『ベケットといじめ』で「お葬式ごっこ」を考え続けていたら本当にボロボロになってしまいました。
思い出します。
私が小学校と中学生だったことを、ぼんやりと。
古い話ですが、私の両親は戦争で東京焼け野原となり、地方の小さな町に疎開し、そこで私は生まれました。
そこは外部からまったくと言っていいほど人が入ってこない町でした。そのため、「よそもの」として、学校どころか町ぐるみでいじめられました。
ですから、集団いじめの体験は豊富(自慢?笑い)。先生などからもひどい事を言われたものです。
が、思えば「いじめ」の解読は比較的はっきりしていて、キーワードは「よそもの」。方言もしゃべらず、着ているものもちがう。はきはきしている。
そのいずれもが、彼らにとって違和感を与えたのだと思います。
本能的に、「いじめられた」と思うと、効果あったりで、おそらくどっと「いじめ」行為はエスカレーションするだろうと思ったから、できるだけポーカーフェースを保ち、あとは「しょせん時がくれば、卒業し解散するのが学校だ」と思って、一人一派を胸にやりすごしていました。
「場」を解読できても、「いじめ」にあうと、心の奥底では傷つくものです。つまり自分という人間はさほどに欠点があるのかと自己評価に響くのです。が、これは、結論を出さず、保留として「痛み」のまま持ち歩いていました。
高校へ入学したら環境はガラリと変わり、理性的なものになった。驚いたことにクラスメートは全員一人一派の寄せ集まりで、一人一人が考えを持っていたので、クールな雰囲気で、集団になるほうがむずかしかった。(笑い)
さほどに、「場」によって人間関係は変わる。自分への評価も変わる。
子どもの世界は、純粋な面と、経験不足なために残酷なことも平気でやる面をもつ世界だと思う。いじめたり、いじめられたり、何でもありの世界で子どもは成長していく。子供だけでつくる「場」の力学が強烈に働いているので、大人が入り込むのは容易ではない。私のかすかな記憶では、場外に大人の目が光っていて、やっていいことと、悪いことが教えられていたような気がする。バカな大人も混じっていたが。恐い大人は、ケンカをするなとは言わなかった。相手に致命傷を与えないでいかにケンカをするかを教えられた。だから、限度は守られていたような気がする。
そして、その世界で子どもも成長していく。今まで人の足を平気でふんづけていたのが、やがて今度は自分が足をふんづけられる経験をして、こんなに痛いものかということを知っていく。
いい年をしてもまだ人の痛みを知らない人がいるが(どきっ!)、人の痛みを知っていくという修行は尽きることがない。
以上のことをふまえて、「お葬式ごっこ」を再考してみた。その行為だけを抽出しても無意味だ。同じ行為でも「場」にあたたかさ、信頼感があれば、冗談として通じることも可能だろう。悪意が混じっていれば、冗談どころか、このうえもなく残酷な集団行為だ。
が、「禁じられた遊び」という映画のバックに流れる悲しいギター曲のメロディーを思い出してほしい。戦争のためたくさんの人々が死んでいくという状況のなかで、子どもがこっそり隠れて「お葬式ごっこ」をして遊んでいる。なんと悲しい光景だろうか?さすがですが、映画では大人はそんな遊びを禁じる。だから「禁じられた遊び」というタイトルなのだ。
日本の現代の子供達が、「禁じられた遊び」をする背景には、一体何があるのだろうか?
思い出します。
私が小学校と中学生だったことを、ぼんやりと。
古い話ですが、私の両親は戦争で東京焼け野原となり、地方の小さな町に疎開し、そこで私は生まれました。
そこは外部からまったくと言っていいほど人が入ってこない町でした。そのため、「よそもの」として、学校どころか町ぐるみでいじめられました。
ですから、集団いじめの体験は豊富(自慢?笑い)。先生などからもひどい事を言われたものです。
が、思えば「いじめ」の解読は比較的はっきりしていて、キーワードは「よそもの」。方言もしゃべらず、着ているものもちがう。はきはきしている。
そのいずれもが、彼らにとって違和感を与えたのだと思います。
本能的に、「いじめられた」と思うと、効果あったりで、おそらくどっと「いじめ」行為はエスカレーションするだろうと思ったから、できるだけポーカーフェースを保ち、あとは「しょせん時がくれば、卒業し解散するのが学校だ」と思って、一人一派を胸にやりすごしていました。
「場」を解読できても、「いじめ」にあうと、心の奥底では傷つくものです。つまり自分という人間はさほどに欠点があるのかと自己評価に響くのです。が、これは、結論を出さず、保留として「痛み」のまま持ち歩いていました。
高校へ入学したら環境はガラリと変わり、理性的なものになった。驚いたことにクラスメートは全員一人一派の寄せ集まりで、一人一人が考えを持っていたので、クールな雰囲気で、集団になるほうがむずかしかった。(笑い)
さほどに、「場」によって人間関係は変わる。自分への評価も変わる。
子どもの世界は、純粋な面と、経験不足なために残酷なことも平気でやる面をもつ世界だと思う。いじめたり、いじめられたり、何でもありの世界で子どもは成長していく。子供だけでつくる「場」の力学が強烈に働いているので、大人が入り込むのは容易ではない。私のかすかな記憶では、場外に大人の目が光っていて、やっていいことと、悪いことが教えられていたような気がする。バカな大人も混じっていたが。恐い大人は、ケンカをするなとは言わなかった。相手に致命傷を与えないでいかにケンカをするかを教えられた。だから、限度は守られていたような気がする。
そして、その世界で子どもも成長していく。今まで人の足を平気でふんづけていたのが、やがて今度は自分が足をふんづけられる経験をして、こんなに痛いものかということを知っていく。
いい年をしてもまだ人の痛みを知らない人がいるが(どきっ!)、人の痛みを知っていくという修行は尽きることがない。
以上のことをふまえて、「お葬式ごっこ」を再考してみた。その行為だけを抽出しても無意味だ。同じ行為でも「場」にあたたかさ、信頼感があれば、冗談として通じることも可能だろう。悪意が混じっていれば、冗談どころか、このうえもなく残酷な集団行為だ。
が、「禁じられた遊び」という映画のバックに流れる悲しいギター曲のメロディーを思い出してほしい。戦争のためたくさんの人々が死んでいくという状況のなかで、子どもがこっそり隠れて「お葬式ごっこ」をして遊んでいる。なんと悲しい光景だろうか?さすがですが、映画では大人はそんな遊びを禁じる。だから「禁じられた遊び」というタイトルなのだ。
日本の現代の子供達が、「禁じられた遊び」をする背景には、一体何があるのだろうか?