仏教では
核(魂)なる自分は無いと説く
すべては無であると
諸法無我であると
また無は
すべてを生み出すはたらきをする
無明から業の因縁は始まり
現在まで継続している
無からは因縁たちきった
ありのままが生まれている
無明ではありのままを
ありのままで正見はできない
闇の中で、業の因縁と、遺伝子記憶を絡ませて、肉体脳は妄想して見る
妄想する業はこの世の生を渇望し
生まれ死ぬ
死んで生まれる
輪廻転生繰り返す
そうさせるのが無明生まれの
業を背負った自我である
無明の業を背負った自我は
過去から現在まで
生まれ死んでまた生まれ
輪廻転生を繰り返してきた
私は無いが
一時的な道具(器)の肉体がある
その道具に自動的に備わるのは
人類発祥から現在まで継続してきた
肉体・遺伝子・脳
この物質界は肉体が主体なので
表層意識(遺伝子含む脳)が主体
「思い」「感じる」「気分」
「わかっているけどやめられない」
その表層意識は
潜在意識(業を背負った自我記憶)
が影響を与えている
「思い、感じる原因」
「表層意識を動かす力」
その潜在意識は
無意識(明かりが無い無明)
が影響を与えている
「無明が業を背負った自我意識の原因」
「潜在意識を動かす力」
3つの意識が私で
死ぬと
肉体・脳遺・伝子は消滅し
業を背負った自我は
無明の影響を受けて
無になりたくないと再びこの世に肉体を持つことを渇望させる
そうしてまた私たちは
この世で遺伝子脳を持つ肉体を道具として、業を背負った自我欲を満足させるために生きる
私たちは今生きている
業記憶を背負った自我と
遺伝子記憶を背負った脳に
振り回されて
妄想して生きている
仏の光明は
無明に光を当て
無から生み出された真実が照らされる。ありのままを、ありのままで正見できるように。
無とは無いということではない
無とは、業記憶を背負った自我や遺伝子記憶を背負った脳やらに影響されず、妄想せず、今を正しく直視すること
業や脳の記憶が無となり、今を正見すること
無がそれをやるのだ
無はありのままの現象を
ありのままを受けて
ありのままを思い
ありのままに行い
ありのままに意識する
つまり!
「妄想して喜怒哀楽して生きる」から
「今ここを生きて、喜怒哀楽して生きる」に変わると
その都度が今。その都度が初めて見て、感受して、思い、行い、そして終わらせる
業を積まないスッキリした生き方をしたい
仏の光は永遠の楽を放射しているんだから