三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2005/11/29

2000-01-24 01:15:19 | 映示作品データ
 ■オテサーネク Otesanek(チェコ、2000年)
監督:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
製作:Jaromir Kallista ヤロミール・カリスタ
原作:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
脚本:Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル
撮影:Juraj Galvanek ユライ・ガルヴァーネク
美術:Eva Svankmajerova エヴァ・シュワンクマジェロヴァ / Jan Svankmajer ヤン・シュヴァンクマイエル

 132分の作品の、前半を観てもらいました。
 『ひなぎく』の監督は女性でしたが、こちらは男性監督です。どちらもチェコの女性を描いているが(立場や年齢層は異なるが)、やはり視点の違いは感じられるだろうか?

 いきなり水槽から赤ん坊をアミですくい取る屋台があったり、スイカを切ったら赤ん坊が入ってたりと、サイコホラー仕立てで進行する。不妊の夫妻の妄想かと思いきや、木のお化けが実体化していく。
 いよいよオティークが生命を持ってからは、民話との平行が保たれ(子ども向けにアレンジされたおとぎ話ではなく、残酷な原-民話)、モンスターホラーのジャンルへ移行。主人公も、ホラーク夫妻から、少女アルジュビェトカへ移ってゆく。アルジュビェトカとオティークの交流物語となるのだ。とはいってもほのぼの系ではなく、オティークを世話するアルジュビェトカが、アパート住人のうち誰をオティークのエサにするかをくじで決めてゆくなど、不気味な場面満載。(なんと、くじの母集団にはアルジュビェトカの両親が真っ先に入れられるのだ!)
 というわけで、ヤン監督にしては珍しくナンセンス色の薄い、正統ホラー映画。ちなみにオティークは、猫、郵便配達人、市の調査員のほか、アパートの住人3人を殺します。
 セリフ、音楽など、ありがちなお約束に拘束されない、非ハリウッド的な芸術映像。21世紀を控えてもCGを使わずコマ撮りアニメで貫き通す手作りの特撮が新鮮だ。

 シュヴァンクマイエル作品は、社会風刺物、純実験映像の短編をこれからいくつか観てゆくことにします。

2005/11/22

2000-01-23 04:36:27 | 映示作品データ
 ■今回は、フランシス・レイの3曲を聴いてもらいました。すでに観た『白い恋人たち』『男と女』と並ぶヒット曲。ムード音楽のスタンダードナンバーを集めたアルバムには必ず収録されています。
 
 パリのめぐり逢い Live for Life     1967
 雨の訪問者のワルツ Passager de la Pluie 1970
 ある愛の詩 Theme from Love Story   1970

 正直に言うと、私は、フランシス・レイ狂でした。中学生のときにどっぷりハマりました。映画は観ないまま映画音楽集を聴くのが好きでしたが、特に「好きだ……」と愛着していた5、6曲がすべてフランシス・レイ作曲だということを後から知り、なんと自分の感性に合った作曲家なのだと驚いたので、狂うのも当たり前でしょう。高校時代には、自分でカセットテープに編集したフランシス・レイベスト作品集を友だちに配って回ったほどです。

 その後、芸術鑑賞のキャリアも長くなってフランシス・レイより好きな音楽家にも多数出会ったためしばらく離れていましたが、映画音楽・ムード音楽のジャンルでは断トツに一番好きなのがレイであることに変わりありません。時間があれば、授業の中でまた何曲かフランシス・レイの曲を聴いていただく機会を設けたいと思います。

 フランシス・レイがヒット曲を連発していた1960~70年代に比べ、現在は、映画音楽は明らかに低調です。今も主題歌がヒットすることはなきにしもあらずだが、ドラマ内のBGMとしての「映画音楽」とは違う(きょう、そのことを書いた学生もいました)。なぜあの年代に映画音楽の黄金時代があったのか、考えてみる価値はありそうです。

 なお、最近、私が公の文章でフランシス・レイに言及したのはこれ
 『ビリティス』は、大きくて高い豪華本なので、図書館で借りて(無ければ図書館に購入希望を出して)是非読んでみてください。映画のサウンドトラック盤はここ

2005/11/15

2000-01-22 02:50:20 | 映示作品データ
■ひなぎく Sedmikrasky 1966年 チェコスロバキア
           監督: Vera Chytilov ヴェラ・ヒティロヴァ

 援助交際で熟年男をひっかけては合流して食い逃げ、を繰り返す二人の少女が、ヒマにまかせてさらなるハチャメチャを繰り広げる。冒頭から戦争のドキュメンタリーフィルムが挿入されるので、政治的な映画かと思いきや、社会的メッセージゼロの単なるナンセンス劇が続き、しかしいつのまにか政治的含意を持ったドラマらしき形態を備えかけたところで唐突に終わってしまう。
 ところどころに表われた「歯車」のイメージは、冷徹に運営される共産主義政権のメカニズムを指しているのだろうか。この映画の2年後には「プラハの春」と呼ばれる改革運動(共産党への権力集中の是正など)と動乱、ソ連の軍事介入が起こる。その前夜に作られたこの映画には、「自由」という理想が、しょせんは空回りし無意味な混乱をもたらすだけだといった諦めと皮肉が込められているようでもある。自由奔放であることが特に禁じられた存在「女の子」にその空虚な自由を演じさせたところにこの映画の深みがあると言えよう。二人の少女は、共産党公認教義である「堕落した資本主義の欲望」を表現することによって、逆にその資本主義への人々の憧れを呼び覚ます仕組みになっているようだ(二人の姿が見えなかった人たちは、体制に完全に洗脳された人々?)。監督ヴェラ・ヒティロヴァは、69年(「プラハの春」の直後)から7年間、創作活動を禁止されてしまう。
 メッセージはともかく、二人の表情とさまざまな映像表現を見ているだけで楽しめるパンク映画だ。前回の『男と女』(制作年が同じ)との技法上の類似は明らかだが、あくまでドラマ的ストーリーを持つあのフランス映画に対して、このチェコ映画は、徹底してディテールから成っていることがわかる。やたらチョキチョキとハサミで物を切りまくっていたのは、巨視的なストーリー性に信頼を置けない、見通しの立たない国民の生活感覚を反映しているのかもしれない。(ちなみに、ラストの御馳走に満ちた部屋は、共産党幹部のパーティーの会場という設定だそうである)。
 このような映像作品を観ると、毎年大ヒットする類のハリウッド映画はつくづく「芸術作品ではないな……」と実感できるのではなかろうか。

2005/11/1

2000-01-21 03:45:19 | 映示作品データ
 ■『男と女』Un Homme et Une Femme (1966)
監督: Claude Lelouch
音楽: Francis Lai

 ~『男と女』特有の2つの手法~

 ◆1.二人が出会って車の中で会話をする場面で、現在はモノクロ、回想場面(女の会話内容)はフルカラーという構成になる。通常は、現在(現実)はカラー、過去(夢、空想など)はモノクロというのが標準的使い分けだが、それをあえて逆にしている。女の中では亡き夫の存在がまだ大きいことが暗示され、ラスト直前の小破局が予示されている。
 なお、その後も現在=モノクロ、回想場面=フルカラーというパターンが何度か現われるが(とくに終盤のベッドシーン)、必ずしもそれが厳格に守られているわけではなく、回想が入らない現実が不意にモノクロやセピアに変化したり、回想内容がモノクロであったりと、図式的なわかりやすさをあえて外す試みがなされている。
 ◆2.『白い恋人たち』に見られたドキュメンタリー手法。レーシングカー試走の場面では、人物は口パクでセリフは聞こえない。フランシス・レイの疾走系サブテーマ音楽が流れるのみ。カーの点検や係の指示が完全にドラマのパターンを外して、ドキュメンタリータッチに徹している。同様の手法は、レース本番のシーン(教室では早送りで飛ばした部分だが)にも見られる。
 もう一つ、子どもをまじえて4人で食事するシーンでは、子どもたちに勝手に喋らせ、おとな二人もまた、ドラマ用セリフではないプライベートモードのつぶやき口調。セリフが途切れたり遮られたり口ごもったり言い間違えたり、脚本セリフではないドキュメンタリーモードに一時浸りきっている。
 このドキュメンタリー手法は、前述の、モノクロシーン挿入手法によって強められているようだ。ドキュメンタリー映像には、モノクロとカラーが混在することが少なくないことを思い出そう。

 作り物っぽくなりがちなラブストーリーに、以上2つの手法が独特のリアリティを与え、亡き夫がしばしばサンバを謳うミュージカル的な構成も相俟って、いろいろなジャンルの混在した魅力的な映画に仕上がっている。(ラブストーリー+ドキュメンタリー+ミュージカル+スピード)

 ■この映画への私のもう一つのプチレビューは→ここ←

2005/10/25

2000-01-20 21:30:30 | 映示作品データ
 『日本の悲劇』
   監督: 亀井文夫 1908~1987

  ■この映画は、アメリカ当局によって上映禁止・没収となった。
   アメリカの望むとおり、戦時中の日本の政策を批判した映画に仕上がっているのに、なぜ禁止されたのだろうか?
   主な理由は2つある。すなわち、この映画は――
 
 ●1.冒頭から盛んに、「財閥」と軍部との結託を批判し、資本主義勢力の危険さを強調している。そして、戦争に反対したのは共産党であったということが主張される。
 つまり、ファシズム・軍国主義は資本主義の産物であり、共産主義こそが正義であるという図式のメッセージが一貫して伝えられている。
 こういった宣伝は、ソ連の共産主義勢力に対抗し始めている資本主義大国アメリカにとって、たいへん都合が悪い。日本の共産主義勢力が強くなってしまうと、日本占領政策が意味をなさなくなるのである。

 ●2.天皇を何度も直接に批判している。戦争中の日本軍の残虐行為が、直接に天皇の命令によって行なわれたということや、東京裁判では天皇も戦犯として裁かれるべきだといったメッセージが仄めかされている。これは、天皇を使って日本統治をスムーズに進めようとしたアメリカ占領軍にとって都合が悪い。最高司令官マッカーサーは、東京裁判に対して、天皇を出廷させてはならないと強く要望しており、天皇の戦争責任を追及したい裁判長ウェッブ(オーストラリア人)との間にトラブルが生じていた。
 そんな中で、この映画における天皇を批判する言説は、マッカーサー司令部にとって危険だったのである。

 1.を書いた人はいませんでしたが、2.は、5人の学生が書いていました。

 ●前回に観た『汝の敵、日本を知れ』では、アメリカ側も日本の財閥と天皇を敵視していた。しかし、戦争が終わって、アメリカの敵が日本ではなくむしろ共産主義ということになると、天皇を通じて日本をコントロールし、資本主義陣営の強力な同盟国へと日本を育て上げることがアメリカにとって急務となった。
 終戦という、劇的な世界情勢の変化により、「財閥」と「天皇」は、アメリカにとっては真の敵と戦うための便利な道具となっていたのである。
 (なお、1950年に朝鮮戦争が始まって共産主義の脅威がいよいよ高まると、マッカーサーは、吉田茂首相に警察予備隊を作らせ(自衛隊の前身)、完全に武装解除したはずの日本に対し、日本軍の再建を許すどころか、要求したのである。)