人生を癒す 百歳の禅語を読んで -7-
*すべてを一人称で見ていく(すべてを自分に置換えて)
「子供を叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」の教えがあります。
これも、子供や年寄りを二人称、三人称で見ないで、一人称の私として見なさい、という
ことなのです。だから、目の前の子供がいたずらしたら「子供を叱るな」。これは叱っては
いけないと言うんじゃなく。叱る前に一人称の見方として「○○よ、お前があの年齢の時
にした悪戯を、いま、あの子がお前に見せているんだぞ。あの子はお前の子供の時の姿な
んだぞ」と捉える。これが一人称の見方です。
そう見ていくと、安易に叱れないですね。自分の過去が目の前の子供にあると思うと叱れ
ない。だから「叱るな」。と言うわけです。
自分の子供を叱る時は「自分は小言を言う資格はないけれど・・・」と心に痛みを感じな
がら叱る。そうすると血も涙もこもった温もりのある叱責ができるでしょう。
すべてを一人称として「あれなら私だ」と受け止めていくと、物の見方も考え方も変わっ
てくる事なのです。
同じように、年寄りが呆けて頓珍漢なことをやっているのを笑ってはいけないのです。
「未来の姿があそこにあるぞ。何年か先の自分の姿があの姿だぞ」と見る。あれは自分の
未来の姿だと第一人称でたどってくると、笑うことも出来なくなってくる。
だから「年寄り笑うな行く道じゃ」なのです。・・・・・・・・身につまされますね。
*努力に終りはない ingで行く
「はけばちりはらえばまたもちり積もる。人の心も庭の落葉も」。「はけばちり」とは、木
の葉が上から散ってくる。掃いても掃いても散ってくる。「はらえばまたもちり積もる」
とは、家の中でハタキをかけてきれいになったと思うけれども、翌日になるとまたちりが
積もるということです。だから毎日、毎日掃除をしなければならない。向こうが永遠に続
くのなら、こちらもまた永遠に続けていかなければならない。
そして、これは「人の心も庭の落葉も」同じであると。いう事です。
人間の心も、過ちも、それから悪も、いくら自制しても進んで行く。だから、こちらも永
遠に努力しなければいけないのです。終りということがないのです。
これは「無上」ということを言っているのです。「上が無い」と言うことです。
「少にして学べば壮にして為すなり、壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して
朽ちず」。若い時に勉強していると、年を老っても衰えない。老いて学べば死んでも終っ
てしまう事はない、と言っているのです。
学び続ければ続けるほど、分からないところが出てくるものです。それに答えるために永
久に学んでいくのが解決です。親から言われたからだとか、先生に言われたからだとか、
宿題があるから、というように他からの命令で勉強したものは身につかない。なにか必要
があって学べばそれは必ず実になるということなのです。
必要に迫られて勉強をしてくると、真剣ですから早く身につきます。
若い時は、仕方なしにとか、他からの命令で勉強する事が多いから身につかないけれど、
自分で恥をかいたり、自分で行き詰まって勉強すると、真剣だから身についてくる。
だから勉強するのには遅すぎることはない。必要な時に学んでいけば極めて大きな効果を
生むことが出来るのです、そう考えると、人生というのは「これでお仕舞い」ということ
はない。いつもingで永遠に続くのです。
人間も「これでいい」ってことはないのです。
*心の草を取り、心の落葉を拾う
欠点や過ちに気づいたら、その都度、その都度、気が付いたときに取っていけば、いつで
も過ちがないということです。
私たちも、自分の心の落葉や雑草を教えられたり、気づいたらその都度、掃いたり、抜い
たりする努力に励みたいものです。