平安時代に、大和、吉野、熊野等に修験道が起こった頃、北陸の白山と石動山では泰澄が、立山では慈興が修験道を開いた
■泰澄が石動山に登る前に
石動山は、
崇神天皇(3世紀後半から4世紀前半)勅旨により、方道上人が宝剣を納めて社壇を興し、
垂仁天皇(3世紀後半から4世紀前半)の皇子のために霊験を現したからか、大宮坊が建立され、このとき石動寺という寺号を称した
■泰澄の活躍
養老年間(717~724)
泰澄が石動山に登る
天平8年(736)、疱瘡流行にあたり泰澄は、祈祷して霊験を現したからか、
天平勝宝8年(756)、泰澄は講堂を建立し、石動寺を「天平勝宝寺」と改称した
翌年、勅使がやって来て天平勝宝寺に奉賽などがあり(祈願が成就したお礼に神仏を参拝)
さらに、加賀・能登・越中・越後・飛騨・信濃・佐渡の7国を、知識米勧進の地と定められた
■知識米
知識米とは、神仏に供える米や金銭
この勧進のために僧は地方を廻った
これを「僧正廻り」という
知識米の徴収量は能登・越中では一軒に二升、その他は一升という定めであったが、石動山近郊の能登・越中は三升ずつ徴収していった
僧正廻り関する文書
石動山資料館
■石動山にゆかりのある地元の霊場
★霊場「石仏山」
神道という名の集落がある
そこに石仏山がある
この山は別名「結界山」と呼ぶ
古来から霊場として畏敬せられ、斧を入れず、古木・大樹がうっそうとして、百十数種の草木が生育し、原生林の状態をなして、昼も暗い
山は急峻で20~30度に傾斜
大小の石が散在している
この斜面の中程と、頂の近くに
柱状の巨石が一個ずつ直立して
御神体となっている
山全体が神社であり、社殿はない
石仏山は先住民族の信仰の対象から発生し、日本民族時代になってから、次第に神社化したのだろう
この遺跡は原始神道研究と、中世の修験道研究上、有力な資料である
『「女人禁制」能登 石仏山』
石仏山:石川県鳳珠郡能登町柿生 ホ16半島が好きだ。何より”半島”という言葉の響きがいいし、離島に劣らずどこも独特の文化を保っているからだ。紀伊、国東、大隅、…
聖地の印象