執行草舟の本に、「人はみな卑しさを持っている」って書いてあった。
「卑しい人」がいるのではない、みんなある程度「卑しい」んだよ、って文脈で。
あったり前のことなんだけど、これをしっかり踏まえて表現できる人は多くない。
みんな「中間的な」存在。
「勇気のある人」がいるのではない。誰にだって勇気はある。その程度が違うだけ。
「スケベな人」がいるのではない。誰にだってスケベ心はある。その程度が違うだけ。
心中の、醜いところ、弱い気持ち、情けない部分、恥ずかしい心根を、どう見せるか、って話。
上質な人間は、うまく痩せ我慢をし、それを他人に見せないことができる。
下等で未熟な人間は、それを覆い隠す術を知らないだけの話。
人間、誰だって、醜い。弱い。卑しい。情けない。下心ある。
それなのに、「アイツは⚪︎⚪︎だ!」とか「旧統一教会信者は△△だ!」と「レッテル貼り」をするのは良くない。紀藤正樹弁護士がその代表。
どんな人間も、中間的な存在。
どんな人間にも、いいところ、悪いところがある。
その解像度を高めずに、安易なレッテルを貼る。
これは文化文明の発展に逆行する行為。
だから私は紀藤正樹弁護士とか鈴木エイト・有田芳生・櫻井義秀氏らの「レッテル貼り」に強く抗議している。
解像度を上げること。
人間とその集団とその行動に対して、解像度を上げること。
「解像度を上げる」ってのは「レッテル貼り」の正反対。対極。
何事にも「解像度を上げる」。
これが知性と品性の為さしめるところ。