「執着」について
執着にもいろいろあります、そんなに悪いものでもないと思います。「幸い」に「丸い」
と書いて「執」なのです。「幸多かれ」の幸が丸いのです。
「日常生活と執着」について、日常生活の中で、物事にこだわってしまう自分の心を明ら
かにしましょうということです。その結果、たいてい問題が起こって、そこに苦が生まれ
てしまうからです。
人は、何かを成し遂げようとする時には、その物事に対して高い集中力をもって臨むこと
が必要です。チャランポランでは何事も上手くいきません。目標を定めて一生懸命やって
いけば物事は成就できるのです。でも「執着」といわれるようなやり方では、あまりよい
結果を生みません。どうして上手くいかないのか。なぜ「執着」と言われてしまうのか、
それは人がはじめに、ある物事に対して心に抱く動機に問題がありそうです。
たとえば、「この商売で、うんと儲けていい思いをしよう」などという動機で始めると、
あまりいい結果は出ないものです。自分がいい思いをしたいというような動悸は、この
「執着」につながりやすい。
でも、「この仕事は自分の性に合っているし、この地域の皆さんにも喜ばれるだろう。続
けていれば何とかやっていけるだろう」と考えて始めたものは結果的にいいものが出てく
るようです。
じゃく
お経文に「五欲に著し、悪道の中に落ちなん」と言う一節があります。「着し」というの
が「執着」のことです。つまり欲の心が「執着」につながって、「悪道の中に」落ちてし
まうと言っています。この「五欲」とは、単に五つの欲望という意味ではなく、目・耳・
鼻・口・そして身体という五つの感覚器のことを言います。見たり・聞いたり・嗅いだり
味わったり・触ったりしたことに「これはいいものだ」と欲が芽生えて、手に入れようと
することに「執着」し、結果的に「悪道」の中に陥ってしまうのだ、とこの一節は教えて
います。
つまり、自分中心の考え方で物事に取り組むという事が「執着」であり、その結果、うま
くいかなかったり、病気になったりして追い詰められる。追い詰められると、ますます自
分自分中心に物事を判断するようになるから、さらに悪い結果に悩まされる。このように
人生の中で悪い環境(悪道)に自らを陥れてしまう事になるぞ、とお経文では戒めている
のです。
では、こうならないためにはどうすればよいか、何を頼りにすればよいか、それは仏教で、
有名な法門があります。それが「八正道」と呼ばれているものです。
お釈迦様は、間違いのない人生を歩むための方法として「八つの正しい道」を説いておら
れます。
一、正見(ものの見方が正しいこと)
ニ、正思(ものの考え方が正しいこと)
三、正語(言葉に表れるところがみな正しいこと)
四、正業(日常の行いが正しいこと)
五、正命(命とは職業のこと。正しい職業を選ぶこと)
六、正精進(正しいことに全力を注ぐこと)
七、正念(正しいことを心に念じて忘れないこと)
八、正定(正しいことによって心が決定すること)
この八つなのですが、すべての項目に「正しい」と言う言葉がついています。この「正し
い」と言う言葉が問題です。どうすれば正しい見方が出来るのか、正しく考えることが出
来るのか、正しく話すことが出来るのか、ということになります。
人間だれしも自分が可愛いいですから、少しでも自分をよくしたい、うまくやっていきた
いと考えます。そこでどうしても自分中心に考え、行動してしまいます。でも何かすると
きに、あまりにも自分の五感のおもむくまま、好き勝手に自分中心にやってしまうと、正
しい判断が出来ずに良くない結果を招いてしまうものです。そこで、この八正道を心がけ
てやっていくと良い結果が約束されます、と言うことです。
「我を捨てれば事態は変わる」と言われています。問題が起こるのは、たいてい人の心が
原因になっているのですから、まず自分の心を正せばおのずから問題は消滅するのです。
自己中心が度を越すと、人からたぶん「頑固者」等と言われるでしょう。自分のプライド
や、やり方に「執着」してはダメです。では、なぜそういうものを持っているかというと、
それはことごとく前の現われなのです。人間というのは、前世に何かあったことのその現
れで、この世に生まれてくる。このようになっているのでうす。
お経文の中に「宿業の余罪、重障にして」の一節です。
この「宿業」というのは、前世です。私たちが前世でやった行いの現われが宿業です。
そして「宿業の余罪」というわけですから、前世にやらなければならないことがまだ残っ
ているというのです。今世だって同じです。自分でまだやらなければならないことを残し
ておくと、来世でまたやらなければならないのです。前世で残してきたことと、今世でし
なければならない事が重なると言うのが「重障」です。今世出やらなければならない事は
「現業」。つまり、「現業と宿業と重なってきて現れる」と言うことなのです。「障」と
いうのは、「さわり」という意味で、これは良くない問題ですから解決しなければなりま
せん。
前世のことなど知らないと言う人があるかもしれない。
「前世なんかあるわけない」と、覚えてないのですから仕方がないです。人間はこの世に
オギャーと生まれてきた時、どこの家に生まれて、どこの誰かは自分では分らないでしょ
う。だんだん大きくなって、赤ん坊の頃毎日、〇〇と名前を呼ばれているうちに自分の名
前は〇〇なのだ、と認めるわけです。生年月日も、お前の誕生日は何年何月何日だよ。と
いわれて初めて認めるわけです。ところが、全然知らない時間帯がありますね。生まれて
まだ一、二歳の頃はほとんど覚えていない。覚えていないのに、親や周りが生年月日や名
前を教えてくれたのです。そして私たちはそれを素直に認めているのです。
そうして自分が知らないものを認めているならば、自分の前世の知らないこともある程度
認めておかないと、結果的にうまくいかないという事なのです。
自分では覚えのない事でも、今起こっている問題の原因をちゃんと作っているのです。
それが因縁なのです。因縁は決して恐いものではありません。「懺悔経」というお経文に
は、素晴らしいことが書かれています。
「一切の業障海は皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え。衆罪は霜
露の如し、慧日能く消除す」といって、実相、つまり見えない因縁を観じて懺悔すれば、
その罪は朝日に当った霜や露のようにみるみる溶けて無くなってしまうのだ。と教えてい
ます。とにかく、自分の知らないこと、覚えのない事でも素直に認めて懺悔をしていけば
問題は解決するのです。
「執着」は、いろいろな問題の原因となることが多いのです。