なるほど、と思う。
同時に、大変だなぁ、とも思う。
作品づくりの前に、とても疲れてしまうだろうから。
倉本聰の作品は好きだし、彼の功績は燦然と輝き続けることは間違いないだろう。
私が作品を書くとき、何を原動力にしているのだろうか。
それは喜怒哀楽を含めた全ての『悦び』なのだと思う。
それを一言で言えば『生きている悦び』だ。
倉本聰の様に、『為政者に対する怒り』の様なものではない。
もちろん、『悦び』の中にはそれも混ざってはいるけれど、主体ではない。
私の『悦び』の主体は、衣食住と共にある。
これは壁画を書いた原始人の頃から、脈々と続いてきた、生きる悦びを表す行為となって現れる。
悦びを表現することが、生きている事を悦んでいる事を表すことが、私の悦びなのだ。
壁画は残っているが、踊りや歌は残らない。
でも、あったはずだ。
私は、そこを大切にしたい。
感じた事を、感じられる自分を、大切にしたい。
そしてそれを表現したい。
書き残したいし、音にしたい。
そして、誰かにその思いを伝えたい。
原始人と何が違うのだろうか?
原始人どころか、たった30年早く生まれていただけで、結核で死んでいただろうし、戦争で死んでいたかもしれない、、、。
現代医学に生きる事を許された、ラッキーな人生なのだ。
長く生きる事を許された人生ならば、思いっきり自分の為に使ってやろうと思うのだ。
それが社会の為になるかもしれないし、ならないかもしれない。
時代が変われば、社会の受け入れ方は変わるからだ。
書家ではなく能書家と言われた人達は、為政者や政治に対して大いなる反骨精神を持っていたケースが多い。
倉本聰と似ている。
それは彼らそれぞれの生きた時代が荒れ果てて、対峙すべき権力があからさまであったからでもあるけれど、今現在この平和な日本で、対峙すべき権力は巧妙にカモフラージュされていて、とても見えにくくなっている。
それを倉本聰は、彼が経験した時代に養ったアンテナとセンス、そして明晰な頭脳で、カモフラージュされたベールを剥いで、彼の怒りの正体を世間にあきらかしてやろうとしている。
偉い人なのだ。
凄い人なのだ。
しかし、やはり疲れてしまうだろう、、、
話が元に戻ってしまった(^○^)
私は、スティックを使ってドラムを叩き、気心のしれた仲間とROCKに興じるのが好きなのだ。
筆を執り、先人の跡を辿り、その匂いを嗅ぐ事が好きなのだ。
創作はその先にある。
倉本聰の『聰』は創造の『創』だろう。
『創』は刃物でつけられた傷の事だ。
それくらい産みの苦しみを伴う作業なのだ。
倉本聰は分からない人にも分からせたい情熱がありそうだ。
だからテレビと言うお茶の間に入り込めるメディアを選んでいるのだ。
私は分からない人に分かって欲しいとは思わない。
ただ感じてもらえればそれでいい。
それは自分の仕事だと思ってはいない。
無責任なのだ。
それでもSNSで世界に向けて発信している。
誰かの刺激になればいいだろう程度の考えしかない。
創っては投げ、投げては放置しているのだ。
作品が可哀想だとは思わない。
それは全て過去の事だから。
創作しているその時こそが至福の時であって、書き終えた後、紙に残ったものは燃えかすでしかない。
それでも時代を超えてくすぶり続ける作品がある。
本物だ。
創作するものにとって、本物に触れる事はとても大切だ。
和翠塾でもいよいよ古典の研究を始めたいと思っている。
古典は本物だからだ。
塾生の皆さんに古典に触れてもらうことで、高橋鵞翠作品の素晴らしさを再認識していただくことも目的の一つと私は捉えている。
高橋鵞翠作品は本物なのだ。
杉山悠翠の作品は本物なのか?
それは後世の人の決める事だし、私の知ったことではないし、求めるところでもない。
私が求めるものは、作品を書いている瞬間に感じる研ぎ澄まされた感覚によって得られる『悦び』だけなのだから。
この『悦び』を皆に知ってもらい、実践してもらいたい気持ちの方が大きいのだ。
それは子供の頃に無心で書いた時の喜びに近いかもしれない。
邪念を捨て、世のしがらみから自分を解き放ち、真っ白い紙に真っ赤に燃えた魂で対峙して、真っ黒い墨で新しい世界を創ってみよう!