とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『ベケットと「いじめ」』別役実

2006年10月28日 10時23分23秒 | 読書感想
お久しぶりです。
 このところ、思春期の子供達の「いじめ」自殺が続いています。心が痛み、ずっと前に読みかじっていたこの本に再兆戦してみました。ところが、たいへんな苦戦となりまして、こんなに時間がかかってしまいました。

演劇には決して興味がないわけではないのですが、とりあえず急務としているのは「いじめ」自殺という社会現象をどう考えるかということでしたので、かなりのスペースを演劇、それも不条理劇を考察して今後どのような現代のドラマツルギーが可能かということを目指している本であるため、「いじめ」を不条理演劇とからめて考えねばならない混戦となりました。

不条理劇とはいかなるものかの説明は、分かりやすかったです。
「1950年代から不条理演劇というものが台頭してきて、日本には60年代に輸入された。不条理劇というものはドラマツルギーの内実を無視して、演劇についての意識過剰時代、演劇は何かということがそのまま演劇になった。ところが演劇というものは活気のある80%わけのわからない未解読部分が残っていて、われわれが盛んに討論したのは、せいぜい20%部分の演劇論だった」

1953年にフランスでベケットは「ゴドーを待ちながら」という不条理劇を初演していますが、私は、舞台は日本人のアマチュア劇団が行ったものを1回観たきり。あとは、ベケットは小難しい事ばかり言うおもしろくない人ということで、避けてきましたので、ほとんど知識はありません。が、論理的なので、何か重要な事を指摘しているのではないかと思わせる嫌な人です。(笑い)

「不条理演劇というものは、要するに可変的な、方法論化できる20%を極度に拡大した時代といえるでしょう。これは、個人という自覚というものから近代が開始されて、そのいわゆる近代的自我が、社会主義的な、個人の社会に対する効用というものに変容されて、一方逆にそこから自意識過剰時代にはいってゆく風潮と一脈通じるものがある。つまり不条理劇というものは、演劇意識過剰時代ということができる」

こういう、ところどころは良いのですが、何を言っているのか分からない部分が増えてきました。基本的に疑問なのは、フランスと日本という、「個人」に対する考えが180度ちがう国をごっちゃにして考えているところです。→苦闘の始まり。

かようにして、自意識過剰時代という時代の風潮、不条理劇と、「お葬式ごっこ」に一脈通じるところがあるという展開なのですが、非常に示唆に富む箇所も多かったのですが、やはりどうしても、歴史も風土も非常に異なる、フランスのベケットの悩みと、極めて日本的である「お葬式ごっこ」を対比して考えることに違和感が残りました。→疲労、極度に達する。

個人を、独立した完結した存在として是認し、自己主張し行動して社会に参画していく近代的「個」を大切にしてきた歴史を持つフランスにおいて、「個」の限界に絶望したベケットと、「場」に吸収され個人は「場」の「部品」として埋没し、言葉によって論理的に物事を追求していくことを「屁理屈」として信用せず、体感で「場」のメンバーの心の共有部分を最も尊重し、それを察しつつ行動することが美
徳とされ、完結した「個」として自己主張することが最も嫌われる(参照『空気の研究』山本七郎)日本の悩みとは、悩みが逆方向であるような気がするのです。

「お葬式ごっこ」とベケットを対比させた「関係が主役」という章に目を転じてみます。
「対人関係のメカニズムをとらえるのが演劇であり、愛しているとか、憎んでいるとかいう動力が働き、葛藤が生まれるとか、事態が展開されることになる。ドラマとはそういうものだ」→感心。

「かっては人間がいて、もう一人人間がいて、前述した動力が作用してそこでメカニズムが生じる、ある力学が生じるという形で対人関係ができたのですが、今日ではどうも人間がいる前に、関係のメカニズムがあって、それを確かめることによってむしろ人間が確かめられるという逆転現象、そういう形で人間をとらえなければ、ドラマツルギーは方法論化できなくなっている」

「これは言い方は変なのですが、人間が主役ではなくて、関係が主役で、関係のメカニズムを探ることによってかろうじて人間が確かめられるということです」

「近代以前のことを別にすれば「個」が主体であったが、今日では「関係」が主体になっている。」
「現在では、人間というのは「個」ではなくて「弧」であると考えることによって、むしろ人間性みたいなものが確かめられるようになった」→それはフランスの問題では?

「要するに人間というものは関係の存在である。「個」として存在していて、これが関係を形づくっていく。これが近代的な考え方だ。本来「個」というものが前提としてあって、「個」というのはそれ自体完結して独立した存在であって、それが、他と共同することによって関係ができあがった、こういう考え方だった」

ちょっとお待ちください。こんな歴史が、日本にかつてあったでしょうか?むしろ逆で、日本はずっと「関係」が主役」であって、人間は、自立した「個」になろうとすると潰されてきた。(参照『空気の研究』山本七郎)

私には、いくらベケットが限界を感じ絶望しても、それ自体で完結した独立した「個」が共同しているフランスで、「お葬式ごっこ」が起きることは、考えられないのです。

もし、「お葬式ごっこ」に居合わせたメンバーのうち、近代的「個」がまじっていれば、必ず、はっきりと「なにをやっているんだ。陰険なことはやめろ」と言葉と行動で止めたはずであると信じます。

「参加した級友たちは、一面では「ほんの冗談」にみえて、一面では「悪意ある企み」とみえるそれに対して統一して見通す視点を遂に持ち得なかった。」
「しかし「協力を依頼された人々だって、最初は気づかなかったけれども、作業が開始され写真が現れ、色紙があらわれ、線香までが現れたとなれば、どんなうかつな人間だって、それと察知するはずである。
しかし、たとえ察知していたとしても、それをおおやけのものにしたり、全員の了解事項とするわけにはいかない。察知することで彼は、「陰険な企み」の方に加担してしまうことになるからである。気づいていながら気づいていないふりをし、最初から最後まで「ほんの冗談」で押し通すことが、この場合のもっとも当たりさわりのない方法なのだ」
これですよ。これこそが、日本の現状の問題点であると思います!これが「お葬式ごっこ」「いじめ」の正体ではないでしょうか?

日本において、ベケットの絶望などをもちだしてくるのは、まだまだ先だとしか思えないのですよ。それよりも逆に、一刻も早く、日本人は、「場」に吸収されない、他と切り離された独立した近代的「個」になることが、急務であるように思うんです。

 「関係性」のなかでしか自分を確認できないのが現代であるというのは、どうしても理解できませんでした。日本ではずっとそうっだたとしか考えられませんから。これが、「冗談と片付けられ、担任教師と3人の教師も参加して級友達共々行われた「お葬式ごっこ」の構図と大変よく似ているとする指摘で、悪意の主体がないので鹿川君は戦うことができなかった」と、まあ、乱暴にくくれば戯曲家の視点からの解読を試みているのですが、......本当にそうでしょうか?

「お葬式ごっこ」に代表される集団いじめには主体がかけているというのは全くの間違いであると思います。必ず悪意をもった首謀者がいます。それを私は「いじめ」のボスと呼んでいるのですが巧みに姿と悪意・意図を隠し、実際に集団いじめを行使するのは、手下どもです。鹿川君の残した遺書を読むと、鹿川君は、AとBという悪意の主犯者、つまり主体をきちんと特定しているではないですか。しかも、「お葬式ごっこ」のあとで、この両者の名前を電信柱に貼り付けて告発していることが、この本によってわかりました。「お葬式ごっこ」が決して冗談でないこと、悪意に満ちた行為である事を、鹿川君は、しっかりと認識しています。鹿川君は優秀な人物であったことをうかがわせます。近頃は、「いじめ」の対象に優等生が標的にされることを何回か実際に聞いています。
担任の先生も、「お葬式ごっここ」のあと転校をすすめている。それくらい鹿川君の窮状は明白だったのだと推測します。

フランスと日本では、自我のありようが逆方向である(参照『レヴィ=ストロース講義』平凡社:未完読)という指摘もありますが、なにか、そちらのほうが気になる指摘なのです。

ええ~い、ベケットなんか、もうどうでも良い。ややこしい。
もし、この場に近代的「個」が入っていれば、必ずはっきりと「そんな陰険なことはやめろ」とはっきりと言葉と行動で止めたはずだと信じます。

そもそも、他としっかりと切り離され、自分の頭できちんと考える近代的「個」は、こんな集団行動は決して行わないと思います。

「いじめ」なんかで死ぬな!

「いじめ」なんかで死ぬな!「場」に負けない強い「個」になるのだ!「いじめ」なんかする人間の考え方が正しいかどうか、考えてみるんだ!いじめられても、誰も助けてくれないことは知ってるよ。そういう日本人の習性を情けなく思う。

ボスを見つけるんだ。そして自分で判断するんだ。相手は、正しい考え方をしているかどうかを。自分で考えるんだよ。そして相手にする価値があるかどうか決めるんだ。決めたら、あとは、二つに一つだ。相手にしないか、考え方がおかしいと思ったら徹底的に攻撃しておかしいということを主張するんだ。でも、だいたい真剣に相手にするような正しい考えがすぐに分かるような人はいない。いじわるな手下は、先生であろうが、クラスメートであろうが、自分で物を考えられない、何が正しいかも分からないし、自分一人のの考えで行動する勇気もない、一皮むけば弱虫達だと思わないかい?相手にしないんだよ。

「自分」が判断したことは、「一人天下」の真理だよ。それが自分にとって、「正しくて、重みのある」大切なものだ。死をかけて守るのは、それだよ。心のなかでは、ひ・と・りでいるんだ。ひ・と・り一派だよ。忘れるんじゃないよ。多数の人間が団子になった一派と、一人一派は、対等で同じ重さがあるんだよ。
戦争には戦術が大事だ。学校は時間がくれば解散してしまう仮の集団だ。必ず終わりがくるから安心して。でも正しい考え方が分からない人たちがあまりも多くて身の危険を感じたら、多勢に無勢では戦いにならなから、終わりを待たずに、逃げるんだよ。それを「逃げるが勝ち」って言うんだよ。

何処へ行っても、優しい人といじわるな人っているんだよ。
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