野上彌生子『秀吉と利休』 松山愼介
「唐御陣、明智討ちのようにいくまい」という利休の言葉が、この作品の底流に流れている。野上彌生子はこの言葉が、秀吉にもれ聞こえたのが利休失脚の要因と考えている。一方で、この作品には利休の侘び茶は、ほとんど出てこない。
私の勝手な秀吉像では、秀吉と茶道は結びつかない。黄金の茶室も利休が設計したらしいが、侘び茶とは無縁のものだろう。茶道では利休は秀吉の師であり、政治的には利休は秀吉の臣下である。刀を外して躙口から、頭を下げ腰を屈めて入らねばならぬ利休の茶室を、天下人となった秀吉は表面的には面白い趣向だと思ったかもしれないが、内心では我慢できなかったに違いない。しかし、利休は信長の茶道の師でもあったから、秀吉もこの利休の茶道を否定することはできない。
信長は高価な茶器を集め、それを配下の武士への報償とした。信長は本能寺で茶会を催す計画だったが、高価な茶器は本能寺の変で灰燼に帰した。以後、利休は侘び茶を目指したらしい。それが秀吉の茶の師となり、はからずも側用人のような役割を果たし政治面にも口を挟むようになったのだろうか。秀吉は「ご機嫌しだい」というところがあったという。哀れなのは山上宗二である。北条幻庵との約束を果たそうとして、秀吉の怒りを買い目と鼻を削がれたうえ、打首になる。山上宗二には利休や茶道についての書き物があり、重要な資料になっているという。
秀吉は日本を統一し絶対権力者になった。家康を服従させるのには苦労をしたが、北条攻めでは家康を先陣に使っている。その家康を関東に追いやった後、家康も秀吉には口を出せず、関東の経営に専念したようである。秀吉が唐攻めを言いだした時、案外、家康は秀吉の力が唐攻めで弱っていくのを予想して、ほくそ笑んでいたのかもしれない。野上彌生子は、唐御陣は剣の魔力に憑かれての征服欲ばかりではなく、目的は明貿易の恢復にあったとしているが、たしか秀吉は信長に「唐天竺まで征服してみせましょう」と言ったのを、どこかで読んだ覚えがある。
私は、秀吉は本気で明を征服するつもりだったと思う。国家というものは、国力が増加すれば他国を武力侵略する傾向がある。地続きのヨーロッパは、ほとんど戦争の歴史である。三十年戦争を続けていることも珍しくない。ただ日本は島国なので、ある程度、抑制が効いているかもしれないが、明治維新でも征韓論が盛んになった。日本では侵略の対象となるのは地理的に朝鮮、中国である。
NHKの「戦国」という番組によると、戦国時代、日本には三十万挺の銃があり、ヨーロッパの諸国と比較しても遜色が無かったという。また弾丸にはタイの鉱山で採れた鉛が使われていたという。鉄砲が伝来してからは、日本で改良をくわえ独自に生産体制を確立したという。朝鮮、明を攻めるためには船での輸送という問題があるので、一概にはいえないが、地続きであれば、三十万挺の銃があれば明の征服も可能だったかもしれない。この秀吉の戦争も、彼の死によって終わることになる。その結果、朝鮮で戦った福島正則、加藤清正らと、後方を担当した石田三成との対立が激しくなっていく。家康によって天下が統一されてからは、失職した武士の中にはオランダなどの傭兵となって海外で戦った者もいたという。
石田三成は典型的な官僚政治家で、またずば抜けた行政官でもあった。彼は絶対的な中央集権こそ、豊臣氏の天下支配を揺るぎないものにする原理と信じていた。その石田三成にとってたった一枚、あるべき場所からはずれて特殊な鱗光を放つうろこが利休であった。秀長は三成の非妥協性のゆえに利休を兄の側近になくてはならぬものと考えていた。その秀長が亡くなった後、利休は三成によって追い詰められていくことになる。
大徳寺総見院三門は千利休の寄進によって改修された。その結果、古溪和尚の肝いりで利休の木像が三門に置かれることになる。茶道の頭であった利休が、生きている間に自分の木像を作ることを認めたのは、自分の力を過信していたのではないか。秀吉も結局、利休の侘び茶を理解できなかったのだろう。高価な花入れを使わずに、竹ヒゴで編んだ容器や、竹を切り取って花入れにするということは、権力者になってからの秀吉には理解の外であったろう。そうなれば、行政官としての三成を重視し、利休の居場所が無くなったのは当然のことであったろう。
2020年7月12日
「唐御陣、明智討ちのようにいくまい」という利休の言葉が、この作品の底流に流れている。野上彌生子はこの言葉が、秀吉にもれ聞こえたのが利休失脚の要因と考えている。一方で、この作品には利休の侘び茶は、ほとんど出てこない。
私の勝手な秀吉像では、秀吉と茶道は結びつかない。黄金の茶室も利休が設計したらしいが、侘び茶とは無縁のものだろう。茶道では利休は秀吉の師であり、政治的には利休は秀吉の臣下である。刀を外して躙口から、頭を下げ腰を屈めて入らねばならぬ利休の茶室を、天下人となった秀吉は表面的には面白い趣向だと思ったかもしれないが、内心では我慢できなかったに違いない。しかし、利休は信長の茶道の師でもあったから、秀吉もこの利休の茶道を否定することはできない。
信長は高価な茶器を集め、それを配下の武士への報償とした。信長は本能寺で茶会を催す計画だったが、高価な茶器は本能寺の変で灰燼に帰した。以後、利休は侘び茶を目指したらしい。それが秀吉の茶の師となり、はからずも側用人のような役割を果たし政治面にも口を挟むようになったのだろうか。秀吉は「ご機嫌しだい」というところがあったという。哀れなのは山上宗二である。北条幻庵との約束を果たそうとして、秀吉の怒りを買い目と鼻を削がれたうえ、打首になる。山上宗二には利休や茶道についての書き物があり、重要な資料になっているという。
秀吉は日本を統一し絶対権力者になった。家康を服従させるのには苦労をしたが、北条攻めでは家康を先陣に使っている。その家康を関東に追いやった後、家康も秀吉には口を出せず、関東の経営に専念したようである。秀吉が唐攻めを言いだした時、案外、家康は秀吉の力が唐攻めで弱っていくのを予想して、ほくそ笑んでいたのかもしれない。野上彌生子は、唐御陣は剣の魔力に憑かれての征服欲ばかりではなく、目的は明貿易の恢復にあったとしているが、たしか秀吉は信長に「唐天竺まで征服してみせましょう」と言ったのを、どこかで読んだ覚えがある。
私は、秀吉は本気で明を征服するつもりだったと思う。国家というものは、国力が増加すれば他国を武力侵略する傾向がある。地続きのヨーロッパは、ほとんど戦争の歴史である。三十年戦争を続けていることも珍しくない。ただ日本は島国なので、ある程度、抑制が効いているかもしれないが、明治維新でも征韓論が盛んになった。日本では侵略の対象となるのは地理的に朝鮮、中国である。
NHKの「戦国」という番組によると、戦国時代、日本には三十万挺の銃があり、ヨーロッパの諸国と比較しても遜色が無かったという。また弾丸にはタイの鉱山で採れた鉛が使われていたという。鉄砲が伝来してからは、日本で改良をくわえ独自に生産体制を確立したという。朝鮮、明を攻めるためには船での輸送という問題があるので、一概にはいえないが、地続きであれば、三十万挺の銃があれば明の征服も可能だったかもしれない。この秀吉の戦争も、彼の死によって終わることになる。その結果、朝鮮で戦った福島正則、加藤清正らと、後方を担当した石田三成との対立が激しくなっていく。家康によって天下が統一されてからは、失職した武士の中にはオランダなどの傭兵となって海外で戦った者もいたという。
石田三成は典型的な官僚政治家で、またずば抜けた行政官でもあった。彼は絶対的な中央集権こそ、豊臣氏の天下支配を揺るぎないものにする原理と信じていた。その石田三成にとってたった一枚、あるべき場所からはずれて特殊な鱗光を放つうろこが利休であった。秀長は三成の非妥協性のゆえに利休を兄の側近になくてはならぬものと考えていた。その秀長が亡くなった後、利休は三成によって追い詰められていくことになる。
大徳寺総見院三門は千利休の寄進によって改修された。その結果、古溪和尚の肝いりで利休の木像が三門に置かれることになる。茶道の頭であった利休が、生きている間に自分の木像を作ることを認めたのは、自分の力を過信していたのではないか。秀吉も結局、利休の侘び茶を理解できなかったのだろう。高価な花入れを使わずに、竹ヒゴで編んだ容器や、竹を切り取って花入れにするということは、権力者になってからの秀吉には理解の外であったろう。そうなれば、行政官としての三成を重視し、利休の居場所が無くなったのは当然のことであったろう。
2020年7月12日
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