音は聞くもので、見るものではない。
そう思っていませんか。
そのような、とらわれた概念から離れてみると、音は見えてくるものです。
私はまだ見えるまでの悟りはありませんが、感じることがあります。
海やプールで潜って泳いでいると、水のささやく音を感じることがあります。
アメリカの宇宙飛行士が講演会で、月の裏側に行った時、神秘的な音を感じたと述べていました。
聞こえるはずがない音を聞く、感じる、それを見るのでなく観る。
そんなことを考えていたら、観音菩薩も音を観る仏様と書きます。
人には音を観る能力があるのかもしれません。
音を観るという話に
江戸時代に千利休の孫に千宗旦(せんのそうたん)がいました。
自分の子供たちを分家させて、表千家、裏千家、武者小路千家を作った人です。
宗旦の所に仲良しの京都の安居院(あぐいん)の住職が珍しく咲いた椿の小枝を小僧に届けさせました。
所が小僧はつまずいて転んでしまい、花が落ちてしまいました。
宗旦はその枝と落ちた椿を使って生けました。
それを、見せたいからと小僧に住職に来て欲しいと伝言しました。
楽しみにやって来た住職は生けた小枝の下に椿の花を置いてあるのを見て、いまポトリと落ちた音を観ました。
と言って感動したそうです。
二人には音が観えるのです。
これから、椿の落ちる音はポトリ。
牡丹が落ちる音はボタン。
といわれるようになったといいます。
また、音について「隻手(片手)の音声(せきしゅのおんじょう)」という教えがあります。
欧米人にもよく知られています。
『両手を打てば音がするが、片手では音は出ない。片手の音をどのように聞くか、音のない音は私達それぞれが自らの経験から生み出すもので、自らの肌でしか感じとることができません。』
(白隠禅師)
この意味は自らの心の耳を研ぎ澄ませ、本音を聞くことといわれています。
見えない音を観る
心の音(本音)を聞く。
古代の教えに何かを感じて頂けたらありがたく思います。