人生を癒す 百歳の禅語を読んで 最終回
*「無功徳」
「因果」とは、結果の善し悪しは別にして物事はすべて原因があって結果が生じる。原因
が無くては結果は何も生じない、これが釈尊の悟った仏教の根本となる考え方です。身の
回りに起こる様々な問題はすべてに原因があり、その結果なのです。
原因がそのまま結果であるという「因即果」。「因即果」の「即」は「そのまま」と言うこ
とです。難しい言葉で言うと「因果一如」。原因と結果の二つが存在するから一つではない
が、一つのように考えるという意味です。たとえば、紙の裏と表のようなもので表と裏は
違いますが、でも表と裏を別々にしろと言われても、これは別々にしようがないです。
剥しようがないですから、この「無功徳」をどう解釈しているかというと「因果一如」で
あり「因即果」であると言います。これはどういうことなのか。善いことをしたから善い
結果が生まれるという、そんな気の永い話ではなく、善いことが出来ること自体がそのま
まの結果であり、それが幸せである。と一まとめにしてしまう事なのです。
もすこし詳しく言うと、人間はとかく悪事をしやすいというマイナス面を持っています。
その悪事をしやすい人間が、悪事をしないで善事ができること、それ自体が善い報い・果
である。ご褒美であるということなのです。そうすると、その逆もまた然りで、善い事を
する能力があるのに善い事が出来ずに悪事を働いてしまう。それ自体が罰だと言っている
のです。
*挫折しない目的と手段の方法
私たちは、何か事を行なう時は必ず目的を持ち手段を立てます。目的と手段と二段構えで
考えます。しかし、因果一如の仏教の原理では、目的と手段は分けて考えないのです。
我々は目的を果すために色々な手段を講じますが、目的が果せないと挫折してしまいます。
しかし、目的と手段を一つにしてみると「今日はここまで出来た」、「昨日よりは進んだ」
ということが一つの結果となるから挫折感が少なくてすむのです。そのように、目的はし
ばし忘れ、手段に全力を尽くすことが仏教の正しい生き方になるのです。と言っています。
*「一日暮し」
「その日暮し」とは意味が違います。「その日暮し」は、その日得たお金でその日だけの
生活をして、翌日の貯えもない貧しい暮しのことです。「一日暮し」とは、今日一日、この
一日を取り返しのない時間として生きて行くという考えです。
どんな辛い事でも、「今日一日」と考えれば我慢してやっていけます。「今日一日限りだ」
と思えば、歓楽にふけることもないでしょう。「今日一日」というのは、一生涯の中の一日
ではなく「自分の全生涯が今日の一日である」と考え、自分の一生涯を今日この一日に詰
め込んでいくべきであると説いています。
*「日々是好日」
よく見聞きする言葉ですが、来る日も来る日も大安吉日と言うことではないのです。時に
は雨、風の日もあります。雨や風の日が悪い日で、晴れの日が良い日だとか、二次元的に
考えない。仏教思想では物事を比較する事が苦しみの原因だと教えています。逆境の時は
逆境を愛し、順境の時は順境を愛しいく、物事を比較せずにその時を大切にし、そのとき
成すべき事をなしていく事が、生きる上で一番大事なことです。
この様に老師は説いていますが、難しい事ですね、でも挑戦しやってみましょう。
比較する考えをなくしてしまい、順境の時はと思い比べずに逆境なら逆境に徹するなら、
逆境から起き上がれるでしょう。だから達磨さんが起き上がり小法師に象徴されるのです。
*達磨さん
達磨さんが座禅をして、両手両足が無くなった、という伝説は相対的発想を否定する禅の
絶対的思想館が象徴されている。両手足が無くなるということは、右と左、善と悪、こう
いう相対的発想法を悟ったという意味もあります。
目的を果す事だけを後生大事に考えていくと、途中で何かに躓いた時にそのままダウンし
てしまう事がよくあります。けれども目的と手段とを一つにしてしまえば、今日はここまで
やれた、躓いてもここまでやってこられた、と思えば安らぎを得られ明るい気持で立ち
上がる事が出来るのです。
*働く事がそのまま人のためになる
仕事をする時、結果も大事ですが、むしろ手段の方を肝要に考えると失望もすぐに消えて
しまいます。仕事は、ただ一途に仕事のために仕事をするという心構えが大事なのです。
人間はなぜ働くのかといえば、生活のためだけではなく「人だから働くのだ」という情熱
を持ちたい。働く事は、自分の生活のためではなくて、人のためになることです。
「自利利他」ですね。これが人生の一番の目的であり、生きがいです。
別に人のためになろうと考えなくても、自分の成すべき事をきちんとすれば、そのまま他
のためになるのです。「自利」=自分のためにする事が、そのまま「利他」=他のお役に立
つことになるのです。
はた
「働く」をカナで書くと「はたらく」。「自分楽」ではなくて「傍を楽にさせる」から働く
というのですと言います。この言葉どおり、生活やパンのためでなく傍の人を楽にしてい
くために働くから功徳になるのです。
何かの目的を果すためではなく、目的が果されようと果されまいと、自分がすべき事をし
ていくのだという非会人生の目的が生まれてくるのです。
仏教思想では、このような誓いを持った生き方を「菩薩行(菩薩の修行)」として大切な
誓願(必ず成し遂げようとの心身をかけた願い)とします。
以上、禅語について学びましたが、禅語は頭で学んでいるだけでは駄目で、日常生活の中
で活かしてこそ意味が出てくるものなのです。と老師は説いています。
以上で、百歳になる松原 泰道老師の「人生を癒す 百歳の禅語」についての紹介を終了
いたします。
ほとんど老師のお言葉を引用させて頂きましたことを懺悔し、感謝を致します。どうぞ、
これからも多くの凡夫を御引導下さいます様お願い致しますと共に、ご健勝をきがんいた
します。
皆さん最後までお付合いをしていただきありがとう御座います。次回を又お楽しみに。