生を癒す 百歳の禅語を読んで -9-
*縁によって成り立つ人間社会
前回の四戒を人間の生き方として考えて、ここからどういう生き方が出来るか。
人間の「間」という字を見るとよく分かります。「めぐり合わせ」という意味が出ています。
人間の「人」という字は、字の形どおり、もたれあいです。共生の形になっています。
網目が隣の目と共有になっています。共生ですね、だから自分では独立できない。隣の目
もおなじで、その隣の目と一つの線を共有しているんです。この共有部分を「ふち」とか
「へり」と言っています。この「ふち」「へり」を漢字で書くと「縁」という字になります。
そう考えると一人の人間も同じで一つの網目です。個人個人は社会の一員にすぎないけれ
ども、その一員がいなければ社会全体が出来てこないのです。
そこに様々な関係というものが出来上がっていくのです。
*「心配」(山本玄峰老師の教え)
心配という言葉は、「心を配る」と書きます。普通、私たちが使う心配は、心を痛めること
で、心痛なのです。心痛は自分の心が痛むだけだからやめて、その代わり出来るだけ心を
配りなさい。物を配る人はあるけれども、心を配る人は少ないから、温かい心を配って心
痛はやめなさい、文字通り心配しなさい。
*陰徳を積む
◇幸田露伴の三福の教え
第一:「惜福」(せきふく)です。福を惜しみ、物をいとおしんで大切にする事です。
大切に大切に福を惜しむ、事です。
第二:「分福」(ぶんぷく)福は一人のものではなくて、全部これを分けていく。
第三:「植福」(しょくふく)後の人のために、福を植えて徳を積んでいく。
今日の私たちは、古代の人に比して大いなる幸福を有しています。それは前人の植
福の結果である。
すべて昔の人が徳を積んでくれたお蔭で、今の私たちが幸せなのです。だから私たちも、
子孫のために何かを残していきたい。それを考えるために「惜福」「分福」「植福」という
三福の教えを大切にしたいという教えなのです。
*死してなお役立つ生き方 種田 山頭火の句。
「いつ死ぬる木の実は蒔いておく」
いつ死ぬか分からないけれども、後のことを考えて木の実は蒔いておく。という意味です。
そうすれば、本人は死んでも、やがてその木に花が咲き、実が実って多くの人の役に立っ
ていく事ができる。と言うわけです。
◇マルチン・ルターの句。
「私は死ぬことが分かっていても、今日りんごの木を植える」
このりんごの木を植えるということが、福を植えること、陰徳を積むことです。つまり
人間は一代こっきりで終わるのではない、と言うことです。
*「無功徳」 禅語
「人としてなすべきことをなしていく」これを無功徳と言う。
生活やパンのためでなく、傍の人を楽にしていくために働くから功徳になる。そこに、何
かの目的を果すためでなく、目的が果されようと果されまいと自分がすべき事をしていく
のだという、深い人生の目的が生まれてくるのです。
*達磨(だるま)には「真理を磨く」という意味があります。
達磨大師の達磨という字は「達」の漢字には「あまねし」「いたる」という意味があります。
そして「磨」の字は「磨く事」です。
各人に備わっている仏性というものは、磨く事によって本当に本人のものになるという思
いが「達磨」という中国語訳にあるのです。
*頭のいい事と記憶力は違う?
老師は言っています。記憶というのは電話番号をいくつも空で覚えているようなことで、
頭がいいのは回転・機転ではないでしょうかと。
*「善行善果」
「無功徳」の無は否定、功徳は仏教用語「善行、善い行いそのもの」を「功徳」と言いま
す。たとえば、人に物をあげたり、貧しい人に施したりすることを、よく「功徳を積む」
と言います。さらに、善行を施した結果、良い結果が生まれる。つまり「善行善果」と言
うのが功徳です。
*「無功徳」は、報いを求めて功徳を積む事。
どんな善い行いであろうと、どんな立派な行為であろうと、これをしたなら何かの善い報
いがあるという功利的な考えがある限りそれは本当の善い行いとは言えないということ。
また、自分のした行為を美化し拡大してエゴを満足させようとする考えがある限り、これ
は何ら善い報いはない。と言う厳しい考え方です。