第2章 「フセイン、最後の戦い」
2 空中分解する国連
査察 開始
さて、「国連決議受諾」という第一関門を通過したイラクは、11月末、過去4年間で初めて、国連査察団の国内立ち入りを受け入れた。まずブリックス委員長とエル・バラダイIAEA(国際原子力機関)事務局長が先導隊としてイラク入りし、25日から本格的に査察団が入国、27日から査察を開始した。当初は少人数で始められた査察だが、査察団は45カ国の出身者から構成され、12月中には85~100人規模に拡大された。緊張のなかで始まった査察は、特にイラク政府との間に衝突もなく、「査察団はスパイだ」と主張するイラク政府に対して、ブリックスが「査察団にスパイがいたら追い出す」と配慮を示す場面もあった。
予定されている査察対象施設は1000以上にものぼり、結果報告書を2003年1月27日までに提出しなければならない。到底この人数では綿密な査察が行えるわけがない。そのことを如実に示したのが、「国連決議採択から30日以内に提出」と義務づけられた、「すべての大量破壊器に関する情報」についての報告書であった。12月7日、イラク政府は大量破壊兵器開発に関する申告書を提出したが、その分量はなんと1万3000ページにものぼり、トラックに満載して運こびこまねばならなかった。加えて、この報告書の検討を国連と同時にアメリカ政府も行うと主張したため、コピーを作成するだけでも大いに手間と時間を浪費するものであった。
パウエル国務長官は、即座にこれをイラク側の「時間稼ぎ」だと批判した。内容的に不十分、特に生物兵器や、一説には6000発あるとも伝えられる化学兵器が申告されていないとして、それが「国連決議に記された、「重大な違反」にあたる」と、イラク政府の非協力的姿勢を糾弾した。ブリックス委員長も翌日、「申告書には新しい情報が記載されていない」と批判的発言を行ったものの、それが国連決議の言う「深刻な事態」(武力行使を指す)をもたらすほどの「重大な違反」である、との認識は行わなかった。
イラク政府がなかなか尻尾を出さないのに対して、年末になるとアメリカは徐々に追及の手を強めていく。
前述したように、ブリックス委員長は、イラク人科学者に対する「亡命」をほのめかした事情聴衆は行いたくない、と否定的な態度をとっていたが、アメリカの執拗な要求に答えて査察団は、12月27日にはイラク人科学者へのインタビューを開始した。翌日には500人以上の大量破戒器関連の科学・技術者リストが提出されている。
興味深いのは、その10日後にアーミル・ラシード石油相が解任されていることである。ラシード石油相の夫人リハーブ・ターハは英イースト・アングリア大学博士号を持ち、米英が「ドクター生物兵器」と名づけた細菌学専門家で、早くから機密情報のソースとして英米が目をつけていた人物である。今後の事情聴取の過程で、閣僚の家族にまで捜査の手が及ぶことを予想して、イラク側が事前に自衛策を講じたものと考えられよう。
「査察は順調」が困る
こうしてイラク政府は、目の前に次々に並んだハードルと落とし穴を危ないところで切り抜けつつ、査察団による中間報告発表を迎えた。2003年1月9日、ブリックス委員長は内容が不満としながらも、特にイラクが大量破壊兵器を保有しているという確証は得られなかった、という報告書を安保理に提出した。
「成果」のあがらない査察にアメリカが業を煮やすなか、同月15日にはカラの化学兵器弾頭11基が発見されたり、さらに18日には、調査したイラク人科学者宅で核開発関係書が押収された。
このように、中間報告でのほぼ「シロ」に近い内容を「挽回」するかのように、少しづつ「クロ」へと導く証拠が見つかり始めていたが、この時期問題になりつつあったのが、査察活動の最終スケジュールであった。2002年11月に採択された安保理決議1441号では、本格的査察開始から60日後すなわち1月27日に最終報告を提出されることが求めらている。しかしこの最終報告書と「深刻な事態」との関連は明確にされていない。特に問題になるのが、UNMOVICの設置自体を定めた国連決議1284号(1999年)との関係だ。決議1284号では、UNMOVICは120日間の査察活動を行うものと規定されている。つまり両方の決議に準拠するとなれば、UNMOVICは1月末に決議1441号に基づいて査察活動の最終報告書を提出するものの、1284号に基づいて査察活動自体は3月末まで続ける、ということになるのである。
ブリックス委員長は、早い時期からこの両論併記のスケジュールを念頭においていた。だがアメリカは、新しい方の決議1441号が優先されるのは当然とし、1月末の最終報告で決着をつけるべし、と主張した。
軍事活動を行うとすれば、気温が上がらず、かつ砂嵐などで視界が悪くなる春前に着手しなければ米軍は苦しいという「技術上」の時期的制約がそこに横たわっていたことは、誰しも暗黙のうちに認識していたことである。
ここで、査察日程の短縮に存外の抵抗を示したのは、ブリックス委員長ではなく、フランスとロシア、そしてドイツであった。フランスは、「もっと査察をやらせればいいじゃないか」という姿勢を強めていった。アメリカが思っているほど簡単にイラクはボロを出さないぞ、と見て取ったのかもしれない。だがなによりも、アメリカが戦後のイラクに描いている青写真のいい加減さが、中東諸国の内情を熟知しているフランスに危機意識を抱かせたものと思われる。
イラクから油田契約を破棄されたロシアもまた、年末の国連決議でアメリカと不協和音を生じさせていた。あまり国際的関心を呼ぶことがなかったが、12月30日に、イラクに対する輸出禁止物資リストの更新を行う国連決議1454号が採択されている。ここでは、来るべき戦争に備えてイラクが輸入しそうな物資、神経ガス対策用のアトロピリンが新たに禁止されたが、アトロピンの主要供給元はフランスとロシアであった。そのことに反発したのか、この決議にはロシアとシリアが棄権した。対イラク国際協調を派手に謳った決議1441号の影で、すでに年末には「全会一致」のムードは綻(ほころ)びつつあったのである。
「古いヨーロッパ」、反乱す
アメリカは、大量破壊兵器の決定的「証拠」を得られず、それを補うかのように、ブッシュ米大統領は、2003年の一般教書演説で、改めてフセイン政権の非人道性、脅威を強調する演説を行う。反政府勢力に対する拷問や弾圧の残虐さを、演説の場に似つかわしくないほど生々しく表現してみたり、改めてビン・ラディンとフセイン政権の関係を示唆してみたりして、「攻撃理由」の複線化を図った。
だが、それに反比例するかのように、フランスとドイツはアメリカの武力行使に拒絶反応を強めていく。1月も終わり頃、アメリカの強引なやり方に疑念を抱いていたフランスやドイツを、ラムズフェルド国防長官が「古いヨーロッパ」と軽蔑的に言ったことが、彼らの逆鱗に触れたのかもしれない。2月10日、フランス、ロシア両国はドイツとともに査察継続を求める共同宣言を行い、米英の軍事行動への傾斜に「待った」をかけたのである。
これを受けてUNMOVICは、1月の最終報告後もイラク国内に残り査察を続け、追加報告を2月14日に国連の場で行った。1月末、大きく「クロ」に傾いた査察報告は、ここでは一転してイラクの協力的姿勢に改善が見られるという積極的な評価に変わり、今度こそはっきりと、「査察を継続する」との意思表示を行ったのである。
そして最大の見せ場は、その報告に続いて行われた各安保理理事国の演説であった。その結果、当初半々程度と思われていた査察継続派/打ち切り派の比率は、パウエル国務長官の必死の外交工作にもかかわらず、大きく継続派に傾いた。米英とスペイン以外の国がすべて、「査察活動に時間を与えよ」との姿勢を示したのである。
反戦 反戦 反戦
ここで行われた各安保理の理事国演説のうち、フランスのド・ビルパン外相が行った演説は、感動的である。彼の演説の趣旨は「武力行使は正当化されず、査察継続が戦争にとって代わられるべき」というものであったが、その演説の最後で、ラムズフェルド発言を揶揄して「〈古いヨーロッパ〉からお送りするメッセージ」と述べ、「この(フランス)という〈古い国〉は、アメリカであれどこであれ、世界中の〈解放の戦士たち〉が貢献したあらゆることを知り、そして忘れずにきた」と、西欧近代啓蒙思想の始祖たる誇りを掲げた。そして「歴史と人類を前に胸を張ってたち続けることをやめたことはない」と、高らかに自負している。彼は「フランスは国際社会すべてが決断と行動することを願う。そしてその価値観に対して忠実であり続け、よりよい世界を共に築き上げる力があることを、信じている」と謳いあげて、会場から拍手喝采に包まれた。
ところで、この会議の数日前、筆者のところにメールが届いた。「安保理事国の各代表のメールアドレスに、〈戦争反対〉のメールの洪水を起こそう!これが戦争回避の最後のチャンスだ」。同じ内容のメールが繰り返し、送られてくる。その回転の速さは異常なほどであった。国連のメールアドレスには、本当にメールが洪水のように、溢れていたそうである。
屋外を見れば、世界各地で近年にない規模の反戦デモが組織されていた。翌2月15日、フランスでは100万人、ドイツではベルリンだけで50万人、イタリアでは300万人の人々が路上に出て反戦を叫んだ。主戦派の国でも、アメリカではニューヨークで50万人、オーストラリア全土で50万人、スペインでは300万人が集まった(「世界」緊急増刊『No War!――立ちあがった世界市民の記録』より)。ロンドンだけで100万人以上のデモ参加者が出たのは、イギリス史上初めてである。
この日、全世界600もの都市で1000万人がデモに参加した、と報じられている。そしてこの日から戦争終結まで、「世界同時多発デモ」とでもいうべき反戦行動が、世界中で広がっていった。アメリカでは、13日以降、各地の市議会が対イラク攻撃反対決議を次々に可決していき、そうした都市の数は100を超えた。開戦の日には、デモ隊と警察の衝突が相次ぎ、サンフランシスコで1000人以上の逮捕者を出すに至った。戦争中、アカデミー賞受賞式で映画監督のマイケル・ムーア氏が「恥を知れ、ブッシュ」と叫んだのは、あまりにも有名である。
(2-2 「単独攻撃への道」に続く)
2 空中分解する国連
査察 開始
さて、「国連決議受諾」という第一関門を通過したイラクは、11月末、過去4年間で初めて、国連査察団の国内立ち入りを受け入れた。まずブリックス委員長とエル・バラダイIAEA(国際原子力機関)事務局長が先導隊としてイラク入りし、25日から本格的に査察団が入国、27日から査察を開始した。当初は少人数で始められた査察だが、査察団は45カ国の出身者から構成され、12月中には85~100人規模に拡大された。緊張のなかで始まった査察は、特にイラク政府との間に衝突もなく、「査察団はスパイだ」と主張するイラク政府に対して、ブリックスが「査察団にスパイがいたら追い出す」と配慮を示す場面もあった。
予定されている査察対象施設は1000以上にものぼり、結果報告書を2003年1月27日までに提出しなければならない。到底この人数では綿密な査察が行えるわけがない。そのことを如実に示したのが、「国連決議採択から30日以内に提出」と義務づけられた、「すべての大量破壊器に関する情報」についての報告書であった。12月7日、イラク政府は大量破壊兵器開発に関する申告書を提出したが、その分量はなんと1万3000ページにものぼり、トラックに満載して運こびこまねばならなかった。加えて、この報告書の検討を国連と同時にアメリカ政府も行うと主張したため、コピーを作成するだけでも大いに手間と時間を浪費するものであった。
パウエル国務長官は、即座にこれをイラク側の「時間稼ぎ」だと批判した。内容的に不十分、特に生物兵器や、一説には6000発あるとも伝えられる化学兵器が申告されていないとして、それが「国連決議に記された、「重大な違反」にあたる」と、イラク政府の非協力的姿勢を糾弾した。ブリックス委員長も翌日、「申告書には新しい情報が記載されていない」と批判的発言を行ったものの、それが国連決議の言う「深刻な事態」(武力行使を指す)をもたらすほどの「重大な違反」である、との認識は行わなかった。
イラク政府がなかなか尻尾を出さないのに対して、年末になるとアメリカは徐々に追及の手を強めていく。
前述したように、ブリックス委員長は、イラク人科学者に対する「亡命」をほのめかした事情聴衆は行いたくない、と否定的な態度をとっていたが、アメリカの執拗な要求に答えて査察団は、12月27日にはイラク人科学者へのインタビューを開始した。翌日には500人以上の大量破戒器関連の科学・技術者リストが提出されている。
興味深いのは、その10日後にアーミル・ラシード石油相が解任されていることである。ラシード石油相の夫人リハーブ・ターハは英イースト・アングリア大学博士号を持ち、米英が「ドクター生物兵器」と名づけた細菌学専門家で、早くから機密情報のソースとして英米が目をつけていた人物である。今後の事情聴取の過程で、閣僚の家族にまで捜査の手が及ぶことを予想して、イラク側が事前に自衛策を講じたものと考えられよう。
「査察は順調」が困る
こうしてイラク政府は、目の前に次々に並んだハードルと落とし穴を危ないところで切り抜けつつ、査察団による中間報告発表を迎えた。2003年1月9日、ブリックス委員長は内容が不満としながらも、特にイラクが大量破壊兵器を保有しているという確証は得られなかった、という報告書を安保理に提出した。
「成果」のあがらない査察にアメリカが業を煮やすなか、同月15日にはカラの化学兵器弾頭11基が発見されたり、さらに18日には、調査したイラク人科学者宅で核開発関係書が押収された。
このように、中間報告でのほぼ「シロ」に近い内容を「挽回」するかのように、少しづつ「クロ」へと導く証拠が見つかり始めていたが、この時期問題になりつつあったのが、査察活動の最終スケジュールであった。2002年11月に採択された安保理決議1441号では、本格的査察開始から60日後すなわち1月27日に最終報告を提出されることが求めらている。しかしこの最終報告書と「深刻な事態」との関連は明確にされていない。特に問題になるのが、UNMOVICの設置自体を定めた国連決議1284号(1999年)との関係だ。決議1284号では、UNMOVICは120日間の査察活動を行うものと規定されている。つまり両方の決議に準拠するとなれば、UNMOVICは1月末に決議1441号に基づいて査察活動の最終報告書を提出するものの、1284号に基づいて査察活動自体は3月末まで続ける、ということになるのである。
ブリックス委員長は、早い時期からこの両論併記のスケジュールを念頭においていた。だがアメリカは、新しい方の決議1441号が優先されるのは当然とし、1月末の最終報告で決着をつけるべし、と主張した。
軍事活動を行うとすれば、気温が上がらず、かつ砂嵐などで視界が悪くなる春前に着手しなければ米軍は苦しいという「技術上」の時期的制約がそこに横たわっていたことは、誰しも暗黙のうちに認識していたことである。
ここで、査察日程の短縮に存外の抵抗を示したのは、ブリックス委員長ではなく、フランスとロシア、そしてドイツであった。フランスは、「もっと査察をやらせればいいじゃないか」という姿勢を強めていった。アメリカが思っているほど簡単にイラクはボロを出さないぞ、と見て取ったのかもしれない。だがなによりも、アメリカが戦後のイラクに描いている青写真のいい加減さが、中東諸国の内情を熟知しているフランスに危機意識を抱かせたものと思われる。
イラクから油田契約を破棄されたロシアもまた、年末の国連決議でアメリカと不協和音を生じさせていた。あまり国際的関心を呼ぶことがなかったが、12月30日に、イラクに対する輸出禁止物資リストの更新を行う国連決議1454号が採択されている。ここでは、来るべき戦争に備えてイラクが輸入しそうな物資、神経ガス対策用のアトロピリンが新たに禁止されたが、アトロピンの主要供給元はフランスとロシアであった。そのことに反発したのか、この決議にはロシアとシリアが棄権した。対イラク国際協調を派手に謳った決議1441号の影で、すでに年末には「全会一致」のムードは綻(ほころ)びつつあったのである。
「古いヨーロッパ」、反乱す
アメリカは、大量破壊兵器の決定的「証拠」を得られず、それを補うかのように、ブッシュ米大統領は、2003年の一般教書演説で、改めてフセイン政権の非人道性、脅威を強調する演説を行う。反政府勢力に対する拷問や弾圧の残虐さを、演説の場に似つかわしくないほど生々しく表現してみたり、改めてビン・ラディンとフセイン政権の関係を示唆してみたりして、「攻撃理由」の複線化を図った。
だが、それに反比例するかのように、フランスとドイツはアメリカの武力行使に拒絶反応を強めていく。1月も終わり頃、アメリカの強引なやり方に疑念を抱いていたフランスやドイツを、ラムズフェルド国防長官が「古いヨーロッパ」と軽蔑的に言ったことが、彼らの逆鱗に触れたのかもしれない。2月10日、フランス、ロシア両国はドイツとともに査察継続を求める共同宣言を行い、米英の軍事行動への傾斜に「待った」をかけたのである。
これを受けてUNMOVICは、1月の最終報告後もイラク国内に残り査察を続け、追加報告を2月14日に国連の場で行った。1月末、大きく「クロ」に傾いた査察報告は、ここでは一転してイラクの協力的姿勢に改善が見られるという積極的な評価に変わり、今度こそはっきりと、「査察を継続する」との意思表示を行ったのである。
そして最大の見せ場は、その報告に続いて行われた各安保理理事国の演説であった。その結果、当初半々程度と思われていた査察継続派/打ち切り派の比率は、パウエル国務長官の必死の外交工作にもかかわらず、大きく継続派に傾いた。米英とスペイン以外の国がすべて、「査察活動に時間を与えよ」との姿勢を示したのである。
反戦 反戦 反戦
ここで行われた各安保理の理事国演説のうち、フランスのド・ビルパン外相が行った演説は、感動的である。彼の演説の趣旨は「武力行使は正当化されず、査察継続が戦争にとって代わられるべき」というものであったが、その演説の最後で、ラムズフェルド発言を揶揄して「〈古いヨーロッパ〉からお送りするメッセージ」と述べ、「この(フランス)という〈古い国〉は、アメリカであれどこであれ、世界中の〈解放の戦士たち〉が貢献したあらゆることを知り、そして忘れずにきた」と、西欧近代啓蒙思想の始祖たる誇りを掲げた。そして「歴史と人類を前に胸を張ってたち続けることをやめたことはない」と、高らかに自負している。彼は「フランスは国際社会すべてが決断と行動することを願う。そしてその価値観に対して忠実であり続け、よりよい世界を共に築き上げる力があることを、信じている」と謳いあげて、会場から拍手喝采に包まれた。
ところで、この会議の数日前、筆者のところにメールが届いた。「安保理事国の各代表のメールアドレスに、〈戦争反対〉のメールの洪水を起こそう!これが戦争回避の最後のチャンスだ」。同じ内容のメールが繰り返し、送られてくる。その回転の速さは異常なほどであった。国連のメールアドレスには、本当にメールが洪水のように、溢れていたそうである。
屋外を見れば、世界各地で近年にない規模の反戦デモが組織されていた。翌2月15日、フランスでは100万人、ドイツではベルリンだけで50万人、イタリアでは300万人の人々が路上に出て反戦を叫んだ。主戦派の国でも、アメリカではニューヨークで50万人、オーストラリア全土で50万人、スペインでは300万人が集まった(「世界」緊急増刊『No War!――立ちあがった世界市民の記録』より)。ロンドンだけで100万人以上のデモ参加者が出たのは、イギリス史上初めてである。
この日、全世界600もの都市で1000万人がデモに参加した、と報じられている。そしてこの日から戦争終結まで、「世界同時多発デモ」とでもいうべき反戦行動が、世界中で広がっていった。アメリカでは、13日以降、各地の市議会が対イラク攻撃反対決議を次々に可決していき、そうした都市の数は100を超えた。開戦の日には、デモ隊と警察の衝突が相次ぎ、サンフランシスコで1000人以上の逮捕者を出すに至った。戦争中、アカデミー賞受賞式で映画監督のマイケル・ムーア氏が「恥を知れ、ブッシュ」と叫んだのは、あまりにも有名である。
(2-2 「単独攻撃への道」に続く)