心のよりどころ。毎日が日曜日。

恩師に人のために生きることを学びました。
「自利利他」を座右の銘としています。
相談無料困った時はご一報ください。

心に響く禅語 その7

2009-10-26 16:05:34 | 生きる智慧

禅語 その7  苦しみを乗り越える

*寒時寒殺闍黎(かんじは しゃりをかんさつし) 

       苦しみを受けとめる覚悟

難しい言葉ですが、闍黎(しゃり)とは僧の尊称だそうです。

「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」
(かんじはしゃりをかんさつし ねつじはしゃりをねつさつす)

という禅語です。

この「寒暑」は、寒さや暑さだけのことではなく、心の中の苦悩

や煩悩も私達にとっての「寒暑」です。

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、その悩みを避けたり、一時

逃れをするのは、寒いときに「寒い」と文句をいい、暑いときに

は「暑い」と愚痴るのと同じこと。苦しいときこそ、その悩みを避

けるのではなく、ありのままに受けとめる。つらい事柄に「なりき

る」ことによって、人は煩悩苦悩から解放されるという教えです。

辛い事をしっかり受けとめる勇気を持つことが、苦しみを乗り越

えるためには必要です。

大変難しいことですが、いろいろと悩み多いこの時世において、

これを乗り切るためには自分の現状をしっかり見て受けとめる

ことが大切なのでしょう。八正道にある「正見」(しょうけん)の意

味と同じではと私は思います。


坐禅について

2009-10-23 17:02:38 | 生きる智慧

*坐禅(ざぜん) 自分の心を見つめて静かに座る。

坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合い、対話する形から成り

立っています。対話する

のは、自分ともう一人の別な自分、つまり心の中の自分、魂の自

分です。

本来の自分と向き合って自問自答することこそが尊いのです。

自分を知ろうとするほど、イヤな思いをすることもあるかも知れま

せん。でも、そうして人は強くなれるし、他人にも優しくなれるのです。

と教えています。

又、座敷の「座」の字は「广」(まだれ)の中に坐と書きます。この、

まだれは家・建物を意味します。よって「座敷」は家の中で敷物の上

で向かい合って座ると言うことです。

皆さん、坐禅の経験はありますか。

たまには、一人静かに坐禅して自分を見つめることも大切かもしれ

ません。


なぜ鬱病は治りずらいか

2009-10-16 17:48:26 | 人生相談

*鬱病(うつびょう)の話

ある先生の鬱病についての講演を聴いてきました。最近、若い人

から中高年にまで多くの鬱病の患者が増えているといいます。

現に公務員の中にも増加傾向の話を聞いています。

急に登庁しなくなり電話の連絡もつかなく困っているとの話です。

講演を聴いていると鬱には、いろいろな原因が重なり発生すると言

います。人間は誰でも欝病の要素は満ち合わせているといいます。

それが何らかの原因で出てきてしまうと言います。結局は、鬱病の

根本的な原因は現代医学においても、はっきりと分からないのが現

状のようです。

病院では専門の先生が、直接患者と直面しカウンセリングを行い、

薬を処方しているのが現状のようです。結局、長期にわたり治療す

るほかないようです。

私のところへも鬱病の相談は多いです。病院でのカウンセリングの

内容を聞きますと、先ず「よく寝むれますか」「食事はどうですか」「気

分はどうですか」などと日常の状況を聞かれるそうです。何も楽しい

話は無いとのことです。

カウンセリングは、相手の心や気持を和らげることではないかと思い

ますが。

では、家では話も笑いもせず何もしないで部屋に閉じこもり、音楽や

テレビを聞いたり見たりしてゴロゴロしている鬱の方が、私のところへ

来られますと、ちゃんと話をしますし、笑顔も出ます。なぜなのか分か

りません。

訪ねてこられたときと、帰るときの顔付きがまったく違ってお帰りにな

ります。このような方は先ず安心です。必ず近いうちに病から開放さ

れます。私自身もビックリしています。

今まで何人もの方が鬱病の相談に見えましたが、全員立ち直ってい

ます。

私は私なりに、師より教えて頂いた話をするだけですが、この話は、

鬱病になる原因を簡単に話すことなのです。現代の医学者や科学者

は絶対信用しないような話ですが、師のところへは病院の先生や有

名な病院の看護士さんたちが定期的に通って話を聞きに来ていまし

た。

私のところに来て、急に快方に向かって治ってしまった患者さんに対

して、最近は先生が疑問を持ち「何かしてきましたか」と聞くそうです。

私は聞かれても「何もしていません」と答えるように言っていますので

患者さんはその通り答えているようです。

このことは、他の病気の方の場合も同じで必ず急に快方に向かって

ゆくと聞かれるそうです。「何かあるんではないか?」と先生方も思っ

ているのではないでしょうか。実際に何度も先生から問われた人もお

ります。

人間は宇宙の中の自然の生き物ですから、宇宙の真理の中に生か

されているのです。

その真理を知り、その教えに従って行動すれば良いわけで、何も難

しいことはありません。

その教えに中に、さまざまな問題の原因が記されているので、それ

を教えてあげることによって問題は解決するようです。

まだまだ未熟な自分ですが、師の教えを伝えながら少しでも皆さん

のために貢献できるようこれからも努力するつもりです。


心に響く禅語 その6

2009-10-16 16:30:13 | 生きる智慧

こころに響く禅語 その6

*心無罣礙(しんむけいげ)

私達がよく耳にする「般若心経」の一節である。「心無罣礙」と

は、心のわだかまりがないこと。私達は心配事があれば心配

に心を捉われてしまい、悲しいことがあれば、悲しみに心を奪

われてしまうようである。そしていつも心のどこかにひっかかり

を作って、くよくよ考え込んでいる。その心のさまたげを「ケイ礙」

という言葉で表現している。「ケイ」とは魚を捉える網のこと、

「礙」とはさまたげを意味し、私達の心が網にひっかかってもつ

れた状態、私達は心配や悲しみに心を奪われなければいいの

だが、実際問題として不可能である。生きている人間である以

上悲しみ苦しみはつきまとう。何か心配事があるとそのことが

頭から離れない。夜もおちおち眠れない。ひどい場合はノイロ

ーゼになったりする。

だから心の「こだわり」「わだかまり」を捨てるように般若心経は

教えている。悲しみは悲しみとして受け止める。苦しみは苦しみ

として受け止める。それが、「心無ケイ礙」の説くところである。

悲しみ、苦しみはだれでも受ける。受けた心のダメージをどのよ

うに処理していくのかが、問題なのである。自己の宗教心をしっ

かりと確立している人は、きっと立ち直りは速いと思う。私達は

物事に「こだわりつつ」「こだわらない」心を学ばなければならない

。心に「わだかまり」「こだわり」を持たないで生きることは大変難

しいことです。

しかし、「わだかまりや」「こだわり」を持っているとすべてに疑心

暗鬼となってしまう。

「先入観」や「わだかまり」を出来るだけ持たないように生きること

が大切でしょう。


心に響く禅語 その5

2009-10-14 18:06:03 | 生きる智慧

心にしみる禅語 その5

に早く気が付いてもらいたいですね。

私たちの周りにも自分で持っていても、何でも欲しがる人がいますが、この「我唯知足」

張らずに「自利利他」の精神で行っていけば争いや、問題も起こさずにすむのでしょう。

人生を生きることも、商売をするにしても、役人でも、国家でも、すべての人間が我欲を

という。「自利利他」の心が現れています。。

人に差しあげ、施し、最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せである

にて足る事也」と述べました。必要な分を必要なだけ用意し、茶を点ててまず仏に供え、

千利休(せんのりきゅう)は、茶道の心得として、「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほど

「知足」いい言葉ですね。

をよく見つめることです。相談者の中にも足るを知らない人が結構いらっしゃいます。

ない人はいませんが、自分の器に合った欲で満足するべきでしょう。それには先ず、自分

足るを知り強欲にならないことが大切です。問題や悩みの根本は「欲」です。誰もが欲の

満足できない人のことです。

「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、まだまだ欲しい、と

を傾けなければならない。

「吾唯知足」は現代の日本人が理解出来にくい言葉である。理解出来にくいがゆえに、耳

思う。

んだら言えるが、欲しかったものが目の前に山積みになったとき、はたして可能かなとも

は、「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」の心であろう。食事などでお腹がふくら

心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を是非とも理解しなければならない。具体的に

と言われる。

ことを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」心はいつも乱れている」

える心のゆとりを持たねばならない。「吾唯知足」は、釈尊が説かれた教えである。「足る

私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分、つまり「ごちそうさま」と言

が有名でしょう。

「足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書かれたつくばい

*知足(たるをしる) 欲しがることをやめてみる 〔遺教経〕