ハル・ノート
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中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。
ハル・ノート(Hull note、正式にはOutline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)は大東亜戦争開戦直前の日米交渉において1941年11月26日になされたアメリカ側から日本側に提示され、最後となった提案のことであり、交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前から名づけられたものである。
目次 [非表示]
1 内容
1.1 日本の反応(攻撃までの経緯)
1.2 日本政府の状況
1.3 アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
1.4 アメリカ政府の意図
2 現在のその評価・意味
2.1 様々な評価
2.2 諸家の評価
3 作成に関与した国々
3.1 中国の思惑・影響力
3.2 英国チャーチルの思惑
3.3 ソ連の思惑
4 その他
5 脚注及び参照
6 関連項目
7 外部リンク
[編集] 内容
太平洋戦争直前の日米交渉末期、国務長官ハルにより1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案(乙案)に対する回答として提示された。同時に口頭で乙案を拒否している。
ハルノートでは、アメリカが日本と大英帝国、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、および合衆国の包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めている。概要は以下の10の項目からなる。
アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。
仏印からの日本の即時撤兵
日本の中国及び印度支那から即時の撤兵 - 中国(原文China)が、日本の傀儡国とされる満州国を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸を考えていたと言う説があるが、満州国は法律上、中国からの租借地であるという歴史があり、日本側も満州を含んだ中国大陸と考えていたようである。
日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中華民国以外の全ての政府を認めない
日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄
通商条約再締結のための交渉の開始
アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄
本協定内容の両国による推進
ウィキソースにハル・ノートの原文があります。原文の和訳はウィキソース参照。英語原文は英語版ウィキペディア「Hull note」のページを参照
[編集] 日本の反応(攻撃までの経緯)
東郷茂徳外相はハルノートに大変失望し外交による解決を断念した。「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」
当時、東郷外相は中国の暗号を解読することでアメリカ側で日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[1]。東郷の失望はそうしたものも合わせものとも考えられる。日本政府は最後通牒であると受け取り、当時総理大臣であった東条英機も「これは最後通牒です。」と述べている。
この結果、12月1日御前会議にて対英米との開戦が決議され、ハルノートが提示される前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられた。
[編集] 日本政府の状況
日本政府内では当初妥協派が優位であったが、この条件を提示されたことで、軍部の中に強硬意見が主流になり、それに引きずられた形で天皇も「開戦やむなし」となったとされる。海軍を中心にアメリカとの戦争には勝てない、とする意見があったが、ハルノートに書かれた条件を受け入れることが出来なかった陸軍がそれを強引に押し切り開戦に踏み切ったとの評価が一般的である。(但し、当時の日本の石油消費者の半分が海軍であり、残りの3分の2が陸軍、3分の1が民間であること、また日露戦争以来、対米戦だけを念頭に戦備を整えてきたのも海軍であることを参考までに記す。)
なお日本がアメリカに提示した交渉のための乙案は以下である。
日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
日米は蘭印(オランダ領インドシナ)において石油や錫などの必要資源を得られるよう協力する
アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:A交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する B日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する
[編集] アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事とした、その原案はそれ以前に検討されており22日までに更に協議され以下のようなものになった。
『アメリカ政府の暫定協定案』
日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする
日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す
この協定は3ヶ月間有効とする
この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案である、アメリカ政府はこれについてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っている。しかし25日まではこの暫定協定案が検討されていた。だがおそらく26日早朝までに、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交される。なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在、明確ではない。
ハルはその日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述となっている。ルーズベルトについては26日午前、スティムソン長官からの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報にかんかんに怒り「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。
これらから、一般的な推測では25日午後ないし26日早朝、ルーズベルトはスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われている。この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではなかったが、それまでの過程でルーズベルト、ハルらは日本へ不信を高めており、やや感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われる。
ハルノートの原案は、モーゲンソー財務長官が18日にハルに示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されていた。暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性はある。ホワイト原案はハルノートにかなり近いと言ってよいと思われる。ただし中国については原案では明確に満州を除くという記述があった。
[編集] アメリカ政府の意図
現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。
ハル長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、説明を加えず、ほとんど問答無用という雰囲気であり、投げやりな態度であった。更にまた両大使と会見したルーズベルトは、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハルに電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と言われたと答えている。
またハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていない。ルーズベルトは暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに言っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていただろう。しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議するための12/8議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしている。
スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている。
英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson」のページを参照
これらの発言から、ハル、ルーズベルトはハルノートを基礎にして日本と交渉ができるとは考えていなかったのが(少なくとも日本では)一般的であろう。そして彼らが日本の外交暗号解読により交渉期限が11月末までであることを知っており、そしてアメリカ政府の全体の局面認識が交渉決裂は戦争につながる可能性が非常に高いというものであったことから、交渉がまとまらない場合、12月初めには戦争になることを予想していたと考えるのが自然であろう。
一方、アメリカ側の見方では、アメリカが先制攻撃するには、議会と国内世論を前もってまとめる必要があり、これには困難が伴う。逆に、日本に先制攻撃をさせれば、議会と国内世論を参戦に向けてまとめることが容易になる。「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」という発言より、アメリカは、日本が先制攻撃をするように仕向ける一環としてハルノートを突き付けたが、日本による先制攻撃を真珠湾攻撃10日前の時点で確信していないと考えるのが自然であろう。
[編集] 現在のその評価・意味
[編集] 様々な評価
現在日本人の多くはハルノートにより日本は対米開戦を余儀なくされた、実質的な最後通告であると評価していると思われる。これは日本人の書いた多数の歴史書がハルノートの存在を強調し、NHK番組でここが歴史の転換点であったかのように描く事から確認できる。開戦に至る経緯を、基本には日本の中国侵略への強い意志がありこれの維持のため南方に進出したが、経済制裁によって石油などを禁輸されこのため戦略資源の窮乏による国家的危機を迎えた。日本にはまだ外交交渉による平和維持の意志があったが、アメリカの全ての植民地を放棄せよという強硬な対日要求によりやむなく開戦に至ったと考えていると思われる(実際には全ての植民地を放棄しろとは書かれておらず、読み違いであるとする主張もある)。この受け取り方は帝国主義的行為が大国の常識であった当時において、中国侵攻は侵略的行為だが南印進駐はそれを維持するための行為であり、むしろアメリカの対日禁輸政策が日本のアジアでの権利を犯す行為であるとするもので、太平洋戦争は自衛の為の戦争であるという考え方の背景にもなっている。
一方、アメリカおよび日本の少数派は、ハルノート如何によらず基本的に日本がその国家方針により戦争を開始したのであり、ハルノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとしている。アメリカの教科書や歴史書ではハルノートは言及されず単に日本が警告なく攻撃をしかけたと記述される。アメリカ側から見ればハルノートの中国からの撤兵など厳しい対日要求も、アメリカのアジアでの基本政策の確認にすぎず、ここから交渉すべきものであり問題にはならない。ここにはそれまでの交渉経緯や、日本が11月末で外交交渉を打ち切ろうとしている時期に交渉困難な案が軍事行動を促す可能性への考慮はない。そこではあくまで日本が先に軍事行動を行ったことが問題にされる。秦郁彦などは11月26日に既に機動部隊が出航していることを重視し、ハルノート如何によらず既に日本は対米開戦の意志を持っていると見なしている。また、同年9月の帝国国策遂行要領を天皇は拒否したが、陸海軍首脳部はこの時点で開戦を決心したと見ることもできる、(9月以降、参謀本部命令で南方各地の兵要地誌の収集と各在留邦人との接触(純粋軍事的見地から見ればこのような情報資料収集は遅きに失した感もあるが)や、まだ研究訓練段階であった落下傘部隊を早急に戦力化するよう督促している。)
こうしたアメリカ側の立場から見れば、多くの日本人の歴史認識は「アメリカにより開戦を強いられた」という「広義の陰謀論者」[2]となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカの少数派は日本の多数派と同じ感覚を持ってハルノートを評価している。このようにハルノートの評価はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。
条項を読めば判るとおり、日本側からみれば、提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。
日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人は、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルグのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と弁護している。(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している。)[3]
ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、フランクリン・ルーズヴェルトの意向もあり、急遽より強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハルノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化が衝突した典型例と言う者もある。
また、ヨーロッパではチェンバレン英国首相の宥和政策によってヒトラーの台頭を許したと考えられたこともあり、アメリカ内での緩和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。
[編集] 諸家の評価
ハーバート・ファイス(「真珠湾への道」 みすず書房 原著刊行1950年、米の経済学者、国務省勤務、戦時中の米の対外経済政策に詳しい)
「ハルノートは米国の東洋全般にわたる政策の最大限の要求」「この米国の対案(ハルノート)を最後通牒と見なすのは政治的にも軍事的にも妥当ではない」「東郷等の態度は妥当ではない。日本は武力で占拠した地域からの退去を要求されただけだ、日本の独立はなんら犯されていない、日本軍は安泰である」一方日本の乙案の評価についてはハル長官の言葉を批判せず引用している「日本の乙案を受け入れることは、全く降伏に等しいものだ」そしてこの乙案に同意しても戦争は避けられなかっただろうとしている。
アメリカの高校歴史教科書「アメリカンページェント共和国の歴史 The American Pageant」2002年版(アメリカの教科書に書かれた日本の戦争、越田稜編、梨の木舎、2006より)
「日本との最後の緊迫した交渉が1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、限られた規模での貿易再開を申し出た。日本の帝国主義者は面子を失うことを恐れ同意せず、アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるかの選択に迫られ、剣を選んだ。」「攻撃は東京が意図的にワシントンで交渉を長引かせている間に真珠湾で行われた」
Jプリチャード他(「トータールウォー:第二次世界大戦の原因と経過」 河出書房新社、原著刊行1972年、米の歴史家、東京裁判の研究で知られる)
「(日米開戦は)米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ・柔軟性・想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果」「日本人と同じく、力づくでなければ通じないと思いこんだ米国は交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国が中国の陳情とチャーチルの言葉通りにすると、真の暫定協定の可能性も消えた、日本はこれ以上の話し合いは全く無益であると悟った」
中村粲(「大東亜戦争への道」 展転社 1991年、作家・獨協大教授、日本近代史、最も理論的な大東亜戦争肯定論者)
「ハルノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」
[編集] 作成に関与した国々
アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の北部仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を1年にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。
この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党や英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。
[編集] 中国の思惑・影響力
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。
[編集] 英国チャーチルの思惑
また当時は既にヨーロッパにてドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国は暫定協定案に対してはやむなく賛成する電報を送ったが反対であったのは明らかで、他に公開されていない電報が存在する。またその他の働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの欣喜雀躍ぶりが描かれている[4] 。
[編集] ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせる為のあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハルノート作成に関わったハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった[5]。
また、日本にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかの情報を収集し続けた。
[編集] その他
日本外交暗号の解読、日本兵を載せた船がインドシナに向かったとの誤報、日本側の攻勢準備行動の露呈があり、これらが決定打となってルーズベルトがハルに対し、日本により厳しい案を通知するよう指示したと言われている。これに関連して、インドシナに関する誤報は米海軍が意図的に事実と異なる報告を大統領にしていたという説がある。
[編集] 脚注及び参照
[ヘルプ]^ その時歴史が動いた27、NHK取材班編集、KTC中央出版、2004
^ 検証・真珠湾の謎と真実、秦郁彦、PHP研究所、2001
^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105)。
^ ウィンストン・チャーチル, 『第二次世界大戦』, ISBN 4309462138
^ コミンテルン第6回世界大会綱領には、共産革命の実現のために帝国主義戦争にてブルジョワ国家を自己崩壊させ内乱を招くこと云々とあり、革命のために戦争をも利用せんとする謀略の意志が示されている。関連書籍:三田村,『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』,1987,ISBN 4915237028
[編集] 関連項目
太平洋戦争
第二次世界大戦
最後通牒
岩畔豪雄
[編集] 外部リンク
インターネット特別展 公文書に見る日米交渉(国立公文書館アジア歴史資料センター)
ハル・ノート原文 (英語)
この「ハル・ノート」は、歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(歴史CP/歴史学CP/歴史PJ)
最終更新 2007年6月9日 (土) 02:56。
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中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。
ハル・ノート(Hull note、正式にはOutline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)は大東亜戦争開戦直前の日米交渉において1941年11月26日になされたアメリカ側から日本側に提示され、最後となった提案のことであり、交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前から名づけられたものである。
目次 [非表示]
1 内容
1.1 日本の反応(攻撃までの経緯)
1.2 日本政府の状況
1.3 アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
1.4 アメリカ政府の意図
2 現在のその評価・意味
2.1 様々な評価
2.2 諸家の評価
3 作成に関与した国々
3.1 中国の思惑・影響力
3.2 英国チャーチルの思惑
3.3 ソ連の思惑
4 その他
5 脚注及び参照
6 関連項目
7 外部リンク
[編集] 内容
太平洋戦争直前の日米交渉末期、国務長官ハルにより1941年(昭和16)11月20日の日本の野村吉三郎大使による打開案(乙案)に対する回答として提示された。同時に口頭で乙案を拒否している。
ハルノートでは、アメリカが日本と大英帝国、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、および合衆国の包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めている。概要は以下の10の項目からなる。
アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。
仏印からの日本の即時撤兵
日本の中国及び印度支那から即時の撤兵 - 中国(原文China)が、日本の傀儡国とされる満州国を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸を考えていたと言う説があるが、満州国は法律上、中国からの租借地であるという歴史があり、日本側も満州を含んだ中国大陸と考えていたようである。
日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中華民国以外の全ての政府を認めない
日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄
通商条約再締結のための交渉の開始
アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄
本協定内容の両国による推進
ウィキソースにハル・ノートの原文があります。原文の和訳はウィキソース参照。英語原文は英語版ウィキペディア「Hull note」のページを参照
[編集] 日本の反応(攻撃までの経緯)
東郷茂徳外相はハルノートに大変失望し外交による解決を断念した。「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」
当時、東郷外相は中国の暗号を解読することでアメリカ側で日本の乙案よりも緩やかな暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている[1]。東郷の失望はそうしたものも合わせものとも考えられる。日本政府は最後通牒であると受け取り、当時総理大臣であった東条英機も「これは最後通牒です。」と述べている。
この結果、12月1日御前会議にて対英米との開戦が決議され、ハルノートが提示される前に択捉島の単冠湾を出航していた機動部隊に向けて12月1日5時30分「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の攻撃命令が発せられた。
[編集] 日本政府の状況
日本政府内では当初妥協派が優位であったが、この条件を提示されたことで、軍部の中に強硬意見が主流になり、それに引きずられた形で天皇も「開戦やむなし」となったとされる。海軍を中心にアメリカとの戦争には勝てない、とする意見があったが、ハルノートに書かれた条件を受け入れることが出来なかった陸軍がそれを強引に押し切り開戦に踏み切ったとの評価が一般的である。(但し、当時の日本の石油消費者の半分が海軍であり、残りの3分の2が陸軍、3分の1が民間であること、また日露戦争以来、対米戦だけを念頭に戦備を整えてきたのも海軍であることを参考までに記す。)
なお日本がアメリカに提示した交渉のための乙案は以下である。
日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
日米は蘭印(オランダ領インドシナ)において石油や錫などの必要資源を得られるよう協力する
アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:A交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する B日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する
[編集] アメリカ政府の状況(ハルノートの提示経緯)
アメリカ政府は日本の乙案に対し11月21日協議し対案を示す事とした、その原案はそれ以前に検討されており22日までに更に協議され以下のようなものになった。
『アメリカ政府の暫定協定案』
日本は南部仏印から撤兵し、かつ北部仏印の兵力を25000人以下とする
日米両国の通商関係は資産凍結令(7月25日)以前の状態に戻す
この協定は3ヶ月間有効とする
この案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部から要望されていた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案である、アメリカ政府はこれについてイギリス、中国、オランダにも連絡をしており、反対する多くの電報を受け取っている。しかし25日まではこの暫定協定案が検討されていた。だがおそらく26日早朝までに、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこの案は放棄され、26日午後ハルノートが手交される。なぜ急に暫定協定案を放棄しハルノートを提示したかは現在、明確ではない。
ハルはその日記で25日に中国からの抗議により暫定協定案を放棄したような記述となっている。ルーズベルトについては26日午前、スティムソン長官からの日本軍の船艇が台湾沖を南下しているという情報にかんかんに怒り「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。
これらから、一般的な推測では25日午後ないし26日早朝、ルーズベルトはスティムソン長官からの知らせを受け、日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り、(後述するように戦争覚悟で)暫定協定案を放棄しハルノートを提示したと思われている。この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではなかったが、それまでの過程でルーズベルト、ハルらは日本へ不信を高めており、やや感情的に譲歩の姿勢を放棄したと思われる。
ハルノートの原案は、モーゲンソー財務長官が18日にハルに示したものであり、それは更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。これは建設的な案として事前に閲覧、暫定協定案と平行して検討されていた。暫定協定案が維持されていても同時にこの協議案が日本に提示されていた可能性はある。ホワイト原案はハルノートにかなり近いと言ってよいと思われる。ただし中国については原案では明確に満州を除くという記述があった。
[編集] アメリカ政府の意図
現在、ハルノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。
ハル長官はハルノートを野村・来栖両大使に渡す際には、難色を示す両大使に「何ら力ある反駁を示さず」、説明を加えず、ほとんど問答無用という雰囲気であり、投げやりな態度であった。更にまた両大使と会見したルーズベルトは、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ハルノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、スティムソン陸軍長官はハルに電話で問い合わせたときに、「事柄全体をうち切ってしまった、日本との交渉は今や貴下たち陸海軍の手中にある」と言われたと答えている。
またハルノートはアメリカ議会に対しても十分説明されていない。ルーズベルトは暫定協定案でも日本が受諾する可能性はあまりないとイギリスに言っており、ハルノートが受諾される見込みはないと考えていただろう。しかし攻撃を受けた翌日開戦を決議するための12/8議会演説ではハルノートにより交渉を進めていたように演説をしている。
スティムソン陸軍長官は、真珠湾攻撃10日前の日記に、ルーズベルト大統領との会見時の発言として「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている。
英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson」のページを参照
これらの発言から、ハル、ルーズベルトはハルノートを基礎にして日本と交渉ができるとは考えていなかったのが(少なくとも日本では)一般的であろう。そして彼らが日本の外交暗号解読により交渉期限が11月末までであることを知っており、そしてアメリカ政府の全体の局面認識が交渉決裂は戦争につながる可能性が非常に高いというものであったことから、交渉がまとまらない場合、12月初めには戦争になることを予想していたと考えるのが自然であろう。
一方、アメリカ側の見方では、アメリカが先制攻撃するには、議会と国内世論を前もってまとめる必要があり、これには困難が伴う。逆に、日本に先制攻撃をさせれば、議会と国内世論を参戦に向けてまとめることが容易になる。「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(=日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」という発言より、アメリカは、日本が先制攻撃をするように仕向ける一環としてハルノートを突き付けたが、日本による先制攻撃を真珠湾攻撃10日前の時点で確信していないと考えるのが自然であろう。
[編集] 現在のその評価・意味
[編集] 様々な評価
現在日本人の多くはハルノートにより日本は対米開戦を余儀なくされた、実質的な最後通告であると評価していると思われる。これは日本人の書いた多数の歴史書がハルノートの存在を強調し、NHK番組でここが歴史の転換点であったかのように描く事から確認できる。開戦に至る経緯を、基本には日本の中国侵略への強い意志がありこれの維持のため南方に進出したが、経済制裁によって石油などを禁輸されこのため戦略資源の窮乏による国家的危機を迎えた。日本にはまだ外交交渉による平和維持の意志があったが、アメリカの全ての植民地を放棄せよという強硬な対日要求によりやむなく開戦に至ったと考えていると思われる(実際には全ての植民地を放棄しろとは書かれておらず、読み違いであるとする主張もある)。この受け取り方は帝国主義的行為が大国の常識であった当時において、中国侵攻は侵略的行為だが南印進駐はそれを維持するための行為であり、むしろアメリカの対日禁輸政策が日本のアジアでの権利を犯す行為であるとするもので、太平洋戦争は自衛の為の戦争であるという考え方の背景にもなっている。
一方、アメリカおよび日本の少数派は、ハルノート如何によらず基本的に日本がその国家方針により戦争を開始したのであり、ハルノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとしている。アメリカの教科書や歴史書ではハルノートは言及されず単に日本が警告なく攻撃をしかけたと記述される。アメリカ側から見ればハルノートの中国からの撤兵など厳しい対日要求も、アメリカのアジアでの基本政策の確認にすぎず、ここから交渉すべきものであり問題にはならない。ここにはそれまでの交渉経緯や、日本が11月末で外交交渉を打ち切ろうとしている時期に交渉困難な案が軍事行動を促す可能性への考慮はない。そこではあくまで日本が先に軍事行動を行ったことが問題にされる。秦郁彦などは11月26日に既に機動部隊が出航していることを重視し、ハルノート如何によらず既に日本は対米開戦の意志を持っていると見なしている。また、同年9月の帝国国策遂行要領を天皇は拒否したが、陸海軍首脳部はこの時点で開戦を決心したと見ることもできる、(9月以降、参謀本部命令で南方各地の兵要地誌の収集と各在留邦人との接触(純粋軍事的見地から見ればこのような情報資料収集は遅きに失した感もあるが)や、まだ研究訓練段階であった落下傘部隊を早急に戦力化するよう督促している。)
こうしたアメリカ側の立場から見れば、多くの日本人の歴史認識は「アメリカにより開戦を強いられた」という「広義の陰謀論者」[2]となる。スティネットらの主張する陰謀説はルーズベルト大統領が事前に真珠湾攻撃を知っていたとする「狭議の陰謀論」だが、それはアメリカを対ドイツ戦争に引き入れるための大きな計画のための方策であり、彼ら陰謀論者と言われるアメリカの少数派は日本の多数派と同じ感覚を持ってハルノートを評価している。このようにハルノートの評価はどんな事実があったかという問題と共に、戦争における対立する両国の立場を反映している。
条項を読めば判るとおり、日本側からみれば、提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。
日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人は、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルグのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と弁護している。(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している。)[3]
ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、フランクリン・ルーズヴェルトの意向もあり、急遽より強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハルノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化が衝突した典型例と言う者もある。
また、ヨーロッパではチェンバレン英国首相の宥和政策によってヒトラーの台頭を許したと考えられたこともあり、アメリカ内での緩和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。
[編集] 諸家の評価
ハーバート・ファイス(「真珠湾への道」 みすず書房 原著刊行1950年、米の経済学者、国務省勤務、戦時中の米の対外経済政策に詳しい)
「ハルノートは米国の東洋全般にわたる政策の最大限の要求」「この米国の対案(ハルノート)を最後通牒と見なすのは政治的にも軍事的にも妥当ではない」「東郷等の態度は妥当ではない。日本は武力で占拠した地域からの退去を要求されただけだ、日本の独立はなんら犯されていない、日本軍は安泰である」一方日本の乙案の評価についてはハル長官の言葉を批判せず引用している「日本の乙案を受け入れることは、全く降伏に等しいものだ」そしてこの乙案に同意しても戦争は避けられなかっただろうとしている。
アメリカの高校歴史教科書「アメリカンページェント共和国の歴史 The American Pageant」2002年版(アメリカの教科書に書かれた日本の戦争、越田稜編、梨の木舎、2006より)
「日本との最後の緊迫した交渉が1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、限られた規模での貿易再開を申し出た。日本の帝国主義者は面子を失うことを恐れ同意せず、アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるかの選択に迫られ、剣を選んだ。」「攻撃は東京が意図的にワシントンで交渉を長引かせている間に真珠湾で行われた」
Jプリチャード他(「トータールウォー:第二次世界大戦の原因と経過」 河出書房新社、原著刊行1972年、米の歴史家、東京裁判の研究で知られる)
「(日米開戦は)米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ・柔軟性・想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果」「日本人と同じく、力づくでなければ通じないと思いこんだ米国は交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国が中国の陳情とチャーチルの言葉通りにすると、真の暫定協定の可能性も消えた、日本はこれ以上の話し合いは全く無益であると悟った」
中村粲(「大東亜戦争への道」 展転社 1991年、作家・獨協大教授、日本近代史、最も理論的な大東亜戦争肯定論者)
「ハルノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」
[編集] 作成に関与した国々
アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の北部仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を1年にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。
この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党や英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。
[編集] 中国の思惑・影響力
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。
[編集] 英国チャーチルの思惑
また当時は既にヨーロッパにてドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国は暫定協定案に対してはやむなく賛成する電報を送ったが反対であったのは明らかで、他に公開されていない電報が存在する。またその他の働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの欣喜雀躍ぶりが描かれている[4] 。
[編集] ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせる為のあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハルノート作成に関わったハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった[5]。
また、日本にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかの情報を収集し続けた。
[編集] その他
日本外交暗号の解読、日本兵を載せた船がインドシナに向かったとの誤報、日本側の攻勢準備行動の露呈があり、これらが決定打となってルーズベルトがハルに対し、日本により厳しい案を通知するよう指示したと言われている。これに関連して、インドシナに関する誤報は米海軍が意図的に事実と異なる報告を大統領にしていたという説がある。
[編集] 脚注及び参照
[ヘルプ]^ その時歴史が動いた27、NHK取材班編集、KTC中央出版、2004
^ 検証・真珠湾の謎と真実、秦郁彦、PHP研究所、2001
^ 中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105)。
^ ウィンストン・チャーチル, 『第二次世界大戦』, ISBN 4309462138
^ コミンテルン第6回世界大会綱領には、共産革命の実現のために帝国主義戦争にてブルジョワ国家を自己崩壊させ内乱を招くこと云々とあり、革命のために戦争をも利用せんとする謀略の意志が示されている。関連書籍:三田村,『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』,1987,ISBN 4915237028
[編集] 関連項目
太平洋戦争
第二次世界大戦
最後通牒
岩畔豪雄
[編集] 外部リンク
インターネット特別展 公文書に見る日米交渉(国立公文書館アジア歴史資料センター)
ハル・ノート原文 (英語)
この「ハル・ノート」は、歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(歴史CP/歴史学CP/歴史PJ)
最終更新 2007年6月9日 (土) 02:56。