玄徳道

道を語るブログです。

平成二十八年 七月三十一日、白百合の華。

2024-04-15 20:10:00 | 神示道
善も悪も、使いて、現の世の四九三を進めてある、大芝居であるぞよ。

悪事を為す者もありて、舞台も変わり、次の四九三が起こるのじゃぞ。

この度の東京都知事、〇〇殿当選、それで良いのじゃ。

〇〇は、六甲の神に縁りの御魂であるぞよ。

白山菊理比咩の神、白百合の花を持ちて、出現と申してあるぞよ。

清浄明白でありたいぞ。

菊理比咩の本神霊の出現は未だ先であれど、今は龍宮系の女性の御魂が、段々と仕切るようになるぞ。

母の愛で無いと、荒びた世は治らぬ。

良い子は育たぬぞ。

香ぐわしき、白百合の花、咲く世を願うぞよ。

(注 西宮の甲山は、廣田神社の神体山であり、真名井御前の開いた神呪寺がある。

又、弁財天(瀬織津比売)や、役行者の伝承もあり、甲山と六甲山は、相通じる神氣で結ばれている。)

(注 鬼雷が述べる。それから、開いて修める、八年後、白百合の花は、如何にようなるのであろうか。

六甲山の主神は、瀬織津比売神。その眷属は、麁乱荒神。この眷属神(自然神)は、六甲山の霊気から生まれた、自然の霊神にして、人の正直を好むなり。自然に無き、あくた、悪意を嫌う癖あり。虚言をもって、自然を乱す(気を乱す)ものには、天罰を与えるなり。

人が、自らの行いで不幸になるのは、因果応報なり。人が自ら、悪意を振り撒くは、天が自ずから、咎めるのである。)
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令和六年三月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(三月八日示し)

2024-04-15 18:10:00 | 神示道
始め、和歌山県の熊野灘の波が寄せる、七里浜や、熊野川の河口が見え、新宮速玉大社の神谷体山中に坐す、神倉神社のコトブキ岩が拝され、次に那智の滝、そして、熊野本宮の故地、大斎原と熊野三山の聖地が次々に拝されました。

そして、大斎原には、朱塗りの大きな舞台が設けられ、その上で素戔嗚尊が八岐大蛇退治の大神楽が舞われており、その様を出口聖師が眺めておられました。

(注 熊野と地名は、丹後、出雲、紀伊と各地にあるが、熊野とは、隈野であり、遠く奥まった聖き地で、神や祖霊を祀る隠り国の音が変化したものであろう。

神倉神社には、彦火明命の御子、高倉下命(天香語山命)が祀られ、熊野を開いた、神とされている。大斎原は、熊野本宮の故地であり、本宮主祭神は、家都御子神(素戔嗚尊)である。

八岐大蛇は、大本教のお筆先に、「現の世は、七王八王あっては治らぬ、末は一つの王で治める。」ような意で示されている。

いまの世は、八岐の大蛇のごとくら世界を自在にせんとする、国々の頭が何人も相争っている。

それを、言向け和し、末は、世界を一王で、治める世となる事が、示され、それを為す救世神が素戔嗚尊であり、その霊統にあるが、出口聖師であり、日本の使命である。)

最後、白山の加賀(三馬場)、越前、美濃の三社が拝されました。

(注 白山の菊理姫により、八岐の大蛇の荒ぶる如き今の世を、頭を括り、結び、世界一家と治る日が来るのであろう。

されど、それは、未だ未だ先の事であり、この地球が世界一家と治るまでには、人類の試練浄化が未だ未だ続くであろう。)


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黙真人訓、功行道。

2024-03-29 18:38:00 | 道院
功行のニ字は、各仙仏真人が多く発揮せられたところであり、修行の導師とするのに、過ぎるものである。

自分(黙真人)に一悟するところがあったので、未だ適当か、否かを詳らかにしないが、同修(道を修める者)も共にこれを研究することを希望する。

功の意義は、包含するところ、甚だ多く、行の候(情状)を証するに、また、いたるところに妙理がある。

ニ字について言えば、功行とは、行いに、功を得たものである。

その要(かなめ)は、もとより、行いにある。

すなわち、行いが「允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」の中を得たものであり、「これ精これ一」を得たものである。

(注 鬼雷述べます。允に厥の中を執れ=道統の相伝。中庸の奥義)

(注 これ精これ一=道統の相伝であり、允に厥の中を執れを補助するものでもあり、一とは無欲を、精とは、太極を指すものと考えます。)

このようにして、言えば、行いに功を得るのは、なんと困難なことではないか。

それ故に、どうしても、切実に到るところ、何処でも、その、時々、何時でも、何事でも、事毎に、修悟をなさなければ、ならないのである。

発顔した以上は、堅固恒久に、怠ることのない、志をたてなければ、ならない。

そこで、求修願文の第一句に曰く「願わくば功候を修められますように」と謂うのである。

功行は、誠恒の修でなければ、得ることは出来ない。

そして、吾々は日々に修め、時々刻々に行い、何時でも、何処でも、みな言うところ、常に行うところが、
功行に合するものは、すぐに枢冊(魂の数)に記録される。

功行に合しないものは、これを何と謂うか、
過行である。

何を過行と謂うか、過ぎたることと、及ばない行いである。

修により、悟りにより、時により、事によって忽然と覚る者は、則ち、過行を整えて、功行とすることが、できるのである。

功行の記録があるように、同じく過行の記録もあるので、過行を功行に転換する事が出来れば、その記録は功行の方が超過する者となる。

修によって悟り、覚によって照らすことは、ただ、功行が記録されるということだけではなく、功候を養い、功候を増進させた事になる。

これを以て考えるならば、聖神仙仏の成功が、常に戒慎驚惧して、臨むが如く履むが如くして、決して少しの放恣の心があるように、しなかったのは、まことに、故あることなのである。

修人は、皆、よくこの理を明からにして、朝、夕努力すれば、過行があると雖も、これを化して、功行とする事が出来るのである。

凡人は、このようにせず、修行の正しい締まりを悟らず、我儘勝手な言葉を言い、気のむくままに、その行いを乱す。

それ故に、罪行があり、邪(よこしま)な行いがある。

同じように、狂って、道理に外れる者があり、その為に枚挙し難い、罪行も同じようにある。

だが、その因を植えたとしても、ひとたび、能(よ)く、懺悔する者は、直ちにその悪因を化、する事が出来るのに、ただ、知るだけで悔い改めることのない者は、悪因が善行を除去して、一たび、善功が尽きれば、災いの応報これに随って来る。

まことに、憐れむべき、憫(うれ)うべきことである。

これを以て、五教の教主、釈迦、イエス、老子、マホメット、項先師(歴史ではいないとされる、孔子の師であり、儒教の祖である)、は自らの身体を断ち切るのを、厭わず、地獄に入って、普(あまね)く、救済をなし、各仙仏は、苦言を以てねんごろに、繰り返し、教えを告げて、深く溺れ、迷う人や、それを聴いても、ぼんやりしている人を救って、挽回する事を希望しているのである。

幼児がまさに、井戸に堕ちようとしているのを見て、仁人君子に、痛み、悲しむ心を生じない、者は無く、それを挽き戻して、救おうと期望する者は、もとより、幼児の優劣によって、救おうか、否かを考えないのである。

天地は、大徳を以て、万物を生じ、仙仏は、慈悲を以て衆生を救うのである。

善を修め、善を悟る、各々の修人は、自ら、これを悟覚することが、出来るであろう。

修行に励み、努めなさい。

吾は、各同修の修悟の前途の為に、慶賀することを禁じることが、出来ない。






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令和六年二月 三六九神示

2024-03-25 19:10:00 | 神示道
(注 いま、人類の欲望に九尾が入り込み緑の地球を焼野ヶ原にせんとしている。

九尾=金権主義。

金を自己主張の為に悪用する。

🔵物金を皆の為、善用するのが、龍宮経済である。)

龍宮水火土伝授

爆撃で荒れる世界の瓦礫の跡にも、地震の山崩れ、地割れ隆起、津波と跡にも春なれば、緑は芽吹き、花も咲くのじゃぞ。


火の中、水の中も神の生命は不滅じゃぞ。

人は切格築いた、文明も争いを繰り返し破壊しておるぞよ。

九(現)の世は六の数で成り、六の数は、建設と破壊を繰り返しつつ、時を進めてゆくのであるぞ。

禍い転じて福と為す、この意に狂いは無いぞよ。

戦災や、地震にあいし者は、可哀想であれど、必ず芽吹き花咲く春は、来るのじゃ。

人は、この地球に住むのでは無く、住まわさせてもらっている事を忘れず、地球を大切に守らねばならぬのじゃ。

我が身の主義主張を通さむ為や、身勝手な領土の奪い合い。

また、宗教の違いの為に争いて、無益な戦争を起こして、殺し合っておる、愚かさに気づき、早く改心いたさねば、ならぬぞよ。

東北十和田湖の青龍をして、能登の珠洲に地震を起こし、世替わりの烽火(のろし)を上げて知らせたが、〇九十(まこと)の神意の判った者は少なくないぞよ。

(注 能登半島先端には、須須神社が坐す。

天津彦火瓊瓊杵命、美穂須須美命、木花咲耶姫命を祀る。美穂須須美命の須須美は、烽(とぶひ、のろし)の古州、のろしを上げる場所。
昭和五十二年九月十五日須須神社参拝する。)

戦争の度に知恵をしぼり、科学を発展させ、その御陰で人民は、楽な暮らしを致しておるが、地震や噴火の自然の災害を受けると、文明に頼っておる故、昔より苦労せねばならぬ事となるのじゃぞ。

今は水道や電気が無ければ、御手上げであるが、自然災害と人民の言う物は、神の修理固成(つくりかため)の業であり、汚れを浄め、歪みを正す為であるから、その災いの困窮の中から、生き延びて行く為の生命の力が起こり、皆で助けあう、共生の大事なる事も、湧いて来るのじゃぞ。

人間には、災と思へる自然活動、即ち、神の活動により起きた事は、禍い転じて福と為す道の開きとなるのじゃぞ。

縄文の昔から様々の苦難を、耐えて来た、御魂の力が、次の道へ導くのじゃぞ。

(注 鬼雷述べる。天と地と、人。三才をもって、お互いに、干渉している真理があり。

確かに、雷台風動震は、地球の活動でありますが、相互に干渉する以上、お互いに影響しあっております。

蓋し、日本人の大和心、皇室の斎庭が調っておれば、一月一日なる、大安息の日に、地震起こらず、四日に起きていたと、鬼雷は考えます。私的考えです。)

どんな苦難の時もあわてず、騒がず、目の前の事を一つ一つ、改善の努力をすれば、闇の中にも、光が差してくるぞよ。

それが、立て直しの道であるぞよ。

これからの世界は未だ未だ浄め祓い修理固成をせねば、地球の生命が弱るから、自然災害も重なり、愚かな戦争災禍も越えてゆかねばならぬのじゃぞ。

神も佛も、あるものかというような、苦難の節目もあるから…………,…………〜 。

一山、一山、越えてゆかねばならぬぞよ。

越すに越されぬ大井川のような事もある。

富士の山も何時とは、申さぬが、噴火する時も来る。

南海の地震も起こる。

個人に於いても.思いがけぬ不幸も起こる。

何事も無く、平穏無事にありたいと思うが、万民の顔(ねがい)であるが、修理固成の神業は、人間の力で止める事はできず……。

この地球の上に住まわせてもらっておる、人の身である事、忘れてはならぬぞよ。

この地球の様々の、恵みを受けて生きておると、人間の為のみにある、地球と思ってしまい、この地球を人間の自由にしてしまおうと、好き勝手の事をいたすが、禍い転じて福を為す道の開けるのも、この地球あっての事であり、その感謝を忘れず、この地球の守りに尽くさねば、ならぬぞよ。

(鬼雷、再度のべる。かつて、昭和六、七年頃、出口尋仁聖師は、駿河大地震(東京大震災の二倍の被害が出たとされる)を未然に軽減、弭化され、その勢いを太平洋へと逃がし、三陸方面(岩手県)が海嘯により、大被害を受けられた事がありました。大難を小難にする為とは、いえ、大神人であっても、如何しようも無き事がございます。

そして、天と地、人は、常に繋がっています。

天地は何時でも何処でも躍動します。

その天地軸をあんてさせる、法の一つが、先天坐であると考えます。

人が坐し、坐軸により、地球軸と繋がれば、多少なりとも、地球軸に影響を及ぼし、安寧の道へと至るかと考えます。)

科学の力で月まで何とかたどりつき、広大無辺なる、宇宙まで、人間の自在になると、思い上がっておる人類であるぞ。

はてしなき、宇宙には、人間以外の生物が住まう星もある。

その生き物からいろいろな、通信を受けておる人間もあるが、汚れ穢れた地球を捨てて他の星へ逃げれば、良いような考えは、神は許さぬ事も記しておくぞよ。

神人和楽の地上天国開きの為に、人類を住まわせた、この緑の地球であるぞ。

この地球を汚し穢し、恵みをむさぼり、築きた文明であるぞ。

その地球を見捨てるわけにはゆくまいぞ。

まず、この地球を大切に守りてゆかねば、ならぬのが、今、地球に住まう、人間の役目であるぞ。

海山河野にも、又、宇宙の星にも、それぞれ霊魂(たましい)があり、神界があるのじゃぞ。

霊なる世界の事が、この地球の様々の形に現れ、人類は、結構な暮らしをさせてもらっておるのであるぞ。

されど、一端、地震や噴火、風水の災害を、受ければ、恵みを受けていた、自然から思いかけぬ災いを受ける事もあるのじゃぞ。

神の和魂は、恵みと優しく、有り難いものであるが、荒魂は、時に厳しく、人類に対し、災いとも現れる事も忘れてはならぬぞ。

それ故に、常ならぬ世は、建設と破壊の六の数の働く世であり、その建設と破壊の変転の中に、生成化育の神業は、進めてある事を知らねばならぬぞ。

その変転の中に、禍いの転じて福と為す、神の愛の言霊、鳴りひびくのであるぞ。

万象崩壊建設と破壊の中に、人間の成長を願う親神の心があるのじゃぞ。、

まず、世界の要(かなめ)とならぬ、この日本から政治も経済も自他共生益福の姿と、立直してゆかねばならぬ時になりたのであるぞ。

まず、日本の上に立つ者から、真言誠(まこも)の改心を急ぐぞよ。

言霊神也 ン。

令和六年二月二十七日拝写

龍華斎修聖。














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令和六年二月 小長谷修聖 三六九神示霊視篇(二月八日示)

2024-03-24 11:31:00 | 神示道
丹後の冠島(男島)と沓島(女島)の海中より、大なる、金龍が現れ南に向かって飛んでゆきました。

(注 男島は、籠神社本社の主宰神 天照国照彦火明命降臨の神島であり、女島はその妃、瀬織津姫命(又之名は、市杵島姫命))降臨の神島であり、龍宮乙姫神谷鎮まる、神島であるが、大本教の主宰神、艮金神国常常立尊、三千年隠棲された、島と伝えられる。

男島、女島の辺りの海を龍宮海と称し、出現こ金龍は、龍宮乙姫の龍体であろうか。

地球を七回り半する龍体と言われている。

男島 女島は籠神社や大本教の神の出現の神島であり、国常立大神の大望の御経綸、実現の為、龍宮神界の活動が活発になる、御示しであろう。)

次に、爆撃か地震の跡か、瓦礫の山のそばに少しずつ、緑の草が、芽吹き始めのその中に、一輪、日本タンポポの花が咲いていました。

(注 建設と破壊を繰り返す人間の文明であるが、タンポポの花言葉は.「愛の神託、神託、真心の愛」であり、瓦礫のような世界にも地球がある限り、神の愛を信じて行けば、新しい世界の光が差し芽吹くのである。)

次に紅白の梅の花咲き、清い小川の流れる庭を七福神が遊行され、その後の紅白の梅の枝を持った出口直様、白梅を持った出口聖師が歩いておられまたした。

(注 三千世界一度に開く梅の花、艮金神の世になりたぞよ。が大本筆先のはじまりであり、七福神は、弥勒神の神徳を七変化して示された姿である。)

次に大隈一ノ宮鹿児島神宮の上空を青龍が舞っていました。

(注 鹿児島神宮は正八幡宮とも称し、彦火火出見命を祀る。

彦火火出見命は海部系図で彦火明命の亦の名、又御子と伝えられている。

青龍は瀬織津姫神である。)




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