■寺越武志さん
1949年9月21日石川県志賀町生まれの72歳
現在、北朝鮮でキム・ヨンホという名前で生活されています
■1963年5月11日、午後1時頃、13歳の武志くんは、家計を助けるため、叔父の寺越昭治さん(36)、寺越外雄さん(24)と共に高浜港から漁にでました。途中福浦港に立ち寄ってから、午後4時に福浦沖でさし網を入れるところを周囲も確認していました。
夜遅くには港に帰港するはずでしたが、帰らず。翌朝高浜港の沖合い7キロの海上を漁船だけが漂流しているところを発見されました。
船には他の船に衝突されたような損傷と塗料が付着し、網はしかけられたままで、人間だけがこつぜんと消えました。
1週間捜索しましたが、3人は発見されず、消息はつかめず、3人は海に投げ出され死亡したとみなされ、戸籍上死亡として扱われました。
そして3人の葬儀が行われました。
■24年後の1987年1月22日
寺越外雄さんから姉の嫁ぎ先に突然手紙が届きました。手紙には
★3人は失踪後北朝鮮で暮らすようになった
★自分は北朝鮮で家族を持ち3人の子どもがいる
★外雄さんの住所
★外雄さんのキム・チョルホという北朝鮮名
★武志も生存し、結婚し子どももいる
★昭二は北朝鮮に来て5年後に亡くなった
などと書かれていました
姉の夫は本人かどうか確定させる質問をもりこんですぐに返信。その返信で間違いなく外雄の北朝鮮での生存が確定したのです。
■1987年8月、武志さんの母友枝さんは、日本社会党訪朝団と同行し、北朝鮮へ。武志さん、外雄さんと24年ぶりに対面しましたが、あまりの変わりように武志さんの額を確かめました。額にはまぎれもなく武志さんが幼い頃にバットに当たった傷痕がありました
母は失踪した理由を武志さんに聞くと武志さんは「もう、忘れてもた。母ちゃんも、そのことは聞かんといて。これからのことだけを考えて生きていこう」と答えを避けました
■そのあとも、母は何度も北朝鮮にわたり、武志さんに会いました。しかしそれは、北朝鮮から招待状を出してもらい、北朝鮮の特別の配慮に対する感謝の言葉をのべ、北朝鮮に何度も何度も母は頭を下げた結果、やっと監視つきで息子との対面がゆるされた、、というものでした
■母は願いました。「当時13歳の武志は、自ら進んで北朝鮮に渡ったわけでは絶対ありません。武志を一時帰国でいいから、日本に帰したいのです」と
1997年6月3日、石川県は寺越武志さんの一時帰国実現を日本政府に要請する方針を決定しました。
6月27日、石川県議会も寺越武志さんの戸籍回復と、一時帰国を求める意見書を可決。同日武志さんの死亡は取り消され、7月1日戸籍回復され、武志さんは再び日本人となったのです。
7月31日、母友枝さんは外務省を訪問。「寺越武志を帰国させる」との言質を得ました
9月4日寺越武志さんの談話が発表されましたが、、
「34年前、叔父とともに漁に出かけ、思いがけない事故と不注意によって遭難した、、そのとき日本では誰もわれわれを振り返りもしなかった。しかし、共和国(北朝鮮)の漁船が私たちを危機から救ってくれて、私たちは共和国に来ることになった
共和国に在留しながら、人民が主人となった国とはここを言うのか、と思った。
私は共和国の堂々たる公民である。私が今後もし日本を訪問することになれば、共和国メンバーとして堂々と行くことを明確にする。」
、、、
■1998年1月、武志さんは職業同盟平壌市副委員長という大幹部に抜擢されました。
2001年、武志さんの父は訪朝した際にそのまま北朝鮮にとどまり、武志さん一家と平壌で生活しました。
武志さんは拉致ではなく助けられたと拉致を否定していますので、日本政府が認定する拉致被害者には含まれません。
■2002年10月3日、とうとう武志さんは北朝鮮労働党員および労働党団体代表副団長として来日し、石川県の生家に宿泊することが実現したのです。しかし、日本政府関係者からの出迎えはありませんでした。12日後には拉致被害者5人が帰国。(その日は日本政府から盛大な出迎えやマスコミ報道がなされていましたよね)
■武志さんから母ちゃんへの内緒話、、かな?
「俺は、、共和国の人間や。金正日将軍さまのおかげで何も不自由せんと暮らしとる
ほやけど
13歳のときに北朝鮮に渡ったときは、ほんとに親がこいしかった。今俺には子どもがおる。子どもに俺と同じ思いはさせとない。俺に子どもを捨てることはできん」
72歳の武志さん、望郷の念はおきませんか?お母さんは高齢でもう武志さんには会えんかもしれません。。
😭