JADVIGA ZALESKA
PIANO RECITAL
CHOPINーEVE
Y.M.C.A.HALL
Kanda Tokyo
Thursday March 7th 1918
8. P. M.
Management “ GEKKAN - GAKUFU ” OFFICE
PROGRAMME
PARTⅠ
CHOPIN
Ⅰ Ballade GーMoll Op. 23.
Ⅱ Preludes Op. 28
(a)DesーDur No. 15.
(b)GーDur No. 3.
(c)AーDur No. 7.
(d)FーDur No. 23.
(e)BーMoll. No.6
Ⅲ Nocturne FisーMoll Op.48. No.2.
Ⅳ Valse GesーDur Op.70 No.1
Ⅴ Etude CーMoll Op.10. No.12.
Ⅵ Scherzo bーMoll Op.20.
PARTⅡ
Ⅰ Fantasia FーMoll Op.49. Chopin.
Ⅱ Dream of Love. ‥‥‥ Liszt.
Ⅲ Polish Song ‥‥‥ Chopin-Liszt.
Ⅳ Mazurka ‥‥‥ Chopin.
Ⅴ Bacchanal. ‥‥‥ Chopin-Liszt.
Ⅵ Polonaise FisーMoll Op.44. Chopin.
なお、昭和二十七年四月二十日発行の 音楽文庫38 『音樂の花ひらく頃 ーわが思い出の樂壇ー』 小松耕輔著 音樂之友社 の 大正七年 に次の記述がある。
これと前後してポーランドの女流ピアニスト、ザレスカ夫人の演奏會が催されたが、夫人は仲々優秀な技倆を有し立派な音樂會であった。當日の曲目はショパンの變イ長調ポロネーズ、同じくロ短調のソナタ、スクリヤビンの前奏曲二つ、ラフマニノフのロマンス其の他、最後にはトドロヴィッチ夫人と共にアレンスキーの二臺のピアノ合奏「影繪」を演奏して多大の感銘を與えた。同夫人のショパンの夕が更に三月七日、神田靑年會舘に於て催され、これ又好評を博した。
また、昭和十八年三月三十日發行の 『薈庭樂話』 徳川賴貞著 春陽堂書店 には次の記述がある。
マダム・ザレスカ
露西亞の革命騒動から逃れて、日本に亡命した多くの人の中に交って、マダム・ザレスカ( Mme, Zaleska )といふピアノを彈く婦人があった。ザレスカといふ名はポーランドの古い家柄の名であるといふことを、私は後になって東京駐在のポーランド公使パテク氏( M. Patek )から聞いた。
私がザレスカ夫人を知ったのは、その頃屡々音樂會塲となった神田美土代町の基督敎靑年會舘で、ザレスカ夫人の演奏會が開かれた時であった。その時夫人は、ショパンの「ロ短調」のスケルツォと練習曲を數曲彈き、最後にリストの「カンパネラ」を彈いた。その演奏は非常に巧みであった。
ザレスカ夫人は露西亞によくある婦人のやうに、音樂愛好者 デイレタント で、專門家ではなかった。敎養ある婦人が、屡々專門家程の技倆を持ってゐることは露西亞では珍しくない。ザレスカ夫人もその一人で、音樂を職業とする考へは少しもなかったであらうが、亡命の身を救はんために藝を賣って糊口を凌がなければならなかったのである。
この演奏會ではザレスカ夫人の他にキリロフといふ聲樂家が獨唱した。どの程度の敎育を受けた人か知らなかったが、その頃日本にはあまり知られていない露西亞作曲家のグリンカとかムッソルグスキイとかグレチャニノフなどの歌を唱った。この二人の他に伊太利亞人のビヤンキといふセロを彈く靑年が演奏した。中々熱のある演奏で、大變受けてゐたやうであった。
この演奏會の後暫くしてから、或る時上野の音樂學校のセロの敎師であったウェルクマイスター氏が、安藤幸子女史とザレスカ夫人と組んで、ピアノ・トリオを私の家で演奏したことがある。曲はチャイコフスキイの「ホ短調絃樂三重奏曲」であった。これは恐らくこの曲の日本に於ける初演であったと思ふ。
音樂家達は、其晩は初めての手合せだと云ってゐたが、立派な出來榮えであった。演奏者も客人も大變喜んで、ザレスカ夫人などは非常にはしゃいで、傍にゐたキリロフ氏を誘って二人でニ重唱を歌ひ、歌劇「ザザ」の中の歌やオッフェンバッハのホフマン物語りの「バルカロール」などを歌った。ザレスカ夫人が歌も唱へることは其の時始めて知ったが、この二人の二重唱は上出來で、二人共これが初顔合せだと云ってゐたが、結果のよい所からその後公開の音樂會でも歌ったやうで、鎌倉で催した音樂會にはプログラムの中に入れてゐたやうである。偶然私の家で歌った合唱がよかったといふので、素人の二人が、早速入場料をとる音樂會のプログラムにその曲を仕組んだ所などは、如何にも亡命音樂家らしかった。
ザレスカ夫人もキリロフ氏もその後の消息はとんと絶えて仕舞った。ポーランド公使から聞いた處によると、夫人はワルソーで安樂に暮してゐるといふことであるが、今度勃發した歐洲戰亂で、それも如何なったか判らない。
なお、下は、大正七年四月八日(火)の名古屋公演の宣伝ビラと思われるもの。
露國大音樂舞踊會
時日 四月九日(火)
午后七時開塲
會塲 南桑名町 千歳座
入塲券 壹圓五拾錢、壹圓、五拾錢、參拾錢
聲樂家 キリロフ氏
ピアニスト ザレスカ夫人
舞踊家 パミス夫人
▢キリロフ氏は露國前皇帝在位時代には度々帝室劇塲に聘せられたる有名なる聲樂家
▢ザレスカ夫人は歐洲音樂界に於て夙にピアノの天才として其名高し
▢パミス夫人はスパニッシュダンスを以て博く其名を知らる
會員申込所 〔電話番号は省略〕
松山町 鈴木バイオリン工塲
南大津町 カフェー
榮町 丸善
富澤町 中京堂
鍋屋町 永昌堂
榮町 名古屋通信社
玉屋町 永東書店
中央バザー内 樂器店
東片端町 家庭倶樂部
主催 家庭倶樂部