「公害の原点」とも言われる水俣病が公式確認されてから、5月1日で60年となる。日本の高度経済成長の陰で、熊本県水俣市の工場から垂れ流された有機水銀に侵された人たちは、今も苦しみを抱えている。
私は強く反省している。水俣病があることを頭から消え去っていた。過去のことと思い込んでいた。とんでもない。もがき苦しんでいる方が一杯いる。私が以前読んで力になった本が二冊。石牟礼さんも宇井さんも亡くなってしまった。もう一度勉強をし直そう。
苦海浄土―わが水俣病 (講談社文庫) 石牟礼 道子 (著)
新装版 合本 公害原論 宇井 純 (著)
朝日新聞 特集記事から
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12336037.html
NNNドキュメント「生きる伝える“水俣の子”の60年」
http://tv.yahoo.co.jp/program/15838987/
【見どころ】
かつて「魚湧く海」と呼ばれた豊かな海で発生した水俣病。チッソがプラスチックを作る過程で出たメチル水銀を海に流し、汚染された海でとれた魚を食べた人々に病気が広がった。
私たちが便利な暮らしを獲得する陰で、水俣には犠牲となった多くの胎児や子どもたちがいた。公式確認から60年となる水俣病。人生を生き抜き、還暦前後を迎えた水俣の子は今、私たちに何を伝えているのか。
【内容】
◆水俣病公式確認のきっかけとなった少女
公式確認のきっかけとなった田中実子さん(62)は2歳で発症。元気に海辺を走り回っていた女の子が、ある日突然人生を奪われた。言葉を発することもできず、60年間ずっと同じ部屋の中で生き続けている。「生き証人」の実子さんは話すことができなくても、生きることで水俣病のむごさを伝えている。
◆還暦を迎える胎児性患者
胎児性患者の鬼塚勇治さん(59)は、水俣病による障害でうまく話すことはできないが、自分に残された機能を使って水俣病を伝え続けている。そのひとつが「書」。鬼塚さんの筆づかいからは誰にも真似できない独特の書が生み出される。一日一日を丁寧に暮らす姿は、私たちに生きる意味を伝えている。
◆水俣病と認めてもらうために闘う女性
胎児性患者と同時期に水俣に生まれた倉本ユキ海さん(61)は幼い頃から体の痛みに苦しんできたが、水俣病と認められていない。体の不調で子どもを育てられず施設に預けたこともある。人生の多くを諦めてきたという倉本さん。自分の過去を受け入れるため、水俣病と認められるまで裁判で闘う覚悟だ。
それぞれの60年を生き抜いてきた水俣の子は、現代を生きる私たちに命の重みを伝え続けている。