とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

ここにこそ動かぬ平和がある(1/2)――中村哲

2009年08月11日 19時33分13秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)

ペシャワール会HPより

http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/ 

 ここにこそ動かぬ平和がある──用水路は現地活動25年の記念碑

ペシャワール会現地代表・PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長  中村哲


 5月、ガンベリ沙漠に酷暑の夏が到来した。めまいを起こすような強烈な陽射しにあぶられ、目つぶしの砂嵐に吹かれながらも、黙々と作業する一団がある。作業員660名、職員60名、ダンプカー25台、掘削機8台、ローダー6台、トラクター20台が広大な沙漠の中でうごめく。その様は、さながら巣作りに励むアリの群である。

 ガンベリ沙漠はアフガニスタン東部のジャララバードから15キロメートル北にあり、その幅4キロメートル、長さ20キロメートル、ニングラハルとラグマンとの州境に当たる。厳しい自然条件のために交通路としては不向きで、古来多くの旅人たちを葬ってきた。この沙漠が、六年前着工したPMS(ペシャワール会医療サービス)のマルワリード用水路の終点である。現地のことわざに、「ガンベリのように喉が渇く」と云われるほど、乾燥した荒地として有名だ。初めの頃、ここが緑の楽園になるとは誰も信じなかった。だが、この6年間、用水路は、難工事を重ねながら全長20キロメートルまでを完成、2500ヘクタール以上が潤されて緑を回復した。残る4キロメートルが、このガンベリ沙漠沿いの岩盤地帯と沙漠横断路である。この完成が目前に迫っている。

 工事は昨年11月から続けられていたが、予想以上の難所となった。沙漠の熱風はアフガン人にとっても尋常ではない。「夏前までに完成」が合言葉だったのに、これまでの工事の後始末、マドラサ建設、他の取水口の建設、湿地帯処理、地方政府や米軍・軍閥との折衝、例年にない雨天続きなどで、大幅に遅れていた。「夏は働けない」と皆思ったが、この機を逃しては仕上がらない。気力と希望にすがりながらの挑戦となった。

難航を極めた岩盤周りの工事
用水路最大のQ2貯水池、左手はガンべり砂漠

  建設のいきさつ

  PMSの「マルワリード用水路」が実行に移されたのは、2003年3月19日、米軍のイラク侵攻の前日であった。当時、ジャララバード周辺は空前の規模で農村の沙漠化が進行していた。かつてこの一帯はアフガン東部で豊かな穀倉地帯として聞こえていたが、1999年から旱魃かん ばつが次第にひどくなり、廃村が広がっていった。農民たちは続々と村を離れ、多くはパキスタン北西辺境州へ難民として流れていった。折悪しく前後して、旧タリバン政権と英米との衝突が起きた。1998年、ジャララバードは米国の巡航ミサイルの攻撃にさらされ、2001年に「ニューヨーク・同時多発テロ」が起きると直ちに激しい空爆にさらされた。その後の政治的混乱は激しくなるばかりで出口が見えないが、世界の耳目はに政情に集中し、人々の本当の困窮は伝わることがなかった。

 アフガン人の大半が自給自足の農民である。米軍の進駐に続いて「アフガン復興」が話題となったが、農村地帯が恩恵に浴することは少なかった。PMSは既に2000年から医療だけでなく、飲料水源(井戸・カレーズ)の確保にのりだしていたが、飢餓と難民化が後を絶たぬ状態で、より抜本的な「農村復興事業」へと傾斜していった。用水路計画が始まったのは自然な成り行きであったのかもしれない。当時、誰も手をつけなかったからである。

 適正技術の習得 ― 人と自然との間

 初め、手さぐりの時期が続いた。一介の医師にとって、農業土木の分野は余りに縁遠いものであった。また、仮に現代日本の技術を駆使できても、現在の用水路ができたかどうか疑問である。単純な手作業を多くもりこみ、現地で維持補修が可能なものでなければならない。このヒントを与えてくれたのは、現地と日本の古い水利施設であった。両者の類似点は、当然のことながら機械を使わず、人力に頼る方法である。

 特に、直に自然と向き合う河川からの取水技術、自然の猛威から身を守る術である。このため、河床のlせき上げ、護岸、土石流・鉄砲水対策、防風対策など、自然との格闘に明け暮れる中、基本的考えは昔のものを踏襲することになった。意図的に真似たのではなく、限られた技術力と物量の中で、どうあがいても、それ以外の方法をとれなかったのである。取水堰は福岡県の筑後川沿いにある山田堰がモデルとなり、改良を年々加えてPMS独自の方法が確立された。護岸法では蛇籠工法や石出し水制を駆使して洪水・決壊被害を乗り切った。貯水池も自宅近辺のを模倣したものである。もちろん、石や土の性状、地形を考慮し、かなり計算されたものであるが、結論は吾々の知恵は古人に及ばないということであった。完成しつつある吾がマルワリード用水路は、日本人の御先祖さまに負うところが大きい、と告白せねばならない。

 6年をふりかえると、自然は決して過剰な要求をしない。「過酷な自然」とは、人間側が欲望の分だけ言うのであって、自然を意のままに操作しようとする昨今の風潮は思いあがりである。インダス河の支流、クナール河は簡単に制御できるものではない。殊に取水口の建設は、人為と自然の危うい接点であり、「少しばかりお恵み下さい」という姿勢がなければとても成功するものではなかった。「遊水池」や護岸法の着想もそうで、古人は自然を制御するのではなく、同居する知恵を生かしたのである。

 クナール河の取水口と斜め堰
  参考とした筑後川の山田堰(福岡)
取水口水門。洪水に幾度も耐えた
蛇籠で護岸した用水路。17万本以上の柳を植樹
柳や桑、ユーカリの木に囲まれたD沈砂池と、左手クナール川に造成した石出し水制  難工事のG岩盤は階段状の盛土をして水路を通し
 た。地盤の軟化を柳が防ぐ      

 人里を守る

 24キロメートルの水路は、単に水を送って3000町歩の農地を確保しているだけではない。水路自身が山麓地帯の人里の守り役になっている。水路は、ヒンズークッシュ山脈の支脈・ケシュマンド山系の南麓を岩盤沿いに走る。当然多数の谷を横切り、崖地沿いに建設される。それは、とりもなおさず、24キロメートル全域にわたって上流の降雨を引き受けねばならぬということである。アフガニスタンの茶褐色の山肌は、殆んど植生がなく、保水性に乏しい。乾燥地といえども、きまぐれな集中豪雨の規模は甚だ大きいもので、ごく短時間に襲う鉄砲水にしばしば泣かされた。

 しかし、吾々が泣く分だけ、人里は安泰になる。かつては脅威であった鉄砲水や洪水が、ことごとく水路内に流れ込むからだ。そこで途中から着想を変え、岩盤沿いや小さな谷程度の雨水は積極的に水路内にとりこむ設計となった。もちろんダラエヌールなど超弩級の谷はサイフォンでくぐらせるが、大抵はとりこむ。貯水池がやたらに多く、全体にゆとりのある幅をとっているのは、このためである。また土石流の谷では植林に努め、猛烈な勢いで下る流水の速度を落とそうとした。ガンベリ沙漠では日本の海岸と同じように、5キロメートルにわたる防風・防砂林を造成した。

            
 K貯水池と復活した田畑(2009年3月)
  通水前のK貯水池(2007年3月)
砂漠化から回復したダラエヌール山麓の村。
K貯水池からの灌漑。遠方にマドラサが見える。
  ガンベリ砂漠に植えられた砂防林

 水路が守るのは洪水ばかりでなく、里の人間関係がある。例えば、水争いで殺傷沙汰が絶えなかった村同士の歴史的な和解も、マルワリード用水路によってもたらされた。「衣食足って礼節を知る」というのは本当である。また、作業員は全て近隣農民であったから、彼らに落ちる日当もバカにはならない。この6年間で延べ55万人が作業に従事した。シェイワ郡では作業に携わらなかった壮青年を捜す方が難しいと言われる。不幸にして水路の恩恵に浴さなかった村では、賃金収入で生活が保障 されてきた例もある。こういった村では、作業員が半ば熟練工となっていて、蛇籠の制作、鉄筋の裁断、水路やマドラサ建設に欠かせぬ人員を補給し続けてきた。その経験を生かして他地域に出稼ぎに行ける者もいる。「用水路事業がないととっくの昔に難民化していた」と口をそろえる。

                                                              (2)につづく 

 

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