https://www.youtube.com/watch?v=83PBdporVb8&t=1120s
https://realsound.jp/movie/2021/05/post-756745.html
社会学者・宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の『宮台真司の月刊映画時評』などに掲載した映画評に大幅な加筆・再構成を行い、書籍化した映画批評集『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』が、リアルサウンド運営元のblueprintより刊行された。同書では、『寝ても覚めても』、『万引き家族』、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』、Netflixオリジナルシリーズ『呪怨・呪いの家』など、2011年から2020年に公開・配信された作品を中心に取り上げながら、コロナ禍における「社会の自明性の崩壊」を見通す評論集となっている。
このたびリアルサウンド映画部では、著書の宮台真司にインタビューを行った。前作『正義から享楽へ』発表直後に誕生した米トランプ政権に対する評価から、「存在論的転回の再考」に至った学問的経緯、さらに映画批評へと本格復帰を果たすまでの思想的変遷について、たっぷりと語ってもらった。(編集部)
「自分は楽天的すぎたかもしれない」
ーー前作となる映画評論集『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』から4年余り。本書で宮台さんは、前作を出してからしばらく映画批評から離れていた時期があった、とお書きになっています。
宮台真司(以下、宮台):一口で言うと、前作を上梓した直後から、自分は楽天的すぎたかもしれないと強く反省したんです。僕の映画評はその時々のゼミの内容に対応していますが、それまでのゼミでは、人類学をメインに据え、進化心理学・分子考古学・政治学・経済学などで補いながら、次のように語っていたんです。
僕らの社会は<交換>で成り立っているが、古い社会では<贈与>だった。少なくとも起点に<贈与>があったと意識されていた。でも僕らはそれを忘れた。そのことがあらゆる不安とそれによる「感情の劣化」の源泉だ。だから「感情の劣化」からの回復の手がかりを<贈与>の記憶の回復に探ろうーー。
でも、2017年以降、それは楽観的だと思うようになりました。前著『正義から享楽へ』ではトランプ当選の待望を公言していました。人々は問題を民主政の故障に求めていますが、むしろ民主政の作動に問題はなく、人々の「感情の劣化」を正確に映し出した結果なのであって、「感情の劣化」への気付きをもたらすにはトランプ当選がベストだと思ったんです。
そこには「人々が気付くだろう」という楽天的な前提がありました。たぶん希望を事実と取り違えたんですね。人間にはよくあることです(笑)。むしろ人々の大半は永久に気付かないだろうと思い直すようになりました。ピーター・ティールやニック・ランド流の加速主義を知ったのが契機です。ゼミでも徹底的に何度も議論してきました。
加速主義の思想自体は、戦間期のアントニオ・グラムシやローザ・ルクセンブルクの焼き直しに、学園闘争時代のヘルベルト・マルクーゼのテクノロジズムをまぶしただけの、実に凡庸なものです。しかもルーツに触れてもいないという御粗末さ。でも問題はそこじゃない。なぜ戦間期マルクス主義の劣化版が今登場するのか。そこに最大の問題があります。
民主政は民主政以前的な前提としての「感情の豊かさ」ーージャン・ジャック・ルソーのピティエーーを要求するから、「豊かさ」を支えた特殊な前提を二度と再現できない以上、民主政は出鱈目な決定を出力し続けるしかない。この彼らの診断は正確です。だから「制度による変革」ならぬ「テックによる変革」希望を託し、自分たちはテックテザイナーになるーー。
具体的には、ゲーミフィケーションとドラッグが産み出す幸せ感euphoriaがあれば、感情が劣化したクズどもへの再配分を含めた、馬鹿げた「制度による変革」を、キャンセルできるだろうと。これは晩期マルクーゼの「本来の人間を回復するのためのテック」という思考に内在する弱点ーー誰がテックをデザインするのかーーに正確に対応しています。
豊富なデータと進化心理学をベースにしたアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』は、日本語版の副題「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」が示すようにデザイナーとユーザーの情報非対称性を問題にします。デザイナーは知るがユーザーは知らないという非対称性を放置したままデザイナーにテックを預けるのは、馬鹿正直過ぎます。
でも、テック化それ自体に反対するのは、人類史を無視した暴論です。「人間中心主義の非人間性」を支援する悪いテックと、「脱人間中心主義の人間性」を支援する良いテックを識別し、テックデザイナー(の卵)らに訴えるのが現実的です。そこで「存在論的転回」という問題を徹底的に考え直さなければならないと思うようになった、という訳ですね。
先の二項図式を「世界から閉ざされたテック」と「世界へと開かれたテック」とパラフレーズできます。「世界から閉ざされることは、社会に閉じ込められること」です。ここで世界とは「あらゆる全体」で、社会とは「ありうるコミュニケーションの全体」。さて、なぜ世界から閉ざされること=社会へと閉ざされることは、いけないのか。単なる僕の好みか。
2017年に反省した僕は、それをちゃんと語っていなかったなと思い至り、語彙を揃えるべく、第一次の存在論的転回を駆動したハイデガーと、第二次の存在論的転回を駆動したラトゥール、スペルベル、コーン、デカストロを学び直そうと思って、連載を休止しました。僕の問題意識は、なぜ存在論ontologyへの回帰が重要か、と言い直すこともできます。
この問題意識は、僕の考えでは、斉藤幸平『人新世の資本論』がマルクスを借りて語る「資本化して構わないもの/資本化してはいけないもの」の識別に関連します。従って、思弁的実在論 ーー第二次存在論的転回の哲学版ーーが重視する大絶滅問題にも関連します。だからゼミでは量子物理学の多世界論や宇宙物理学の多宇宙論まで扱うようになったんです。
つまり従来と違って「社会から世界へ」と推奨するだけじゃなく、1.世界とはそもそも「何」か、2.なぜ世界へと開かれることがなぜ「良い」か、3.何が世界への開かれを阻害して社会への閉じ込めをもたらすか、を記述するという目標を立て、<閉ざされ>と<開かれ>というキーワードを持ち込み、映画を通じて<開かれ>のクオリア(後述)を語ろうとしました。
ーーあらためて、「映画を通じて語る」意味とは。
宮台:僕が『サイファ』(2000年)以降映画評を始めた理由は、学問的枠組で語れないことがあまりにも多いからです。例えば、倫理を学問で基礎付けるのは困難でも、クオリアに照らせば自明です。この「クオリア>基礎付け」図式を最初に提案したのが、フリッパ・フットが考えたトロッコ問題をベースに「感情の越えられない壁」を持ちだしたマーク・ハウザーです。
マイケル・サンデル『白熱教室』がハウザーに則るのは「クオリア>基礎付け」だからです。クオリアを体験質と訳します。クオリア問題とは「僕とあなたが同じ夕日を見て赤いねと頷き合ったとして、体験しているのは同じ赤か」という問題です。自然主義(科学)的には赤の同じさを証明できませんが、意味論(言語ゲーム論)的には同じ赤を前提とします。実は体験質が鍵です。
難しい話をしていません。若い世代にレクチャーすると「うんうん」と頷きつつ聞いてくれても「本当に分かってるのか」と思うことが多い(笑)。試しに「理屈は分かるか」と尋ねると首を縦に振りますが「実感で納得できるか」と尋ねると横に振る。これは重大です。だから、僕の郊外論の語りを、60年代や80年代の映画から得られる体験質で補強するようにしました。
話はそこで済みません。シニフィアン・シニフィエの二項図式を批判し、記号は引き金だとして解釈装置を重視する三項図式(対象・記号・解釈装置)を提唱する生物学者ジェスパー・ホフマイヤーを待つまでもなく、映画体験の情報量は、映画の情報量より膨大ですが、僕が同世代の監督の作品を観た時の体験情報量より、若い学生の体験情報量は少ない。
この例は単純化してあるものの、先のクオリア問題の系です。であれば、このクオリア問題は全てのコミュニケーションに付き物です。つまり、遠く離れた時代の文書(源氏物語など)が本当に分かるのか(ガダマー)、全く異文化の人の語りが本当に分かるのか(テイラー)といった解釈学的問題が、僕とあなたのコミュニケーションにも「常に既に」あることになります。
音楽での経験を話します。佐藤伸治(フィッシュマンズ)が1999年3月に亡くなり、くるりが2002年2月に「ワールズエンド・スーパーノヴァ」を出した時、僕は岸田繁(くるり)の佐藤へのオマージュだと思いました。バックビート云々の歌詞の本歌取りもあるけど、渋谷に徒歩20分という佐藤のプライベートスタジオの近所(世田谷)に長年住んだ僕の体験質が前提になります。
本書にある通り渋谷は96年に冷えました。同年の佐藤の『空中キャンプ』における「現実を夢のように生きる」夜の闇モチーフはその絶望を歌うものです。それが97年『宇宙 日本 世田谷』では朝の光モチーフに変わり、逆説的に絶望の深化を感じました。朝は光に満ちてどこかに行けそうで、どこへもいけない。だから、ここを無理に読み替えるしかないーー。
「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の、どこまでも行けるという歌詞を聴いた瞬間、どこにも行けないことの反語表現に打ちのめされました。それを多数の学生に話すと、大抵が考え過ぎだとの反応でした。すぐ岸田自ら監督したMVを見せました。夜のとばりから、絶望の朝へ、再び夜へという構成で、全員が納得しました。さてこの逸話は何を意味するか。
MVの文脈補完機能を肯定したいんじゃなく、体験質による体験質の補完機能という普遍的摂理を肯定したいんです。言葉だけじゃ伝わらない。だから音楽を聴かせる。でも音楽だけじゃ伝わらない。だから映像を見せる。そんな営みを反復することで漸く、僕らは表現者の世界体験(世界をそもそもどうなっていると体験していたか)にアクセスできるんです。
解釈学の言い方だと、異なる時代や文化に跨がった異なる個体同士の「地平の融合」を図る営みです。BよりもAがいい、<閉ざされ>よりも<開かれ>がいい、という命題は、それを語るだけでは伝わらず、コンテンツを見せて初めて少し伝わり、更に他のコンテンツを見せてもっと伝わります。この経験的摂理を、本書の元になる連載では常に意識しました。
「監督がそもそも世界はどうなっていると感じているか」
ーー理屈ではわかっても、クオリア=体験質が分からなければ身に入っていかない。読者に対する、いわば教育的な狙いも本書にはあるということですね。
宮台:はい。理屈が分かっても「分からない」。物語は分かっても「分からない」。何が「分からない」のかという問題です。理屈を体験質で補完し、その体験質を体験質で補完するという営みを、僕らはやってきていない。そうして継承線を蔑ろにしながらバラード問題(未来の社会の良し悪しを未来人ならぬ現在人は論じられない)を語ることは倫理的に許されません。
同じことを表現者に向けて語ることにも意味があります。若い世代が世界観より物語に反応しがちだという劣化傾向はそれとして、自分が伝えたい言葉にならない何かが、伝わる人と伝わらない人がいるのはなぜか。娯楽であれ芸術であれ、「伝わる人への迎合」を退け、「伝わらない人に伝える」工夫をすべきで、そこに体験質の理論が役立つと思っています。
ーー近年、宮台さんによる「体験質の体験質による補完」が有効になるタイプの映画が増えている、ともいえますか?
宮台:映画だけじゃありません。先に挙げた、学問的蓄積をベースにした『スマホ脳』も、社会(制度)が間違っているんじゃなく、人(生き方)が間違っているのだ、という気持ちを体験させます。市場の廃絶は永久に不可能なので、何をどこまで資本化するかを含めて、市場で何を買うか、何を市場で売るか、という人による選択が重要になるからです。
人が何を選択できるかは、選択で人が何を体験できるかという体験質に依存します。体験質が劣化すれば、バラード問題が暗喩するように「未来は何でもあり」になります。映画に限らず音楽や小説や学問を含めた表現者の多くが、その事実に気付き始めたのでしょう。日本映画にはそうした表現者が少なく、観客迎合的なものが専らです。日本の人と社会の劣化を物語ります。
ーー宮台さんの解説が映画の見方自体に影響を与えるという点で、本書に収録されている『TENET テネット』に関する対談は好例ですね。『テネット』が決定論的な世界観を前提とした作品であると指摘した上で、クリストファー・ノーラン監督の狙いを深く読み解いています。
宮台:『テネット』は考察サイトが多数あり、最近は『進撃の巨人』もそうですが、作品が好きになった人の大半は、何が何とどう整合しているかという細かい部分が気になり、その解読に意識の全てを使います。人の摂理だと言えるけど(笑)、一流の表現者にとってそれは釣りで、なぜあなたはこの映画が好きになったのかを考えてほしいと思っているはずです。
あとがきで書きましたが、若い世代が物語=辻褄に専ら反応するのは、明白な劣化です。ノーラン監督はそういう風に作っていない。物理学的オカズは、物語が物理学と整合することじゃなく、むしろ現代物理学に反する決定論的世界を際立たせるものです。その上で、なぜあり得ない設定が選ばれているのかに、注意を向けさせようとしていることが重要です。
だから、単に「面白いな」じゃなくーーそれで辻褄合わせに勤しむんじゃなくーー、もう一段抽象度を上げて「なぜ面白いのか」に注目し、映画体験を通じて監督が観客に与えようとしている体験質を意識化し、監督がそうした体験質の贈与を企図する背後にある「監督がそもそも世界はどうなっていると感じているか」という体験質まで受け取ることが必要なんです。
大入りの映画なのに、どうしてそれがいい映画なのかを観客が分かっていない、という日本で目立つ問題は、提灯持ちはいても批評論壇が不在であることにも関係しています。ネタバレ禁止というのが典型で、先ほどの物語至上主義を象徴します。「受け取れなかった体験質を受け取れるようにする営み」にこそ注力すべきです。そこから傑作と駄作を識別できます。
ーーなるほど。『テネット』については多くの人が謎解きで盛り上がっていましたが、宮台さんはこれに対して「学問を装った謎解きに意味はない」「本作を観て受け止めるべきなのは、この反学問的世界観が、僕らに何を訴えるために選択されたのかということだ」と明確に論じています。そして、そこから見えてくることが実はあるのだと。
宮台:そうです。確かにおかしな設定で(笑)、ファンは一生懸命物理学と整合しているということを言おうとするのですが、少しでも知識があれば一瞬でそれは不可能だということが分かります。もう少し詳しく言えば、途中までは整合していることで、逆にどこからが整合していないのかがハッキリ分かるようにノーランは作っているんですね。それが決定論という仮説です。
ーー本書の前書きに「目的論的な書き方はなんら誤記ではない」とありますが、これもノーランの構えと通じる面がありますね。目的論に関する議論には、宮台さんの新しい展開という印象を抱きましたが、いかがでしょうか。
宮台:鋭い御指摘です。「世界がなぜ存在するのか」ということを理解するには、最終的には目的論しかないというのが僕の考えです。凡庸な目的論は、世界の中の物語的エピソードについてそれぞれ「決定されている」という風に考えてしまいます。問題はむしろ逆で、至るところに非決定論的な偶然が山のようにある世界が、なぜあるのか、ということです。
クリスチャンとして言うならこういうことです。全能の神がなぜ、不完全であるゆえに予測不能な人間を、作ったのか。不完全な人間の行動は、全能の神から見ても予測不能です。じゃあ全能じゃないじゃないか。違います。全能の神だからこそ、不完全であるがゆえに予測不能なことをする人間を作れた。旧約聖書を書いた人々はそれがよく分かっていました。
聖書学で言うのは、エデンの園の蛇とは何なのか、です。神は全能なので、エデンの園の蛇は神によって意図された存在です。まさに不完全な存在としての人間を作り出すために、全能の神から派遣されたんです。最も進んだ聖書学ではそう考えます。「至るところに非決定論的な偶然が山のようにある世界が、なぜあるのか」という問題はその話によく似ているでしょう。
ーーそうした世界像は、宮台さんのなかでいつ生まれたのでしょうか?
宮台:20年前に鬱から明けた頃にはまだなかった。2005年から旧約に詳しい司祭と旧約聖書の読書会をやって、5年かけて「言葉の上」での理解を彫琢しました。でもそれが徐々に体験質として腑に落ちるようになったのは、長年続けてきた映画批評の御蔭です。「なぜ世界はあるのか」という問いを抱えて映画を見続けました。出鱈目なナンパ時代の記憶が手掛かりになりました。
本書で言えば『シン・レッド・ライン』『トロピカル・マラディ』『テネット』のような映画や『進撃の巨人』のような漫画を批評する営みを通じて体験質を獲得していきました。しばらく映画批評から離れたのは、体験質を説明する語彙が足りない気がしたからです。ゼミで存在論をテーマにし、激しく読書して、語彙が一通り揃ったので連載を再開しました。
「映画体験を論じることは、自らの世界体験の体験質を確定していくこと」
ーークリスチャンとして、というお話もありましたが、この本を読むと、近年の映画を読み解く上で、また宮台さんのお考えを探る上で、キリスト教や聖書への理解が必要だと感じます。
宮台:なるほど。日本の宗教性は「御利益信仰」で、神様たちは「役に立つお友達」に過ぎません。旧約聖書でエロヒムと呼ばれるものです。それでは存在論に繋がりません。だからそこから完全に離脱する必要があります。でもそうすると、オウム信者に代表されるように「ここはどこ?私は誰?」という未規定性を埋め合わせてくれる宗教を、想定しがちです。
絶対の概念が考え抜かれていないからです。未来の不確実性を埋め合わせるのが「御利益祈願系」で、存在の未規定性を埋め合わせるのが「意味追求系」です。後者は大抵、未規定性は修行で埋められるとする「修養系」と、未規定性は神が与えた使命で埋め合わされるとする「黙示録系」に分岐します。でも絶対の概念を考え抜けば、埋め合わせはあり得ません。
不確実性と未規定性こそが絶対です。だから、世界の中にいるエロヒムとは別に、世界の外にある言語化も図像化もできない何か(ヤハウエ)が持ち出されます。この思考を突き詰めると、自動的に汎神論(インテリジェント宇宙論)かグノーシズム(内部表現論)に近づきます。実際に分派が生じました。表象不可能なものを表象したがるがゆえの帰結です。
キリスト教研究に勤しんだ晩期ユングはイエスの言説を内部表現論だと理解します。神もエロヒムも聖霊も悪魔も内部表現に過ぎないとの理解です。それに従えば所謂グノーシズムも内部表現に過ぎません。こうした逆説に敏感な汎内部表現論を僕は<原グノーシズム>と呼びます。そこまで絶対を追求すると、イエスとブッダは近い存在にならざるを得ません。
ちなみに内部表現論は、人の世界体験の全てを社会システム(社会)と心的システム(人格)に媒介された内部表現だと理解する枠組です。これは世界体験の外に未規定な世界が在るとする存在論です。他方、汎神論は、世界の存在そのものを神と同置するスピノザ的なもので、科学に通暁した人が受容しやすい存在論です。いずれも修養系と黙示録系を徹底的に否定します。
僕の立場は、こうした思考の歴史が織り成すアレゴリーーー瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座(ベンヤミン)ーーに身を委ねよというものです。世界は全体なのでシンボルで指示できないからです。するとやっと奇蹟への<開かれ>が得られます。15年程前にこうした思考が形を取り始めた頃に、旧約聖書に詳しい司祭と二人で旧約聖書の読書会を始めたという訳です。
東京カトリック教区の80歳代の方ですが、読書会をする以上は本当に思うことを言わなければと思い、神父様が教会で仰言ることは信者向けのソレとして、僕は本当はこういうことだと理解すると長い読書会を通じて言い続けました。すると、ほぼ貴兄の言う通りだと仰言っていただいた上、読書会の終了時に洗礼と堅信を受けて信者になれと勧められました。
虚を突かれた僕が「自分は長年ナンパ師のクズで、資格がありません」と言うと、「貴兄も御存知の通り、イエスは何かの道徳を推奨したことはなく、道徳主義的な歪曲は、道徳に従うのが容易な上流に媚びて布教する戦略に淵源する」と返された。かくてクリスチャンになりましたが、そんな経緯もあり、僕の理解はそんなに間違っていないと思います。
ーー聖書学の先端的な部分においては、宮台さんの考えとかなりクロスする面があると。
宮台:はい。僕の考えでは、新約と旧約の聖書を血肉化するとは、イエス言行録を核とする新約聖書を読む際、イエスが自らをパリサイ派ユダヤ教徒だと自己規定していた事実を、イエスが誰より通暁していた旧約聖書と、イエスが置かれた当時の歴史的文脈から読み解くことです。その意味で、キリスト教理解の99%は実証的歴史学の方法によって進められます。
より正確には、僕が映画批評で用いている「歴史的文脈がどんな体験を可能にしたか、体験からどんな歴史的文脈が浮かび上がるか」を究明するという実存批評の方法で、信仰抜きに進められるんです。ただ最後の1%だけ、ある種のジャンプが必要です。そのジャンプを与えるものを「啓示」と呼びます。その啓示は、多くは奇蹟の体験によって与えられます。
ーーその1%というのは、映画にも関わることですか?
宮台:そうだと答えると本書が宗教書のニュアンスを帯びるので保留しましょうか(笑)。ただ、イエスは32歳頃の1年間しか活動していないのに全世界の歴史が全面的に変わった。これほど特異なパーソンはイエスを除けば歴史に存在しません。イエスがいなければ近代社会も近代人も僕の批評もあり得ません。それをどう理解するのかが最後1%に関わります。
それを世界が存在することの目的的な福音と感じるかどうか。僕にとってはなぜ世界かあるのかという問いと同じです。無数のパラレルワールドがあるとする多宇宙論に立つにせよ、無数のパラレルワールドがあるような世界がなぜあるのかと問いに先送りされるだけ。先送りをやめた時、窮極の目的論が出現する。そこを描く映画はないので、本書は最後1%には触れません。
でも『テネット』は微妙です。この作品は「世界がこのように作られるべき必然はなかった」というところに反実仮想を持ち込み、「世界が別の摂理で成り立っていたらどうか」を問います。聖書学で言う「創造の偶発性」で、窮極の目的論=創造者に関わる問いを開いています。むろんノーランは意識していますが、観客がそれに気付くかどうかは別問題です。
ーー十全に表現しきっていない、ということですか。
宮台:創造の偶発性について、そもそも十全に表現する必要があるのかどうか。そもそも十全な表現などあり得るのだろうか。それを考えてみて下さい。十全に表現すれば、必ず既に述べた逆説に填まります。その意味で、あそこまでの表現以上のことは、監督が賢明であれば、絶対にできないはずです。むろんクリストファー・ノーランは賢明な監督です(笑)。
ーーあらためて、宮台さんにとって本書はどう位置付けられる一冊でしょうか?
宮台:僕にとって映画体験を論じることは、自らの世界体験の体験質を確定していくことです。そのことで、本で学んでもピンとこなかったーー理解できても響かないーー理論や概念が、不意に響き始めることがあります。それまで「ハイデガーはこう考えている」という理屈しか分からなかったのが「彼がどんな体験質を言葉にしたか」が分かるようになります。
すると体験質を伴って使える概念的図式が揃い、言葉にできなかった映画体験を言葉にできます。映画体験が体験質を伴う言葉を与え、体験質を伴う言葉が映画体験を支える、という循環。本書はそのスパイラルがよく回っています。「社会から世界へ、世界から社会へ」という従来の僕の映画批評のモチーフに、体験質の肉付けを与えてバージョンアップした形です。
■書籍情報
『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』
著者:宮台真司
発売中
ISBN 978-4-909852-09-0 C0074
仕様:四六判/424ページ
定価:2,970円(本体2,700円+税)
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/