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城山三郎『大義の末』を読んで

2021-01-11 12:50:28 | 読んだ本
       城山三郎『大義の末』             松山愼介
『大義』という本及び、その著者の杉本五郎中佐という名前は全く知らなかった。この『大義』では、天皇を神と信じ、天皇=神のために死ねと主張している。この本は、敗戦と共に天皇が神ではないとわかった時点で忘れ去られたのだろう。大久保に「柿見、おまえ、まだ、こんなものを……」と言わせている。
『大義』はネット上に序文を含む全文がアップされているが、吉本隆明編『ナショナリズム』(筑摩書房 一九六四)にもこの『大義』が収録されている。「釈迦を信じ、「キリスト」を仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の真理具現者、天皇を仰信せよ。万古、天皇を仰げ」という個所がこの作品では「キリストを仰ぎ、釈迦を尊ぶのをやめよ、万古、天皇を仰げ」となっている。また、「汝、我を見んと要せば、尊皇に生きよ、我は尊皇精神のある処常に在り。尊皇の有る処、君常に在り、忠魂永久に皇基を護らん」という個所も「汝、我を見んと要せば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常に我在り」となっている。いずれも省略化されている。城山三郎は高山文彦との対談『日本人への遺言』で『大義』を暗記するほど読んだというので記憶に基づいて書いたのだろうか。
『大義』の編者序文には「部下青年将校指導指導のために綴られたものであるが、同時に又、これが、子孫乃至は後世青年への遺言書であることは、その緒言に依つて明かである」と書かれている。『大義』は昭和十三年に刊行され終戦までに百三十万部を越えるベストセラーとなったという。高山文彦は城山三郎との対談で十万部としている。また、杉本中佐はこの『大義』で、伏字にはなっているが、中国大陸での皇軍の蛮行についても触れている。そのため懲罰的に前線に送られ戦死したのではないかと推測している。
 八月十五日の玉音放送で、天皇のレコード盤に録音された放送は五分程度であった。私は八月十五日の放送はこれだけかと思っていたが、調べたら放送自体は三十七分余りであった。前日及び当日、朝から正午より重大放送がある旨、繰り返し放送され、正午から和田信賢アナウンサー(放送員)に続き下村情報局総裁の前置きがあって、君が代吹奏、玉音放送と続いた。再び君が代吹奏があって、下村総裁の言葉に続き、和田アナウンサーが詔書を再度読み上げた。玉音放送は録音盤のため音質が悪かったようだが、和田アナウンサーの言葉は比較的よく聞こえたようだ。天皇は「米英支蘇四国の共同宣言を受諾する旨、帝国政府をして通告せしめたり」と述べるにとどまったが、和田アナウンサーは天皇の詔書を再度、読み上げたのち、この共同宣言を明確にポツダム宣言と述べた。その後、和田アナウンサーは首相鈴木貫太郎の内閣告諭を読み、ポツダム宣言、カイロ宣言について解説したようである。これまで書かれたものや、映画、ドラマでは玉音放送だけが取り上げられ、放送がよく聞き取れなかったが、言葉や声の雰囲気で敗戦がわかったという感じであった。しかし、この放送を最後まで聞けば敗戦は明らかだった。玉音放送は十五時、十七時、十九時にも放送されたという。
 城山三郎は、当日、演習があって、この重大放送がありのことも、玉音放送のことも聞かされていなかった。聞かされたのは下士官からだった。「戦争が終わったと言われても、意味がわからないわけよ。戦争は終るもんじゃなくて、勝つか死ぬかだったんだから。終わったといわれてもね」、「だから、その日は、何がなんだかわからないということで終わってしまったと思う」。城山三郎の語るところによれば、敗戦後の行動が凄まじい。付近にたくさんいた野犬を下士官達は試し切りしたという。また、倉庫にあったものを、大八車で持ち出した。城山三郎らには何もくれなかったという。彼は三十日頃に復員した。
 柿見らは敗戦後、旧制H高校で天皇制の是非をめぐる演説会が開いている。彼らは復員しても旧制高校生だったのである。天皇制賛成論は不利であったが、作者は森に賛成の演説をさせている。森は天皇制を一、絶対的な政治権力としての天皇制、二、国民の象徴としての天皇制、三、個人としての天皇ヒロヒトの三つに分けて考えている。ここで問題になっているのは天皇の戦争責任である。
 柿見は「あれほど、すさまじいエネルギーを出し切った時期、良いにせよ悪いにせよ、自分たちの人間性のすべてを賭け切った時期が空白であり、現在の自分と全然無縁なものとは考えられない」と述べ、天皇制の変遷に考えがついていっていないようである。
 問題は天皇の戦争責任であり、天皇制と個人としての天皇であった。天皇はマッカーサーとの写真や、全国巡幸で見せた姿は、なんとなくか弱くうつり、帽子を振る仕草もぎこちないものがあった。まさに現人神とはいえないようだった。おそらくこのような姿を見て、中野重治は『五勺の酒』で僕は天皇個人に同情しているのだと、書いたのだろう。だが、昭和天皇はこのような人物ではなかったようだ。
 戦争の状況も報告だけでなく、よく調べて指示も出していたようだ。ポツダム宣言の受諾も見切り発車ではあるが、国体(=天皇制)の護持を確認してからである。戦争の終決も、天皇制の廃止されることの
危機感、三種の神器の無事のためのようだった。戦後、沖縄をアメリカ軍に差し出したのも共産革命を恐れてのことだった。明治憲法は天皇機関説であり、昭和天皇には法的には戦争責任はなかったことになっているが、それを意識しながらも昭和天皇は政治に介入していた、したたかな人物であったようである。
『軍艦旗はためく丘に』は、たまに行く宝塚が舞台になっていて興味がわいた。戦時中の宝塚歌劇については『愛と青春の宝塚』(二〇〇二)というドラマの再放送が数年前にあって面白かった。主演が藤原紀香(嶺野白雪)で、接収にくる将校が仲村トオルであった。宝塚歌劇団の全施設を接収し、旧大劇場の観客席を仕切って教室にしている。戦時中は劇団員は川西航空機で労働奉仕をし、その跡地が現在、阪神競馬場になっているという。ここに宝塚海軍航空隊がおかれたが、訓練するべき飛行機はすでになかった。
 城山三郎の地元、愛知一中予科練総蹶起事件(一九四三年六月)というのがあった。予科練の募集人員が足りないので、各中学に応募人員を割当てたのである。割当はおよそ五十人と言われている。愛知一中では当初、志願者は十三名であったが、教師の説得に生徒が応じ、一種異様な雰囲気となり、五六〇名もが手を上げる事態となった。その後、冷静になり、志願者は百八十七名、そのうち視力、体力の適格検査の後、最終的には五十六名になったという。戦争中のエピソードには終わらない話である。
 現在、NHKの朝ドラ『エール』で古関裕而が取り上げられているが、彼は戦争中、軍歌を作曲していた。「露営の歌」(昭和十二年)、予科練の「若鷲の歌」(昭和十八年)などである。また昭和十一年には「六甲おろし」、「栄冠は君に輝く」を作曲している。「若鷲の歌」を聞いて予科練を志願した若者も多かったという。かれは作曲家なので、罪は薄いかもしれない。「長崎の鐘」(昭和二十四年)は原爆の死者へのレクイエムという。一作曲家も戦争に巻き込まれていたのである。
                       2020年8月8日


「セガレ」という柿見の叫びには、天皇制に対する否定と親愛の感情がごちゃまぜになっている。天皇制は、森が言うように「皇居を移転させることだ。維新当時、将軍家が駿府へ移って政治への未練がないことを示したように、天皇家もどこかに移ることだ。移転先はどこでもよい」、「そして、最後は伊勢神宮の宮司のような、祭祀長的存在になればいい。そうなれば、政治家も利用すまい」、「こうして、ほぐすようにしてなくして行くのだ。ほぐす過程は、国民が大事にされて行く過程であり、同時に天皇や皇太子が人間として幸福になって行く過程なのだ」
 この森の言葉がこの作品の結論的なものなのだろうか?

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