ユングとスピリチュアル

ユング心理学について。

立ち上がる選択 性暴力被害者と支援者のために

2021-05-09 17:45:09 | 心理学

https://peatix.com/event/1876710/view?kme=boost-event-reco-mail&km_boost-event-reco-mail-id=boost-event-reco-mail_7350&km_boost-event-reco-mail-event-id=1876710&utm_source=boost-event-reco-mail&utm_medium=email&utm_content=boost-event-reco-mail-event_1876710&utm_campaign=boost-event-reco-mail_7350

フォトジャーナリスト・大藪順子(のりこ)氏によるオンラインセミナー・研修会

性暴力は子どもから大人まで身近に存在します。しかし、日本ではなかなか周囲に相談できず、被害届も出しにくい状況が続いています。その為、遭ったことが無かったことになり、犯罪件数にはカウントされないのが現実です。3年前の法改正により、被害者が告訴しなくても、検察は事件を起訴できるようになりました(非親告罪)が、今でも「実態が反映されていない」等、多くの課題を残しています。

そこで、今回は、ご自身も性暴力被害当事者である大藪順子さんに、ご自身の体験を通して知ることになった全米の性被害の実態や法的支援などを通してどのように心の回復を遂げたのか、そして、アメリカの現状を対比させつつ、日本に必要な制度施作や法改正と支援策等について語っていただき、共に学びの時を共有したいと思います。
貴重な講演となりますので、年齢や職業、性別などを問わず多くの方々のご参加をお待ちしています。

【大藪順子氏プロフイール】米国の新聞社で専属フォトジャーナリストとして勤務する傍ら、写真プロジェクト 「STAND:性暴力サバイバー達」で約80人の性暴力被害者を取材撮影。 このプロジェクトは発表と同時にアメリカでTVドキュメンタリーとなって 反響を呼び、全米各地で展示会と講演会を展開するようになる。 2006年より日本でも性暴力被害者に対する社会的意識改善のため活動する。 2007年著書「STAND 立ち上がる選択」出版。 現在フリージャーナリストとして執筆や編集を行う。 全米報道写真家協会より数々受賞他、ワシントンDCより ビジョナリーアワード(2002年)、やよりジャーナリスト賞(2008年)、 シカゴ母校より卒業生賞(2011年)受賞。 2018年団体Picture This Japanを設立。社会的弱者と呼ばれる人たちが自ら写し、 彼等の世界を内側から伝えるプロジェクトを企画運営する。

【開催日時】2021年5月15日(土)15:00~17:00
(締切5月13日)
【タイムテーブル】
15:00~16:25セミナー
15:25~16:35休憩
16:35~17:00質疑応答

 Zoom配信となりますので、Zoomで視聴できる環境をご準備ください。

【定員】200名(先着順)
【参加費】2,200円(但し、学生は無料としますので、氏名、学校名、学年、メールアドレスを明記の上、主催者に直接メールで申し込んでください。)

【主催者】(一社)人権問題研究協議会 事務局   E-mail: info@humanrights-ra.com     
【共催者】(公財)日本キリスト教婦人矯風会
【後援】 日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士協会、東京公認心理師協会

主催者からのおすすめポイント


1.アメリカの性暴力の実態について知りたい方

2.アメリカの性犯罪者に対する処罰規定、犯罪要件などについて知りたい方

3.加害者及び被害者に対する制度施策、公的支援などについて知りたい方


参加するメリット

1.被害者の回復に必要なことが学べます。

2.海外の実態を知ることで日本の性犯罪者対策や被害者支援に何が必要かを学ぶことが出来ます。

3.再犯予防策について学ぶことができます。

4.日本の性犯罪関連法などの問題点を学ぶことが出来ます。

5.その他あなたの知りたいことが多く学べます。


人間は自分の人生の意味を問うべきではなく、問われているのは自分自身である

2021-05-09 16:31:46 | 心理学

究極的には、人間は自分の人生の意味を問うべきではなく、問われているのは自分自身であることを認識しなければならない。一言で言えば、人間はそれぞれ人生に問われており、自分の人生に答えることでしか人生に答えることはできない。
- ヴィクトル・フランクル(精神科医・哲学者)(1905-1997年

この言葉は、私が "mon ami "(私の友人)であるジャン・フランソワと議論した内容を反映しています。英語では "Consciousness "と "Conscience "(意識)という言葉があります。これらは互いに区別されています。しかし、フランス語では、両方の概念が「La Conscience」(意識)という同じ単語で表されます。私たちの「良心」は、私たちが共有している一つの「普遍的な意識」への招待状であると言えるのではないでしょうか。現代社会では、この「良心」の多くが脇に追いやられているような気がします。もしかすると、この「良心」の脇にあるものこそが、私たちの本当の姿である、すべての生き物と共有する一つの「普遍的な意識」を実現するための最大の障害なのかもしれません。私たちは、"良心 "を持たない "純粋な意識 "としての自分を知ることができるのでしょうか?

Ultimately, man should not ask what the meaning of his life is, but rather must recognize that it is he who is asked. In a word, each man is questioned by life, and he can only answer to life by answering for his own life; to life, he can only respond by being responsible.
— VICTOR FRANKL, Psychiatrist & philosopher (1905-1997)
 
This quote reflects a discussion I had with "mon ami" Jean-Francois. In English, we have the words "Consciousness" and "Conscience." They are distinguished from each other. But in French, both concepts are represented by the same word, " La Conscience." Is it possible that our Conscience is our invitation to the one Universal Consciousness that we all share? It seems to me that in our modern society, we have put much of our "Conscience" aside. Perhaps this setting aside is the biggest block to realizing our true identity as the one universal consciousness we share with all sentient beings. Can we know ourselves as "Pure Consciousness" without "Conscience?"

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

ヴィクトール・フランクル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB

 

私が何者であったかは、今では歴史となっています。私はずっと前に自己同一性を失った。今、私は自分が何であったか、何になろうとしているのか、何になるのかを覚えています。

Who I was, is now, history. I killed my self-identity a long time ago. Now, I remember what I was and what I am becoming and what I will become.

 

A
誰かではなく、何か。
このような主観的な自己の知識が[意味するところは]です。"自分が誰であるかではなく、何であるか、何に依存しているのか、誰のものなのか(誰に、何に属しているのか)、何のために作られたのかを知らなければ、誰も自分を知ることはできません。この区別は ... ... 重要です。. . . 精神の主観的な自我意識ではなく、未だに調査されなければならない未知の、偏見のない対象としての精神そのものを意味している。"自我は一方で因果的にそれに「依存」または「帰属」しており、他方で目標としてそれに向かっているので、「何」は中立的な自己、全体の客観的な事実を意味しています。
~カール・ユング; CW 9/2, par. 252.

人は、まず自分が誰であるかではなく、何であるかを見て知らなければ、真に自分を知ることはできません。自分は何のために、誰によって、誰を通して作られたのか?
~ゲアハルト・ドルン(1530-1584

私たちは自分の無知をガスで代用しています。現代人は、自分が本当は何者であるかを知らない限り、すべてガスバッグなのです。~CGユング、ビジョンセミナー、235ページ

 

A
What – not who:
This subjective knowledge of the self [is what is meant by]: "No one can know himself unless he knows what, and not who, he is, on what he depends, or whose he is (or to whom or what he belongs) and for what end he was made." This distinction . . . is crucial. . . . Not the subjective ego-consciousness of the psyche is meant, but the psyche itself as the unknown, unprejudiced object that still has to be investigated. "What" refers to the neutral self, the objective fact of totality, since the ego is on the one hand causally "dependent on" or "belongs to" it, and on the other hand is directed toward it as to a goal.
~Carl Jung; CW 9/2, par. 252.

No man can truly know himself unless first he see and know ~what~ rather than who he is. To what end was he made, by whom & through whom?
~Gerhard Dorn, 1530-1584

We substitute our ignorance with gas; modern people are all gas bags inasmuch as they are ignorant of what they really are. ~CG Jung, Visions Seminar, Page 235