とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

ビアトリクス・ポターに ついて

2007年03月11日 00時38分40秒 | 児童文学(絵本もふくむ)
ビアトリクス・ポター(1866-1949)

P218~232
《ビアトリクス・ポターの小型本にページに登場してくるのは、昔ふうの服をつけた子どもではなく、ウサギやアヒルや、リスやコマネズミや、その他、野山の小動物である。ビアトリクス・ポターは、かれらに赤いずきんをかぶせ、青いジャケットを着せ、スマートにしたて、このような絵と、はっきりして力強く、単純、率直な文章とで、お話を語る。かの女は、物語を簡潔に表現することができ、そこにあらわされるシーンにぴったりすることばを選んで使っている。
 ストーリーは、単純に語られているとはいえ、必要以上に単純化されていないし、またこまやかさも失ってもいない。かの女の物語は、幼い子どもの理解できない世界の出来事でありながら、しかも十分に子どもの想像力の飛躍する余地を与えている。ビアトリクス・ポターの語る冒険談は、かの女自身の空想が創りだしたものであるが、そこに描かれている動物本来の特徴にもとづいているために、いかにもありそうな話になっている。たとえば「あひるのジェミマ(ジマイマ)の絵本では、話の筋は、自分の巣をかくそうとするあひるの本能を中心として展開している。また、キツネがアヒルを食うということは、知られているし、犬は、キツネを追いかけるものなである。そこで、この話のブロットに必要な条件はすっかり出そろったことになる。
 動物たちは」、けっして多くしゃべらさらてはいないが、しゃべれば必ずその動物独特の気質を発揮する。おろか者のアヒルのジェミママ(ジマイア)、そわそわしていて、いうべきことを口の中で、もごもごしゃべり、かの女の会話は、おちつきのない混乱した心を示すように、はっきりしていない。一方、キツネ氏の口説は、どちらかというと大言壮語に属していている。かれのなめらかな雄弁は、そのよこしまな性質とつりあっている。そして、動物たちは、性格にあった話し方をすると同時に、行動もする。
 ビアトリクス・ポターの絵本では、動物たちが、ふつう考えられているのと違った行動をする箇所があるが、そこに私たちは、かの女のユーモラスなタッチを見いだす。そのユーモアは、けっして笑いこけるほど陽気ではなく、静かで、知らないうちにこちらの心をとらえるというていのものである。ジェミマ(ジマイマ)は、かの女自身、ユーモアを解する鳥ではないが、盛装して空中をとんでゆくところは、こっけいである。キツネ氏は、ジェミマ(ジマイマ)が、いらぬびっくりをしないように、ポケットにしっぽをしまい、夏の別荘のドアをしめながら、読者である子どもにウィンクして、こっそり自分の秘密を知らせる。
 ビアトリクス・ポターの挿絵をその文と切りはなすことはできない。この二つのものは融合して、一つのふかい印象を与えるのである。絵は、物語の細部を、たくみに描きだしているばかりでなく、物語の背景として、一瞬の美しい風景画を見せている。ジェミマ(ジマイア)が、「丘の荷馬車道をのぼって」いったシーンでは、ビアトリクス・ポターは、ゆるやかな丘とくずれかけた石垣と、それから遠景に木の芽どきの森を、私たちに示す。その絵全体が、イギリスの春の、ほのかなピンクがかった、かすんだ空気でみたされている。かの女の絵は、どの絵も、たとえ無意識にせよ、子どものものの味わい方に深い印象をのこし、その子の発育に影響をおよばさずにはおかない。
 ビアトリクス・ポターのストーリーは、自然観察がその背景になっている。そして、そのようなことは、幼児のかぎられた経験では、すべて知っているというわけにはゆかないけども、幼児が理解し、または直感的に鑑賞できる範囲のものである。たとえば、「ジェレミー・フイツシャー」の家庭生活は、子どもの家庭生活とはちがっていながら、似ている点もある。ちがっているところは、興味をひき、心をそそり、似ている点は、子どもの経験に結びつく。小動物たちの特徴は、人間的にあらわされているが、動物間に存在する本来の敵対関係は、そのままにすえおかれている。このような関係は、ストーリーのなかで重要な位置をしめてはいないが、作者が、作中の小動物をよく知っていること、その知識を使うことにじつにたくみであることを示している。
  ビアトリクス・ポターはその小型本のなかで、ミニアチュアの世界を創りだしている。それは幼い子どもの知性と想像力にものさしをあわせた世界でありながら、しかも、そこには、根本的な真実が包含されている。筆をおさえて、簡閲につづられたストーリーは、声をだして読むのに楽しい。そして、それについている小動物の特長ある絵や、その背景として、愛情こまやかに細部まで描写されているイギリスの湖水地方(イングランド北西部の美しい湖に富む高原地帯)の風景画が、完全にストーリーを絵に描きだしている。小さな動物たちを描いたかの女のストーリーと絵とは、何度も模倣されたが、かの女以上に出た作家は、ひとりもない。
  十九世紀と二十世紀の初めに出た、こうした挿絵画家たちの作品をふりかえり、またイギリス、ヨーロッパ、アメリカで、かれらと同時代に生きた、ほかの画家たちの挿絵をこまかに観察する時、私たちは、いまさらのように、今日の絵本の様相がちがってきたことに気づくのである。このちがいは二つの世界大戦のあいだの期間にいちじるしくなった。西ヨーロッパの多くの画家たちが、経済的、政治的な争いにより分裂動揺する故国をのがれて、アメリカにわたってきた。この移住の結果、さまざまな伝統にたつ絵画と、アメリカに生まれ、かれら自身の伝統をもつ画家たちの画風とがまじりあって、アメリカの絵本は、たいへんゆたかなものになった。こうした文化の交流は、外国から輸入された絵本によって、いっそうゆたかにされ、歴史上いつの時代、またどこの国にも見られなかったほど、多種多様な絵本をつくりだす結果を生んだ。》

(以下は、現代の絵本の特徴などの記述にうつっていきます)

(電車のつり広告のマネ)

 ピーターラビットの絵本シリーズの要約は、

      長い  ようで  >―――<   
      短い  ようで   〈―――〉

    やっぱり長かった  >―――<

たくさんの方に 読んでいただけて続けられました。ありがとう ございました。

    
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