるぞよ。

八つも頭(かしら)があると言う事は、地球の上には、この世界を自在にせんとする、国々の頭が、いがみ合い戦争をいたし、多くの人民が犠牲になっておるのが、当に、八頭八尾の八岐大蛇が荒れ狂いておるぞよ。

八つ頭があると言う事は、地球の上には、この世界を自在にせんとする国々の頭が、いがみ会い、戦争をいたし、多くの人民が犠牲になっておるのが、当に、八頭八尾の八岐大蛇が荒ぶる様であるぞ。

そこに、素戔嗚尊、八岐大蛇の退治なし、大蛇の尻尾より、一本の剣が出て、是を、叢雲の剣、後に草薙の剣と申し、国の祭政の要として、熱田神宮に祀りてあるぞよ。

大本の筆先に、七王八王あっては、世は治らぬ故、末は、一王で治めると申してあるが、国々の頭が.国取り合戦で争う時代が済みて、世界は一皇(すめらみこと)を中心に共存共生、世界一家(八紘一宇)の世となるのであるぞ。

もうそろそろ、国々の頭も、戦争の虚しさに氣ずき、諸刃の剣に示す、正しき、祭政、霊主体従(ひのもと)の道に帰らねばならぬぞよ。

日本は世界の型を示す国。

八岐大蛇退治も、日本に見せてあるが、世界の事であるぞよ。

我が我がで、頭達が争う体主霊従(からたま)の今のやり方を続けておれば、世界も行き詰まり、地球も滅びてしまうぞよ。

この年の元旦、能登の地震を世替わりの烽火(のろし)と上げて、警告いたしたが、金権主義の金毛九尾の悪狐に自在にされておる世界の人類は、今のままでは、滅びの道を歩まねばならるぞよ。

現の世の宗教は.一神教、多数教ありて、我宗教が、一番と宗教戦争も起こしておるが、真は、一神にして、多神、多神にして、一神が神理であり、これから、世界を治めるにつけても、総ての宗教を潰して、一色にするのでは無く、万(よろず)の宗教も、他を害する悪しきところは、改め、善き所は残し、それぞれの特性を活かしつつ、和して、宇宙は一つの如く、総ての宗教も、源元(もと)は一つのである事を覚り、主神教祖の世界の一つの宗教の道を開きてゆくのであり、宇宙大元主神の元へ、万教を結び、もどすのが、白山菊理比咩神である事を忘れてはならぬぞよ。

主神教祖の道を開き、万教も世界平和の為に、共存共生の道を開くのじゃ。

亦、世界の国々も大国小国あれど、それを認め会い、各国々も国魂の神より出る、特技特性を守り残しつつ、国取り合戦をやめて、世界一家の道を開く為、各国の頭も努力せれば、ならぬぞよ。

その末に世界のスメラミコト(皇)を御迎えして、七王八王あって、治らぬ世を一つの皇(おう)を中心と立て、万国万民共存共生の世を開くのじゃ。

経済も世界の御宝を我が一人じめし、自分等だけの栄耀栄華の為に使い、地球の恵みを貪りて、汚れ穢れのみを残す金毛のやり方は、止めにするぞよ。

この地球の資源、即ち神々の恵みを世界人類皆の為に活かしまつるのじゃ。

金よりも、人々の幸せを産み出す、龍宮の経済と変えるのじゃ。

龍宮が、御宝を集め、金勝要神が活用致すのじゃ。

金そのものに善悪は、無いが使い方により、善とも悪ともなる事を心得て、人々の倖せの為に活かして使わねばならぬぞよ。

さあ、天照国照日の出の神の御現れの世となり、夜の暗闇の帷が、上がると、これまでの人類が、思凝霊(しこりがみ)にあやつられ、強い者勝ち、利己主義(われよし)のやり方で、積み重ねて来た、様々の悪事が明るみに出て、ありやかに見えて来るから、これまで世を構いて来た、お偉方も弁解ばかり、いたさねばならぬ、恥ずかしい、今の世であるぞよ。

(注 これまでは、世の元からの神々、押し込める夜の世であり、闇に隠れて悪事も出来たが、日の出の神出現の世となり、悪事のツツミ隠しは出来ぬようになった。大本系の宗教は、夜から昼の世の転換にはたらいた。)

元旦に能登の地震で明け染めた令和六年の甲辰の年、真に大事な世替わりの節目の年と、なりたから、起こり来る事、おだやかにには、ならぬ事ばかりであるぞよ。

是まで、神界は、明治二十五年から、大本教に新しき世の様々、その型を出して見せ、又、様々の神示で大方の事は申して来たが、実地の現れる世は、これからであるから、世に出ておる神々も人民も、心して歩まねばならぬ、これからの時代であるぞよ。

お宝を一人じめにせんとして来た、者等も世間に顔向け出来ぬ事となるぞよ。

この日本も世界の国々も、政治経済、根底から、立直さねばならぬ時となりたのであるぞよ。

強い者勝ち、利己主義(われよし)のやり方で通れるのは、今しばらくであるぞよ。

恥ずかしい目にあう前に、改心が一等と先々、申してあるぞよ。

世界平和、万民至福の道の開きと申せども、それが為には、まず、隣人を愛し、隣人の喜ぶ事をする事であるぞよ。

小を積みて、大となるのじゃ。

千里の道も一歩からじゃ。


扨も世界人類共存共生の道を開くのじゃぞ。

そして、地球を大事にいたすのじゃぞ。


梅は先駆け桜散れど、西王母が桃花、実りの時を松の風、木花は総てに花咲き、実をつけさせる美しさ、磐長姫のはたらきに、巌の如く永遠に、栄を願う神心、盥(たらい)の水は、引けば去る、押せば返る理を知れよ、求めるばかりの思い捨て、慈しむ恵む心を忘るなよ、助けられたり助けたり、括り結びの道開き、ンの力で五六七(三六九)の世を開こうぞ。

言霊神也 ン。

令和六年三月三十日 修聖拝写。

(注 ン=四十八文字の締め括りのン=金勝要神の働き、雲仙はンにあたる。

磐長姫命と木花咲耶姫命は、姉妹。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする