蔵書目録

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「北一輝を語る」 長田實 (1940.10)

2012年08月17日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 北一輝を語る 長田實

  前書

 上海に在ること三十有余年、支那第一次革命以来大陸に馳駆する支那革命家を陰に陽に援け、「日支融和結合せざれば天下治まらず」の信念の下に已に今日の亜細亜再建に具えて当時の微々たる青年を、前維新政府大官にまで育て上げたほか、現中央政府の中堅として活躍する人材多数を送り出した陰の功労者長田翁こそは亦一世の風雲児北一輝が父とも頼んでゐた人である。
 翁は天職医師、渡支以来、慈恵医院、実費治療院、博当会診療所、長田医院と次々に経営し、天衣無縫の天性にこれ等の医院はすべて日支両国革命家の集合所となり、休息所ともなつたもので、今猶翁の家に残る古色蒼然たる圓茶卓台は、大川周明氏をはじめとし、譚人鳳、宋教仁、北一輝等、壮途半ばに客死し、或は非業の死を遂げた人々が圍んで語り且つ論じたものである。
 今次上海戦に医療救護班としての御奉公を最後に、上海狄思威路の自宅に悠々自適する翁を訪ふて、北一輝が日本改造法案、或は雄揮無比なる文章として知られてゐる支那革命外史の序文を書いた当時の模様を具 つぶさ に聞きまとめ、僅か乍 なが らもあまり世に知られてゐないその一断面をこゝに紹介する次第である。

 ・北一輝の渡支

 支那第一革命時分には、支那の革命家を援助する日本側の志士たちの間にも各々、各党各派がありその圍 かこ む中心人物によつて派閥を異にしてゐた。孫逸仙、黄興などを中心とする宮崎滔天、山田順三郎〔山田純三郎〕、或は譚人鳳、宋教仁、陳基美〔陳其美〕、章太炎などを援助良導〔領導〕して池断水を中心とする親中議会〔振中義会〕などその中の最たるものであつたが、私や北一輝等も親中議会の組織の内にあつて現早大教授中村進午、当時の麻布連隊長與倉喜平、山本権兵衛の懐刀 ふところがたな として知られた大田三次郎、気学者の名も高かつた報知新聞記者佐藤天風等とと共に、某方面の支援を受けて活躍してゐたのであつた。当時の各党各派の対立、争派〔争覇〕には、かなりに激しいものがあり、然も猶、船頭多くして船山に上るの害までも生じたものであつたが、孫文が臨時大総統を追はれたのを契機として、之等革命援助の志士たちも、一時は失望落膽から、チリゝバラバラになつてしまつた。
 この時私は、この親中議会の負債を一手に引受けて支那に残り、それと同時に当時已に一方の旗頭としての貫録を示し、党派争ひの真只中に一種超然としてゐた北一輝に目をつけ、何か役に立つ者として支那に引留めておいたのである。然しこの時の革命援助の連中はいずれも借財が多くて宿屋の支払 しはらひ にも困つてゐたもので勿論北一輝とても同様に金銭的に非常に困却〔困窮〕し、こんな事情から彼も以来私の家に寄食することになつたのである。
 大正三年十一月、第三革命と称される蔡鍔の討袁の兵が雲南に挙げられ、風雲は動いて革命党の連中の活躍も激しくなり此の間東京に在 あ つた彼は譚人鳳の上京に次いで大隈内閣との交渉斡旋、支那革命外史の著述等と専 もっぱ らその方面に活躍してゐたが、翌五年 〔一九一六年〕 六月、袁世凱の急死に依つて又々革命が頓挫したため、同月再び単身渡支して文路の太陽館と称する旅館にしばらく滞在、間もなく生活難から又もや私の家に引移り、この頃から法華教〔法華経〕に非常に帰依して、譚人鳳から貰ひ受けた法華教々本を朝に夕に大声で読だりなど外見にはかなり狂人めいた風に映つてみえたのである。 

  ・改造法案の執筆

 そんなことが暫く続いた後、何と思つたか突然に“人間は喰はずにどれだけ生きれるものか断食をしてみる”と云ひ出して、最初は酒ばかりで一週間、次に卵ばかりで一週間(日一個或は二個)それから砂糖ばかりで一週間支那の駄菓子で一週間次いで水ばかりで一週間といふ計画を以て、即座に実行に移つた。かうなると勿論止めても聞かずそうかといつて捨てゝも置かれぬのでこの間毎日診療して様態を注意し、又看護婦にも注意して彼の馬桶(便器)を別にして捨便を続けてゐる中遂に四週間目には血便さへ見えだした。勿論身体の衰弱は非常なもので、事こゝに到つては打捨てゝおく譯にもゆかず、断食を止める様幾度も注意したのであるが、『どうしてもあと一週間続ける』と云つて頑として應じない。そこで止むなく折よく上海に在住してゐた譚人鳳を呼びにやり、二人でもつて懇々と諭して暫く断食を思ひ止まらせたのであるが、この時已に内深くかの国家改造法案を書く決意を蔵してゐたものらしく、この断食に依つて精神統一を計り、案を練つたものである。
 多分ゐに人間的なところがあり、一面強情でもあつた北一輝も不思議に譚人鳳の云ふことだけはよく聞いた。そして身体の衰弱もまだ恢復しきらない中に、改造法案 執筆に着手したのであるが、この時分、私は社会主義者のシンパとして官邊の誤解を受けてゐた頃とて、執筆に際しても、何事も皇室中心主義でなければならぬと云ふことをくれゞも注意し、書き上げた原稿は一々自分が目を通すと固く云ひ渡したのであつた。
 それから毎日一頁書いて見せ、二頁書いては見せといふ風で、執筆を続けたのであつたが、その間一冊の参考書とてもなく、然もわずかに二ヶ月といふ極めて短時日の間にあれだけのものを書き上げてしまつたもので彼の超人的な一面はこんなところにもよく現はれてゐた。

 ・大川周明来る

 満川亀太郎と共に三兄弟の契りを結んだ大川周明氏が、支那革命概史 〔支那革命外史〕 によって上海に彼のあることを知り、川村某船長の石炭船に乗って海に渡って来たのもこの頃であった。先づ焦眉の急は日本の改革にある。と、内地からわざゝ連れ戻しに来たのである。こゝで両名始めて会談し天下国家を論じて共に悲憤慷慨し意気相投じて彼は大川氏より一足遅れて日本に帰ることになったのだが、彼が『大川公、満川伯を得て日本の事、亜細亜の事、手に唾 つば して成すはこの秋である』と云ったのもこの頃のことである。又この頃、永井柳太郎氏が第一次欧洲大戦の講和談判の帰途上海に立寄ったが、当時の滔々たる恐米、親英主義の中にあって一人、英国との開戦を主張してゐた彼とは意見が合はないやうであった。
 こんなことがあって大正九年の末、妻女のすゞ子さん共々日本に帰ったのが上海を去った最後となったのであるが、彼が私の家に寄食中も、彼の天性は随所に発揮され、奇行奇言も多く、又思想家によく見受られる非常な我儘であった。岩田富美雄 〔岩田富美夫〕 氏、清水行之助氏等も彼と起食を共にしてゐたが、岩田氏等は常に彼を評して
 「君は常識に欠けてゐる、然しその非常識は自他共に許されるものであらう」
 と云って居たが、彼は只笑ってゐるるのみであったといふ。
 誰が議論を吹っかけても、「まだ若い」「もっと勉強してこい」と頭ごなしに一蹴して超然としてゐたが、一度彼が口を開けば、その鋭い舌峰に誰も匹敵する者がなかった。

 ・人間北一輝

 彼が最も怖かったのが私の妻であり、又最も小遣をせびったのも私の妻からであった。
 一日秋も終りに近い頃、猿又一つの素裸かで腕を組み、ベランダをへ出て、行ったり、来たり数時間も続けてゐるので見兼ねた妻が
 『北さん、風邪を引いたらどうします。それにそんな所に裸で見っともないじゃありませんか』
 と注意すると、
 『奥さん、人間は生れた時は、皆裸じゃないですか』
 と、平気でそのまゝ続けてゐた。又ある時、
 『北さん、貴方そんなに、えらそうにしていて一体何になるつもりです』 
 『総理大臣になりますよ、そうなったら奥さんも来て下さい』
 『貴方が貧乏な時なら行ってもいゝけれど総理大臣なんかになったら行きませんよ。』
 『僕が総理大臣になったらよく治まるよ、奥さんが来たら旗を持って迎へに出る』
 母親のりくさんが非常に厳格で、やはり困窮時代、着る物もなくて、つい
 『あゝ、寒い』
 と、こぼすと
 『輝(彼の本名輝次郎を略して常に輝と呼んでゐた)、腹に力を入れりゃ、いっちゃ』
 と、佐渡訛 なまり でたしなめた。こんな時彼は例の顔をクシャゝにしかめて笑ってゐた。こんな反面に又母親は、彼が昼寝なぞしてゐると、とても喜んで、人が訪問してもなるべく起さないやうにしてゐた。それは彼が非常な煙草好きで、何時ものみ過ぎる為〃寝てゐる間は煙草を喫まないから〃とのせめてもの優しい心遣ひであった。

 ・猶存社時代

 この時分は、彼が、大川、満川両氏等と共に、千駄ヶ谷の猶存社で活躍してゐた頃で、彼の帰国一年後、招かれて私が日本に赴いた際、猶存社の押入の中に、細引き、蝋燭、日本刀などが随分しまってあったので、
 『脱線行為だけは、絶対いしてはならぬ』
 と、固くいましめて帰った。その際満川が
 『必ず何もさせませぬから、北のことは私に委せて下さい』
 と、彼の身を引受けたのだが、この頃から自分に対する官辺の見解も『長田は社会主義者の善導者である』と云ふ風に変り、私も又『北は色眼鏡で見られてゐる』として、お互に文通せぬまゝに爾来数年 彼はあの様な最後を遂げたのである。
 大川周明氏が彼を評して『彼は泥中の珠であった、しかも泥のしみ込んでゐない珠 たま である…惜しいことをした』と嘆じたといふ。
 彼が私に送った十数通の書簡は、私の家が数度の上海の戦火に焼かれた為、今は無くわずかに弾痕も鮮やかに焼け焦げた一通が残ってゐるのみであるが、巻紙数尺に亘って躍るが如き大文字で書かれてあり、私と北一輝との関係を語る一助として、こゝに原文のまゝ掲載する

 拝啓、其の後は無沙汰申上候、過日青木老突然上京に、消息を承り安堵仕り候 日本も大変の淵に進行致し居り、此分 このぶん ならば、水火の渦中に投ぜられる日を見んと存じ候
 支那も今年から愈々の本舞台が開かるべく、今は毎日学校通ひにて写真を譚家に送附仕度く、依然上海に居住とは真実に候や、御返事の節知らせ御願申上候
 令閨に御伝言被下度、御角を突出せしむる婦人患者も無之候由、天下泰平を嘉奉候  敬白
      十一年五月九日    北 一輝
  長田老兄侍史

 この手紙にもある通り何時の便りも必ず私の妻のことが書いてあった。猶こゝに附記して置きたいのはこの手紙い英生坊主とある、今は北家の相続人北大輝君のことである。

 ・北大輝君のこと

 青島に於ける支那第二革命に際して不幸虜れの身となり、湖南の獄より遁れんとして背後より銃殺された譚二式(譚仁鳳〔譚人鳳〕二男)を父に持ち、生後十日にして已に母を失ってゐた革命の兒は、年四歳に満たずして天涯の孤児となり、奇しくも隣国の北一輝の手にその身を委ねられたのであった。
 支那革命概史に〃朝々暮々の禱は、汝の健やかに長じて、汝の父と祖父の遺志を汝の故国に継ぐことであるぞよ、此書は汝一人の為にも世に留むべきものである〃と書かれた革命の兒は如何に育ったか。
 大正九年八月、最後に残って祖父譚仁鳳さへも上海に失ったこの天涯の孤児は、当然祖父の死に水をとってもらった私の家にと引取られたが、丁度その折身体の衰弱が激しく、転地を絶対の必要とした為、折よく日本に帰る北夫妻に連れられて内地に帰り、彼の実子として日本の小学校に学び日本人として育てられたのであった。
 自分が、かゝる運命の兒であることも露知らず健やかに育てられた彼大輝は、その後はからずも帝都に捲き起された、二・二六事件に依って、支那の血を引くことを知り、自己に荷せられた運命の苛酷さに憐み、遂に素行がガラリと一変した。
 その後、母親すゞ子さんの非常な努力によって翻然心気一転、自ら志願して軍隊に入り、早くも本年十一月陸軍少尉に任官する筈であるが、烈々支那革命の血に燃える父と祖父との血を継いだ彼は、今、見習士官として、誤まれる故国を常道に復さすべく、雄々しくも北満の曠野に守りの銃を執ってゐる(文責在記者)  

   

 ・長田實翁 〔上左の写真〕
 ・〔上右の写真〕
  (上)宋教仁の遺墨、革命勃発と同時に武漢に去らんとして一輝に遺せる住所書。
  (下)陳其美の遺墨、盟友宋教仁を暗殺して第二革命成らず、その一周忌に会し友を悼む文字を列ねて一輝に贈る。

 上の文と写真2枚は、昭和十五年 〔一九四〇年〕 十月一日 発行の雑誌『揚子江』 第三巻 第十号 揚子江社 に掲載されたものである。



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