平成29年2月24日(金)
期待した赤富士(朝焼け)は雲に隠れて見ることができませんでした。それだけに何か損をした気分になりました。
朝食は『オールデイダイニング ザ・テラス』でバイキング・スタイル。小生は和食中心で頂きました。
*

*
部屋へ戻り、改めて富士山方面を見ると、雲の上に僅かに頭だけ出しており、何か申し訳なさそうな姿に見えました。
*

*
今日の予定は先ずホテルからバスで10分ほどの『久能山東照宮』へ。所々にある梅の花が目を楽しませてくれます。
バスの駐車場からは『日本平ロープウエイ』で下って行くとは知りませんでした。
海岸口からは1,159段の石段を上がることは聞いていたのですが…。
*

*
ローブウエイの久能山駅から階段を下ったところに『久能山東照宮』の社務所があり、ここから本殿まで階段を上がる
ことになります。
*

*
先ず最初の階段を見上げると『楼門』の赤い建物が目に入ります。
軒下中央に第108代後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われています。
中央の蟇股に獏の彫刻があり、表側左右の格子戸内に随身、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられています。
【久能山東照宮】
*

*
『楼門』を潜るとその先の階段を上がっところに『鳥居』見える。その奥には『唐門』があります。
この付近には紅梅が目につく。
唐門(重要文化財): 拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造の門です。
羽目板に唐獅子牡丹、黒松に鳥の透彫があります。
*

*
その階段を上がり『鳥居』を潜り、『唐門』の手前を右に行き『河津桜』の左手の階段を上がると『御社殿』の領域に
入ります。
*

*
御社殿
元和3年(1617)建立。本殿、石の間、拝殿の三棟からなる、いわゆる権現造の形式を持つ複合社殿で、江戸幕府大工
棟梁・中井大和守正清の代表的な遺構のひとつである。
江戸時代を通じて権現造社殿が全国的に普及する契機となった最古の東照宮建築として、平成22年国宝に指定された。
【久能山東照宮パンフ】
*
先ず『拝殿』で拝礼。ここには木彫りの葵の御紋に代々の徳川家の名前が刻まれていました。
*

*
拝殿から『本殿』方面を見る。『本殿』前に進んで改めて拝礼。
*

*

*
本殿の左手にある『廟門』の先に『神廟』(家康公の御遺骸を埋葬)があります。
廟門の先右手にある紅梅には[メジロ]が花密を吸いに飛び回っていました。
また本堂の左側にも見事な権現様式が目立っていました。
廟門(重要文化財): 以前は御宝塔御門と称えました。本殿の後方西側にあります。廟所に通ずる門です。
金地鳳凰牡丹の絵があります。
*

*
元へ戻り『唐門』にある彫刻を眺め、また楼門を見下ろしたりしました。
*

*
『楼門』まで戻ると家康公の手形があり、正面右には随身の木像がありました。
*

*
これで東照宮の拝観を終え、社務所前の展望所から見下ろすと、駿河湾から名物の『石垣苺』栽培のビニールハウスが
立ち並んでいるのが眺められました。
*

*
久能山東照宮
徳川家康公をご祭神としておまつりする全国東照宮の創祀です。
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末
戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、
文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、
三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
【本光国師日記】との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。
【久能山東照宮】
*
日本平ロープウェイで駐車場に戻り、バスは『静岡 I.C.』から東名高速道に入る。
冬型の天候で良く晴れていますが、何故か富士山には雲が纏わりついて眺めることができないのは残念だ。
途中『牧ノ原S.A.』でトイレ休憩の後『浜松西 I.C.』で一般道に降り、今日の昼食場所『うなぎ藤田』へと向かいまし
た。
*

*
浜名湖産の養殖鰻の活鰻専門の老舗とあって、待ち行列が出来ており、予約した我々も一階と二階に分かれて戴くこと
になりました。
席に落ち着くと間もなく『鰻重』とお吸い物が運ばれてくる。蓋を取ると鰻独特の香りが広がり、食欲を唆られます。
ひとくち口に入れると、とろけるような鰻が口の中に溢れる。秘伝のタレとマッチした味は申し分なく、アッという間
に胃の中に収めてしまいました。
*
うなぎ藤田
創業明治25年、四代続く浜松の老舗、浜松の地で”鰻”にこだわり、四代続く鰻専門店。
素材は浜名湖産養殖鰻を中心に、厳選した活鰻のみを使用。
開きたての鰻を素焼きし、じっくりと蒸す。そして代々受け継いだ秘伝のタレと、備長炭で一気に香ばしく焼き上げた
蒲焼はまさに絶品。 【うなぎ 藤田】
*
午後はこのツアーの別の意味での目玉、今年の大河ドラマで有名になった遠州は井伊家の菩提寺である『龍潭寺』の
見学となりました。
予定では明日行くことになっていましたが、土曜日のため混雑が予想されるので、急遽今日拝観することになりました
それにしても、NHKの大河ドラマの影響の大きいことに今更ながら驚かされます。
駐車場では平日にもかかわらず多くの観光バスが停まっていました。
*
龍潭寺(りょうたんじ) ・宗派 禅宗 臨済宗妙心寺派
*

*
① 山 門 ② 仁王門 ③ 庫 裡 ④ 本 堂 ⑤ 開山堂 ⑥ 萬松稲荷 ⑦ 井伊家霊屋 ⑧ 龍潭寺庭園
⑨ 客 殿 ⑩ 参拝者用トイレ ⑪ 売 店 ⑫ 鐘楼堂 ⑬ 井伊直虎・井伊家墓所
*
既に山門に向かう人の波が続いています。
山門を抜けると、古い石垣が残っていました。
*

*
『山門』白土塀の奥に四脚門造りの総門があり、七世・喝巌和尚建立の門で、巴瓦は室町期の古瓦とのこと。
*
『庫裏』が拝観受付所となっており、ここで拝観券を頂いて『本堂』へ。
本堂では履物を脱ぎ、ビニール袋に入れて持ち歩くことになる。
*

*
『本堂』延宝4年(1676)再建。大檀越 井伊直與公(27代)。当山七世喝岩和尚代。
本堂内の廊下は左甚五郎作、鴬張りの廊下とは知りませんでした。
*
本堂に入り先ず『釈迦如来坐像』を拝観する。丈六の仏で木彫寄木造り、身丈 2.80m(総丈台座共3.55m)、享保14年
(1729)建立。当山9世祖山和尚の時代。 お身体、お顔に残る傷跡は、 廃仏棄釈の際つけられた歴史的痕跡とのこと。
*

*
隣の部屋の『龍と虎』の襖絵も見応えがありました。
*

*
本堂の庭からは『仁王門』と『鐘楼』を見ることができます。
また左甚五郎作の『鶯張りの廊下』の奥には同じく左甚五郎作の『龍』が我々を見下ろしていました。
*

*
本堂の裏手に回ると『井伊家霊屋』があり、その右手には横位置ですが、小堀遠州作の庭園が見られます。
井伊家一千年の歴史を祀る霊屋は、臨済禅中興の祖と崇められる原の白隠禅師が落慶供養の導師をつとめたと記録され
ており、堂内には元祖共保公、二十二代直盛公、二十四代直政公の木像が安置されていました。
幕末の大老井伊直弼公の位牌もお祀りされています。
*

*
本堂の裏手に回り、折から解説が始まった小堀遠州作の庭園を縁側に腰掛けて、じっくりと拝見しました。
*

*
小堀遠州作・龍潭寺庭園は、江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園。
中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、更に池の型が心字池となっていて寺院庭園として代
表的な庭で、数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されているとのこと。
岩は、地元で産するチャート(通称山石)を使い、明るくすんだ庭となっており、春のさつき、秋の満天星(どうだ
ん)と四季折々の変化にも富み、昭和11年国指定名勝となりましたが、まさに東海一の名に恥じない名園とあります
最後に庫裏の横からも庭園を眺めました。
*

*
最後に仁王門としだれ梅を見て龍潭寺を後にしました。
*

*
龍潭寺(りょうたんじ)
静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町井伊谷にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。萬松山(ばんしょうざん)と号する。
本尊は虚空蔵菩薩。
733年(天平5)行基が開創し、八幡山地蔵寺と称したというが、1093年(寛治7)井伊家の元祖共保がこの寺に葬られ
てから同家の菩提寺となって安泰寺と改称。
1386年(元中3・至徳3)、井伊道政は後醍醐天皇の皇子宗良親王の追福のために冷湛寺(れいたんじ)と改めた。
天文年間(1532~55)井伊直盛(なおもり)が黙宗瑞淵(もくしゅうたんえん)を招いて中興開山とし、これより妙心寺派
の寺となった。
1560年(永禄3)井伊直盛が戦死すると、その子直親(なおちか)が父の法名をとって現在の山寺号となった。
代々井伊家の菩提寺として栄えた寺で、本堂は江戸初期の禅宗寺院方丈の形式を伝え、庭園は小堀遠州の作といわれ、
国名勝。
寺宝の『宋(そう)版錦繍(きんしゅう)万花谷(ばんかこく)』は国指定重要文化財。 【日本大百科全書】
*
一族存亡の危機にあった井伊家
天下統一を求めて、武将たちが群雄割拠した戦国時代。奥浜名湖の井伊谷(いいのや)を本拠としていた井伊家もまた
激動の世に翻弄される日々を送っていました。
周囲は、勢力拡大を目論む甲斐・信濃の武田、駿河・遠江の今川。井伊家は今川勢に服従していましたが、今川勢が
桶狭間の戦いで織田勢に思いがけず敗れると、井伊家は大混乱。
数々の策略や合戦により、跡取りとなるはずの男たちが次々と命を落とすという悲運に見舞われます。
そんな一族断絶の危機を救うために立ち上がったのが、女城主・井伊直虎です。
*
バスは渥美半島に入り『道の駅 田原』でトイレ休憩。
その後半島全体で行われている『菜の花まつり』のため、ところどころに見られる『菜の花』を楽しみながら、今日の
宿『角上楼』に到着しました。
*

*
昭和元年創業当時の趣を残しているという本館、フロントでお茶と旅館特製のお菓子を戴きました。
*

*
部屋で汗を流した後、待望の夕食『天然とらふぐ会席』は『鶴の間』で。
部屋には調理台が用意されており、角上楼のご主人は挨拶の後、伊良湖岬周辺の三河湾遠州灘一帯は、天然とらふぐの
漁獲高日本一を誇るといい、ここ角上楼では1kg以上の大きなふぐを用意していると説明された後、実際に薄造りを調
理される。
*

*
いよいよ『天然とらふぐ御膳(恵み)』が始まる。
先ず『御口取り』 : 日替わり旬の逸品・ふぐ寿司他
『御造』 : 天然とらふぐ薄造り(真皮、とおとみ、身皮、湯引)
*

*
ご主人が調理の際、とらふぐの小さな塊を試食しましたが、身が固くまるでチュウインガムを噛んでいるようで、
薄造りにするのはそのためだと言われたことを思い出しながら、薄造り二、三枚をもみじ醤油などに漬けて口の中へ。
身の締まった味はまさに絶品もので、『ひれ酒』の香りに合わせて戴きました。
*
『御造二』: 近海物
三河湾で獲れたもの
*

*
『焼物』 : 焼きふぐ
切り身を焜炉で焼きながら戴く。これはまた別の味で幾らでもお腹に入っていく。
*

*
続いての『鍋物』は、天然とらふぐ鍋チリ。ここまで来るとお腹も膨らんで、食べるスピードが落ちてくる。
*

*
最後は定番の『ふぐ雑炊』。これもお腹の中に収めることができました。
締めは『香物』。デザートはもちろん戴きました。
*

*
かくして充実した観光と美食に大満足の一日を過ごすことができました。
*
角上楼
三方を海に囲まれた愛知渥美半島。その中程に「和味の宿 角上楼」はあります。昭和の初めより花街として栄えた
この町も、時代の波に押され、当時の見る影もありません。
ただ「角上楼・本館」は、昭和元年創業当時の趣を今日に留めております。
今の時代が失ってしまった、あの懐かしい記憶の名残が…… 。
田舎家に漂うのんびりとした空気、何もしないでぼ~っとする縁側の片隅、久しぶりに帰った故郷の笑顔溢れる出迎え
日だまりに寝そべる猫 …… 。
当館は、大自然に囲まれたり、絶景が望めたり、温泉があったりというような環境にはありません。
華美なおもてなしや施設、娯楽などもありません。また、これといった観光地でもありません。
ただ、その懐かしい記憶に身をゆだね、美味しい肴と酒を味わい何もしない、何も急き立てられない時を忘れ、時を
楽しむ宿です。
心の片隅にあるノスタルジックに出逢う。館内各所に長年の時の流れを感じつつゆっくり、のんびり
「昔ながらの日本」をお楽しみください。 館主 上村 純士
*
9.00.日本平ホテル(浜松バス)→ 9.10.日本平ロープウエイ … 久能山東照宮 … 日本平ロープウエイ 10.20. →
10.45. 静岡 I.C. → 11.10. 牧ノ原 S.A. 11.25. → 12.00. 浜松西 I.C. → 12.10. うなぎ藤田(昼食)13.00. →
13.20. 龍潭寺14.15. → 14.30. 浜松いなさ I.C. → 14.45. 豊川 I.C. → 15.55. 道の駅 田原 16.10. →
16.40. 和味の宿・角上楼(翠上楼)泊 18.00. 夕食・鶴の間(天然とらふぐ会席)
期待した赤富士(朝焼け)は雲に隠れて見ることができませんでした。それだけに何か損をした気分になりました。
朝食は『オールデイダイニング ザ・テラス』でバイキング・スタイル。小生は和食中心で頂きました。
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部屋へ戻り、改めて富士山方面を見ると、雲の上に僅かに頭だけ出しており、何か申し訳なさそうな姿に見えました。
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今日の予定は先ずホテルからバスで10分ほどの『久能山東照宮』へ。所々にある梅の花が目を楽しませてくれます。
バスの駐車場からは『日本平ロープウエイ』で下って行くとは知りませんでした。
海岸口からは1,159段の石段を上がることは聞いていたのですが…。
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ローブウエイの久能山駅から階段を下ったところに『久能山東照宮』の社務所があり、ここから本殿まで階段を上がる
ことになります。
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先ず最初の階段を見上げると『楼門』の赤い建物が目に入ります。
軒下中央に第108代後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げてある為、「勅額御門」とも言われています。
中央の蟇股に獏の彫刻があり、表側左右の格子戸内に随身、裏側左右の金剛柵内に狛犬が据えられています。
【久能山東照宮】
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『楼門』を潜るとその先の階段を上がっところに『鳥居』見える。その奥には『唐門』があります。
この付近には紅梅が目につく。
唐門(重要文化財): 拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造の門です。
羽目板に唐獅子牡丹、黒松に鳥の透彫があります。
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その階段を上がり『鳥居』を潜り、『唐門』の手前を右に行き『河津桜』の左手の階段を上がると『御社殿』の領域に
入ります。
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御社殿
元和3年(1617)建立。本殿、石の間、拝殿の三棟からなる、いわゆる権現造の形式を持つ複合社殿で、江戸幕府大工
棟梁・中井大和守正清の代表的な遺構のひとつである。
江戸時代を通じて権現造社殿が全国的に普及する契機となった最古の東照宮建築として、平成22年国宝に指定された。
【久能山東照宮パンフ】
*
先ず『拝殿』で拝礼。ここには木彫りの葵の御紋に代々の徳川家の名前が刻まれていました。
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拝殿から『本殿』方面を見る。『本殿』前に進んで改めて拝礼。
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本殿の左手にある『廟門』の先に『神廟』(家康公の御遺骸を埋葬)があります。
廟門の先右手にある紅梅には[メジロ]が花密を吸いに飛び回っていました。
また本堂の左側にも見事な権現様式が目立っていました。
廟門(重要文化財): 以前は御宝塔御門と称えました。本殿の後方西側にあります。廟所に通ずる門です。
金地鳳凰牡丹の絵があります。
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元へ戻り『唐門』にある彫刻を眺め、また楼門を見下ろしたりしました。
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『楼門』まで戻ると家康公の手形があり、正面右には随身の木像がありました。
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これで東照宮の拝観を終え、社務所前の展望所から見下ろすと、駿河湾から名物の『石垣苺』栽培のビニールハウスが
立ち並んでいるのが眺められました。
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久能山東照宮
徳川家康公をご祭神としておまつりする全国東照宮の創祀です。
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末
戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、
文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、
三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
【本光国師日記】との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。
【久能山東照宮】
*
日本平ロープウェイで駐車場に戻り、バスは『静岡 I.C.』から東名高速道に入る。
冬型の天候で良く晴れていますが、何故か富士山には雲が纏わりついて眺めることができないのは残念だ。
途中『牧ノ原S.A.』でトイレ休憩の後『浜松西 I.C.』で一般道に降り、今日の昼食場所『うなぎ藤田』へと向かいまし
た。
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浜名湖産の養殖鰻の活鰻専門の老舗とあって、待ち行列が出来ており、予約した我々も一階と二階に分かれて戴くこと
になりました。
席に落ち着くと間もなく『鰻重』とお吸い物が運ばれてくる。蓋を取ると鰻独特の香りが広がり、食欲を唆られます。
ひとくち口に入れると、とろけるような鰻が口の中に溢れる。秘伝のタレとマッチした味は申し分なく、アッという間
に胃の中に収めてしまいました。
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うなぎ藤田
創業明治25年、四代続く浜松の老舗、浜松の地で”鰻”にこだわり、四代続く鰻専門店。
素材は浜名湖産養殖鰻を中心に、厳選した活鰻のみを使用。
開きたての鰻を素焼きし、じっくりと蒸す。そして代々受け継いだ秘伝のタレと、備長炭で一気に香ばしく焼き上げた
蒲焼はまさに絶品。 【うなぎ 藤田】
*
午後はこのツアーの別の意味での目玉、今年の大河ドラマで有名になった遠州は井伊家の菩提寺である『龍潭寺』の
見学となりました。
予定では明日行くことになっていましたが、土曜日のため混雑が予想されるので、急遽今日拝観することになりました
それにしても、NHKの大河ドラマの影響の大きいことに今更ながら驚かされます。
駐車場では平日にもかかわらず多くの観光バスが停まっていました。
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龍潭寺(りょうたんじ) ・宗派 禅宗 臨済宗妙心寺派
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① 山 門 ② 仁王門 ③ 庫 裡 ④ 本 堂 ⑤ 開山堂 ⑥ 萬松稲荷 ⑦ 井伊家霊屋 ⑧ 龍潭寺庭園
⑨ 客 殿 ⑩ 参拝者用トイレ ⑪ 売 店 ⑫ 鐘楼堂 ⑬ 井伊直虎・井伊家墓所
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既に山門に向かう人の波が続いています。
山門を抜けると、古い石垣が残っていました。
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『山門』白土塀の奥に四脚門造りの総門があり、七世・喝巌和尚建立の門で、巴瓦は室町期の古瓦とのこと。
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『庫裏』が拝観受付所となっており、ここで拝観券を頂いて『本堂』へ。
本堂では履物を脱ぎ、ビニール袋に入れて持ち歩くことになる。
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『本堂』延宝4年(1676)再建。大檀越 井伊直與公(27代)。当山七世喝岩和尚代。
本堂内の廊下は左甚五郎作、鴬張りの廊下とは知りませんでした。
*
本堂に入り先ず『釈迦如来坐像』を拝観する。丈六の仏で木彫寄木造り、身丈 2.80m(総丈台座共3.55m)、享保14年
(1729)建立。当山9世祖山和尚の時代。 お身体、お顔に残る傷跡は、 廃仏棄釈の際つけられた歴史的痕跡とのこと。
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隣の部屋の『龍と虎』の襖絵も見応えがありました。
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本堂の庭からは『仁王門』と『鐘楼』を見ることができます。
また左甚五郎作の『鶯張りの廊下』の奥には同じく左甚五郎作の『龍』が我々を見下ろしていました。
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本堂の裏手に回ると『井伊家霊屋』があり、その右手には横位置ですが、小堀遠州作の庭園が見られます。
井伊家一千年の歴史を祀る霊屋は、臨済禅中興の祖と崇められる原の白隠禅師が落慶供養の導師をつとめたと記録され
ており、堂内には元祖共保公、二十二代直盛公、二十四代直政公の木像が安置されていました。
幕末の大老井伊直弼公の位牌もお祀りされています。
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本堂の裏手に回り、折から解説が始まった小堀遠州作の庭園を縁側に腰掛けて、じっくりと拝見しました。
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小堀遠州作・龍潭寺庭園は、江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園。
中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(坐禅石)が配され、更に池の型が心字池となっていて寺院庭園として代
表的な庭で、数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されているとのこと。
岩は、地元で産するチャート(通称山石)を使い、明るくすんだ庭となっており、春のさつき、秋の満天星(どうだ
ん)と四季折々の変化にも富み、昭和11年国指定名勝となりましたが、まさに東海一の名に恥じない名園とあります
最後に庫裏の横からも庭園を眺めました。
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最後に仁王門としだれ梅を見て龍潭寺を後にしました。
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龍潭寺(りょうたんじ)
静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町井伊谷にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。萬松山(ばんしょうざん)と号する。
本尊は虚空蔵菩薩。
733年(天平5)行基が開創し、八幡山地蔵寺と称したというが、1093年(寛治7)井伊家の元祖共保がこの寺に葬られ
てから同家の菩提寺となって安泰寺と改称。
1386年(元中3・至徳3)、井伊道政は後醍醐天皇の皇子宗良親王の追福のために冷湛寺(れいたんじ)と改めた。
天文年間(1532~55)井伊直盛(なおもり)が黙宗瑞淵(もくしゅうたんえん)を招いて中興開山とし、これより妙心寺派
の寺となった。
1560年(永禄3)井伊直盛が戦死すると、その子直親(なおちか)が父の法名をとって現在の山寺号となった。
代々井伊家の菩提寺として栄えた寺で、本堂は江戸初期の禅宗寺院方丈の形式を伝え、庭園は小堀遠州の作といわれ、
国名勝。
寺宝の『宋(そう)版錦繍(きんしゅう)万花谷(ばんかこく)』は国指定重要文化財。 【日本大百科全書】
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一族存亡の危機にあった井伊家
天下統一を求めて、武将たちが群雄割拠した戦国時代。奥浜名湖の井伊谷(いいのや)を本拠としていた井伊家もまた
激動の世に翻弄される日々を送っていました。
周囲は、勢力拡大を目論む甲斐・信濃の武田、駿河・遠江の今川。井伊家は今川勢に服従していましたが、今川勢が
桶狭間の戦いで織田勢に思いがけず敗れると、井伊家は大混乱。
数々の策略や合戦により、跡取りとなるはずの男たちが次々と命を落とすという悲運に見舞われます。
そんな一族断絶の危機を救うために立ち上がったのが、女城主・井伊直虎です。
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バスは渥美半島に入り『道の駅 田原』でトイレ休憩。
その後半島全体で行われている『菜の花まつり』のため、ところどころに見られる『菜の花』を楽しみながら、今日の
宿『角上楼』に到着しました。
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昭和元年創業当時の趣を残しているという本館、フロントでお茶と旅館特製のお菓子を戴きました。
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部屋で汗を流した後、待望の夕食『天然とらふぐ会席』は『鶴の間』で。
部屋には調理台が用意されており、角上楼のご主人は挨拶の後、伊良湖岬周辺の三河湾遠州灘一帯は、天然とらふぐの
漁獲高日本一を誇るといい、ここ角上楼では1kg以上の大きなふぐを用意していると説明された後、実際に薄造りを調
理される。
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いよいよ『天然とらふぐ御膳(恵み)』が始まる。
先ず『御口取り』 : 日替わり旬の逸品・ふぐ寿司他
『御造』 : 天然とらふぐ薄造り(真皮、とおとみ、身皮、湯引)
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ご主人が調理の際、とらふぐの小さな塊を試食しましたが、身が固くまるでチュウインガムを噛んでいるようで、
薄造りにするのはそのためだと言われたことを思い出しながら、薄造り二、三枚をもみじ醤油などに漬けて口の中へ。
身の締まった味はまさに絶品もので、『ひれ酒』の香りに合わせて戴きました。
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『御造二』: 近海物
三河湾で獲れたもの
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『焼物』 : 焼きふぐ
切り身を焜炉で焼きながら戴く。これはまた別の味で幾らでもお腹に入っていく。
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続いての『鍋物』は、天然とらふぐ鍋チリ。ここまで来るとお腹も膨らんで、食べるスピードが落ちてくる。
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*
最後は定番の『ふぐ雑炊』。これもお腹の中に収めることができました。
締めは『香物』。デザートはもちろん戴きました。
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かくして充実した観光と美食に大満足の一日を過ごすことができました。
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角上楼
三方を海に囲まれた愛知渥美半島。その中程に「和味の宿 角上楼」はあります。昭和の初めより花街として栄えた
この町も、時代の波に押され、当時の見る影もありません。
ただ「角上楼・本館」は、昭和元年創業当時の趣を今日に留めております。
今の時代が失ってしまった、あの懐かしい記憶の名残が…… 。
田舎家に漂うのんびりとした空気、何もしないでぼ~っとする縁側の片隅、久しぶりに帰った故郷の笑顔溢れる出迎え
日だまりに寝そべる猫 …… 。
当館は、大自然に囲まれたり、絶景が望めたり、温泉があったりというような環境にはありません。
華美なおもてなしや施設、娯楽などもありません。また、これといった観光地でもありません。
ただ、その懐かしい記憶に身をゆだね、美味しい肴と酒を味わい何もしない、何も急き立てられない時を忘れ、時を
楽しむ宿です。
心の片隅にあるノスタルジックに出逢う。館内各所に長年の時の流れを感じつつゆっくり、のんびり
「昔ながらの日本」をお楽しみください。 館主 上村 純士
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9.00.日本平ホテル(浜松バス)→ 9.10.日本平ロープウエイ … 久能山東照宮 … 日本平ロープウエイ 10.20. →
10.45. 静岡 I.C. → 11.10. 牧ノ原 S.A. 11.25. → 12.00. 浜松西 I.C. → 12.10. うなぎ藤田(昼食)13.00. →
13.20. 龍潭寺14.15. → 14.30. 浜松いなさ I.C. → 14.45. 豊川 I.C. → 15.55. 道の駅 田原 16.10. →
16.40. 和味の宿・角上楼(翠上楼)泊 18.00. 夕食・鶴の間(天然とらふぐ会席)
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