「いかん、忘れた」
の、孔明の一言がすべての始まりであった。
どうなされたのです、と偉度がたずねると、孔明は、あらためて袖やら、衣にあわせてしつらえた手提げやらを探っているのであるが、やはり失せ物はみつからないらしく、柳眉をしかめた。
「なにをお忘れでございますか」
「文鎮だ。此度、よい石が手に入ったというので、主公がわざわざわたくしに贈ってくださったものなのだが」
「ああ」
あの、とのさまにしては趣味の良い、と偉度は心のなかで付け加えた。
光沢といい、肌触りのなめらかさといい、適度な重さ、大きさといい、その豪奢な彫り物といい、非の打ち所のないものなのである。しかも洒落ていることには、水を跳ね除けて泳ぐ勇壮な魚の姿がそこにはあり、つまりは世人の口に上った『水魚の交わり』を、形にしたものであった。
すなわち、劉備の軍師にもとめられた孔明であるが、若いことと無名であることなどが古参の将兵の不満を招いた。
それを押さえるために、劉備は「俺が孔明を得たのは、魚が水を得たようなもんなんだよ。堪えておくれな」と言ったことからはじまる。
あたらしい奥方をもらってから、とのさまは趣味がよくなられた、と偉度は思うが、孔明は以前のご夫人がたのほうに強い思いいれがあるらしく、そういった話題にはあまり乗ってこない。
それはともかく、孔明は、贈られた文鎮を大切にしていたので、公務ではもちろんのこと、自邸にもそれを持ち帰り、大切に使っているのであった。
孔明のことばを聞いて、御者と一緒に迎えに来ていた、養子の喬が、なにも言われないうちから馬車を降り、とことこと左将軍府に入って行こうとする。
偉度はそれを留めた。
「お待ちなさい、喬さん。今宵は、あなたはお父上と一緒にお呼ばれなのでしょう。遅刻をしてしまいますよ。軍師のお忘れ物ならば、わたくしがもちに行き、あとで届けに参りましょう」
言うと、横で聞いていた孔明は、すまなさそうに言う。
「よいのか」
「それも主簿の仕事でございますから。道中の、せっかくの親子水入らずに邪魔をしてもいけない。許靖さまも首を長くしておまちでしょう。さあ、遅くならないうちに出かけておしまいなさい。ただでさえ、遅れてしまっているのだから」
「ならば、おまえの言葉に甘えるとしようか。だが、偉度よ、もう暗いゆえ、見つからぬかもしれぬ。そのときは無理をせず、もう帰ってよいぞ。あの文鎮がよい、というのは、単なるわたしの我侭であるからな」
「わたくしを誰とお思いか。闇夜にはつよい。お任せなさい。それでは、またあとでいずれ」
喬は、軽く偉度に手を振ってふたたび馬車に乗り込み、そして孔明も偉度を気にしつつも、許靖の家に向かって行った。
許靖という男、頭に馬鹿がつくほどの正直者で、数々のあきれるほどの不運…董卓に殺されそうになったり、孫策に殺されそうになったり、南蛮の地に逃げたら風土病にかかったうえに道に迷って一族が全滅しかけたり、劉備にひとりで降伏しようとして世の中の笑いものになったり…を乗り越えて年を取った男である。
偉度が見るに、おそらく肝臓を傷めているのではないか、というくらいに肌の浅黒い老年だ。
無邪気な男で、さまざまな人生経験ゆえか、男女貴賎のべつなく人を扱うため、さして実力があるというわけでもないのだが、ふしぎとひとから慕われた。
孔明などは、実地の知識をもっとも知る人物として、大切に遇しているほどである。
そして、偉度は、孔明の養子である喬が、許靖の半分は冗談ではなかろうか(しかしおそろしいことにすべて実話なのであるが)苦難の物語の数々を聞くのが好きだということを知っていたので、お招きに遅れては気の毒だろうと思ったのだ。熱心な聞き手を許靖もよろこび、孔明も含めて、許靖は喬を屋敷にまねいてくれたのである。
どうせ自分は、だれかに招かれていることもないし、こじんまりした屋敷はあるが、『弟妹たち』がたまに寄ってくる程度である。
その頻度も、おそらく義理以外のなにものでもない、と偉度は思っている。
偉度は優秀すぎるのと、孔明に近すぎるために、ほかの『弟妹たち』は遠慮をして胸襟をひらかないのである。
雑踏のなかにいれば、沁み込んだ癖ゆえに、あやしい動きをしているものを探してしまうし、だれかの家に遊びに行く宛てもない。酒は飲めるが、そこにまつわる思い出に、暗いものがありすぎる。
偉度が、左将軍府に戻ると、いつもおっとりした宿直の爺さんが、中からびゅんと矢のように飛び出してきた。
「どうしたのです」
偉度が尋ねると、爺さんは、すっかり泡を食っている様子で、一気にまくしたてた。
「孫が産気づきまして、ええ、まえの子は流産だったので、今度、危なければ、二度と子は望めぬと医者のやつに言われておりまして。それが急にいまさっき、産気づいたというのですよ。使いのものが、孫が苦し紛れに、爺さんに会いたい、爺さんに会いたいと、言っていると言うのです」
「そうかい、そうかい、で、宿直を変わって欲しいというのだね」
「いえいえ、とんでもない。この近所にうちの甥っ子が住んでおりまして、孫の家に行く途中、声をかけてゆきますので、そいつに代わりをさせます。ですが、そのあいだだけ、偉度さまに宿直をお願いしてよろしいでしょうか。この礼はかならず」
「ああ、わかった、そんなつばを唾して泣きながら頼むのじゃないよ。わたしだって用があるのだから、戻ってきたのであるし。ただし、ずっとはいられないよ。甥とかいう男に、早く来てくれるように言ってくれるならば、すこしのあいだだけ、ここに留まろう」
「ありがとうございます。この礼はかならずいたします」
そういって爺さんから、偉度は、左将軍府のあらかたの部屋の鍵束を預かり(孔明が私室がわりに使っている部屋は、孔明が鍵を管理していた)、左将軍府に入っていった。
ああ、こういうときは、軍師ならば、『よい子が生まれるといいね』と答えるのだろうな、と偉度は思う。
表ばかり真似をしても、やはり中身は『胡偉度』である、というわけか。
孔明の衣のお下がりを纏い、自然とその後れ毛を指先でもてあそぶ仕草や、小首をかしげて誰何する仕草、ものの言い方、考え方、あきれるくらいに見つめて、それが真似たおかげで、偉度という人間から浮いたものではなくなるまでになった。
孔明を必死に真似ているのは、孔明に心酔しているわけではない。
もちろん、孔明のことは特別に思ってはいるが、それはおそらく、諸葛孔明と言う人物だけが、自分の過去に辿れる扉であるからだ。
孔明の中にある、己のもっとも慕わしい過去を、偉度はいまもって探し続けているのである。
ときに、自分はもう終わっているのだ、とさえ思う。いま呼吸をし、目を開き、世の中を見ているのは、孔明が名づけた『胡偉度』であって、以前の自分ではない。
過去を捨て、恨みを吐き出し生きよ、と孔明は言ったが、やはり、あの人は、愛される一方の星の下に生まれているので、恨みとは、つねに執着や思慕と、離れがたく結びついていることが、ぴんとこないのであろう。
わたしは愛されなかった。その思いをずっと背負って、これから先も生きねばならない。
ああ、鬱陶しい。こんなことは終わりにしないか。楽に死ねる方法なんて、いくらでもあるのだ。
ほら、そこの文鎮。そいつで自分の頭を勝ち割ってしまってもよいし、だれが置いて言ったのやら、帯をちょいと柱にひっかけて、そこに首を載せればそれでおしまい。
護身用の刀で動脈を切ってしまえば、いささか派手だが血の海で凄絶に死ねる。苦しみたくなきゃ毒がいちばん。万が一のためにと言葉巧みに頭をさげて、奥方にもらった毒は、いつも懐にしまってある。
おや、なんだかさっきから、自分は死ぬことばかり考えているな。
なにをしにもどったのであったかな。そうそう、文鎮だ。
胡偉度は、孔明の卓の上にあった文鎮を取ると、丁寧に絹の布にくるんで、ふところに入れた。
そして、星明りに輪郭だけをおぼろに浮かび上がらせる、黒い座卓の並ぶ部屋を振り返る。
昼間の賑わいが、うそのように静かだ。
なんとなく、柱にもたれて座り込み、偉度は闇の中でしばらくじっとしていた。闇にも質があると思う。これは、水にこぼした墨の類いの闇だな、と偉度は思った。
昼間の喧騒を吸収し、大気に薄めて、朝にそなえている静かな闇だ。
闇を凝視していたあと、何も考えることもなくなったので、偉度は立ち上がると、部屋を出た。偉度の中では、過去は足を取るものではなく、彼の中に組み込まれ、いまも生きているものである。
こうして時々落ち込んで、死すら幻想することを危ぶんで、孔明が『恨みを吐き出せ』と忠告したのであれば、やはりあのひとはたいした方なのだろう。
そうして許靖の館にいるであろう孔明のもとへ行こうとする偉度であったが、ふと、左将軍府の一室の、明かりが漏れているのに気がついた。
いましがた残業だというのか。もはや宿直(とのい)の爺さんしか残っていなかった深夜に?
もしや、爺さんの孫が産気づいたというのは狂言で、賊ではないのか。
偉度はすぐさま、孔明の主簿の面を捨て、しなやかな獣のような刺客の顔を取り戻した。
足音をさせることなく、ゆっくりと明かりの漏れる部屋へと近づく。
そして、そおっと隙間から中をのぞくと、蝋燭の明かりに、真っ白な布を頭から被った、何者かのすがたがぼおっと浮かび上がっているのである。うしろ姿からすれば、どうやら女。
女の賊? 細作か?
「何者ぞ!」
偉度は叫び、部屋に入ると、すぐさま、白い女の咽喉笛に、短い刀をつきつけた。そうして、気配ですでにさぐっていた、傍らの男が近寄ってくるのを、すばやく片足で蹴り飛ばす。
「おいおい、宿直の爺さん、いつからこんなに強くなったんだ!」
と、蹴られて壁に叩きつけられた男は、呻きながらも憎まれ口を叩く。
白い女のほうは、自らこぼれた魚のように口をぱくぱくさせて、気絶寸前なのだ。
男の声にきき覚えがあった。
咽喉笛につきつけた刃をゆるめ、蝋燭に浮かび上がる男の顔を見る。
費文偉であった。
「なにをしている、おまえたち!」
「なにをもなにも。偉度、休昭が白目を剥いている。解放してやってくれぬか」
たしかに、白い布を頭から被った女だと思っていたものは、女などではなく、死者が纏うような白い衣に、布を被って髪を垂らしただけの、董休昭であった。
それが、蟹のようにぶくぶくと泡を吹いて倒れかけている。
費文偉は、巴蜀の名族費家のあととり息子であり、族父である伯父と二人暮しである。
名族というからにはきらびやかな生活を想像させがちであるが、費家というのは運のない家で、その家の隆盛の中心であった女性は劉璋の母、つまり追い出された昔の君主の母親だった、というややこしいいきさつのため、新勢力から敬遠され、びんぼう生活を余儀なくされている。
一方の董允は、巴蜀を代表する官吏の鑑・董和の一人息子である。
その潔癖な態度と男気あふれる人格によって、絶大なる民衆の人気を勝ち得ている董和であるが、いかんせん世渡りベタで、せっかく実力はあるのに、いつも浮上できないでいるため、やはりこれまたびんぼう生活を余儀なくされている。
この不器用なびんぼう一家の息子が、びんぼうを鍵にして仲良くなるのは自然の道理。偉度が知る限り、この二人は仔犬の兄弟のように、いつも一緒にいるのであった。
つづく……
今回は偉度が主役のおはなしです。
の、孔明の一言がすべての始まりであった。
どうなされたのです、と偉度がたずねると、孔明は、あらためて袖やら、衣にあわせてしつらえた手提げやらを探っているのであるが、やはり失せ物はみつからないらしく、柳眉をしかめた。
「なにをお忘れでございますか」
「文鎮だ。此度、よい石が手に入ったというので、主公がわざわざわたくしに贈ってくださったものなのだが」
「ああ」
あの、とのさまにしては趣味の良い、と偉度は心のなかで付け加えた。
光沢といい、肌触りのなめらかさといい、適度な重さ、大きさといい、その豪奢な彫り物といい、非の打ち所のないものなのである。しかも洒落ていることには、水を跳ね除けて泳ぐ勇壮な魚の姿がそこにはあり、つまりは世人の口に上った『水魚の交わり』を、形にしたものであった。
すなわち、劉備の軍師にもとめられた孔明であるが、若いことと無名であることなどが古参の将兵の不満を招いた。
それを押さえるために、劉備は「俺が孔明を得たのは、魚が水を得たようなもんなんだよ。堪えておくれな」と言ったことからはじまる。
あたらしい奥方をもらってから、とのさまは趣味がよくなられた、と偉度は思うが、孔明は以前のご夫人がたのほうに強い思いいれがあるらしく、そういった話題にはあまり乗ってこない。
それはともかく、孔明は、贈られた文鎮を大切にしていたので、公務ではもちろんのこと、自邸にもそれを持ち帰り、大切に使っているのであった。
孔明のことばを聞いて、御者と一緒に迎えに来ていた、養子の喬が、なにも言われないうちから馬車を降り、とことこと左将軍府に入って行こうとする。
偉度はそれを留めた。
「お待ちなさい、喬さん。今宵は、あなたはお父上と一緒にお呼ばれなのでしょう。遅刻をしてしまいますよ。軍師のお忘れ物ならば、わたくしがもちに行き、あとで届けに参りましょう」
言うと、横で聞いていた孔明は、すまなさそうに言う。
「よいのか」
「それも主簿の仕事でございますから。道中の、せっかくの親子水入らずに邪魔をしてもいけない。許靖さまも首を長くしておまちでしょう。さあ、遅くならないうちに出かけておしまいなさい。ただでさえ、遅れてしまっているのだから」
「ならば、おまえの言葉に甘えるとしようか。だが、偉度よ、もう暗いゆえ、見つからぬかもしれぬ。そのときは無理をせず、もう帰ってよいぞ。あの文鎮がよい、というのは、単なるわたしの我侭であるからな」
「わたくしを誰とお思いか。闇夜にはつよい。お任せなさい。それでは、またあとでいずれ」
喬は、軽く偉度に手を振ってふたたび馬車に乗り込み、そして孔明も偉度を気にしつつも、許靖の家に向かって行った。
許靖という男、頭に馬鹿がつくほどの正直者で、数々のあきれるほどの不運…董卓に殺されそうになったり、孫策に殺されそうになったり、南蛮の地に逃げたら風土病にかかったうえに道に迷って一族が全滅しかけたり、劉備にひとりで降伏しようとして世の中の笑いものになったり…を乗り越えて年を取った男である。
偉度が見るに、おそらく肝臓を傷めているのではないか、というくらいに肌の浅黒い老年だ。
無邪気な男で、さまざまな人生経験ゆえか、男女貴賎のべつなく人を扱うため、さして実力があるというわけでもないのだが、ふしぎとひとから慕われた。
孔明などは、実地の知識をもっとも知る人物として、大切に遇しているほどである。
そして、偉度は、孔明の養子である喬が、許靖の半分は冗談ではなかろうか(しかしおそろしいことにすべて実話なのであるが)苦難の物語の数々を聞くのが好きだということを知っていたので、お招きに遅れては気の毒だろうと思ったのだ。熱心な聞き手を許靖もよろこび、孔明も含めて、許靖は喬を屋敷にまねいてくれたのである。
どうせ自分は、だれかに招かれていることもないし、こじんまりした屋敷はあるが、『弟妹たち』がたまに寄ってくる程度である。
その頻度も、おそらく義理以外のなにものでもない、と偉度は思っている。
偉度は優秀すぎるのと、孔明に近すぎるために、ほかの『弟妹たち』は遠慮をして胸襟をひらかないのである。
雑踏のなかにいれば、沁み込んだ癖ゆえに、あやしい動きをしているものを探してしまうし、だれかの家に遊びに行く宛てもない。酒は飲めるが、そこにまつわる思い出に、暗いものがありすぎる。
偉度が、左将軍府に戻ると、いつもおっとりした宿直の爺さんが、中からびゅんと矢のように飛び出してきた。
「どうしたのです」
偉度が尋ねると、爺さんは、すっかり泡を食っている様子で、一気にまくしたてた。
「孫が産気づきまして、ええ、まえの子は流産だったので、今度、危なければ、二度と子は望めぬと医者のやつに言われておりまして。それが急にいまさっき、産気づいたというのですよ。使いのものが、孫が苦し紛れに、爺さんに会いたい、爺さんに会いたいと、言っていると言うのです」
「そうかい、そうかい、で、宿直を変わって欲しいというのだね」
「いえいえ、とんでもない。この近所にうちの甥っ子が住んでおりまして、孫の家に行く途中、声をかけてゆきますので、そいつに代わりをさせます。ですが、そのあいだだけ、偉度さまに宿直をお願いしてよろしいでしょうか。この礼はかならず」
「ああ、わかった、そんなつばを唾して泣きながら頼むのじゃないよ。わたしだって用があるのだから、戻ってきたのであるし。ただし、ずっとはいられないよ。甥とかいう男に、早く来てくれるように言ってくれるならば、すこしのあいだだけ、ここに留まろう」
「ありがとうございます。この礼はかならずいたします」
そういって爺さんから、偉度は、左将軍府のあらかたの部屋の鍵束を預かり(孔明が私室がわりに使っている部屋は、孔明が鍵を管理していた)、左将軍府に入っていった。
ああ、こういうときは、軍師ならば、『よい子が生まれるといいね』と答えるのだろうな、と偉度は思う。
表ばかり真似をしても、やはり中身は『胡偉度』である、というわけか。
孔明の衣のお下がりを纏い、自然とその後れ毛を指先でもてあそぶ仕草や、小首をかしげて誰何する仕草、ものの言い方、考え方、あきれるくらいに見つめて、それが真似たおかげで、偉度という人間から浮いたものではなくなるまでになった。
孔明を必死に真似ているのは、孔明に心酔しているわけではない。
もちろん、孔明のことは特別に思ってはいるが、それはおそらく、諸葛孔明と言う人物だけが、自分の過去に辿れる扉であるからだ。
孔明の中にある、己のもっとも慕わしい過去を、偉度はいまもって探し続けているのである。
ときに、自分はもう終わっているのだ、とさえ思う。いま呼吸をし、目を開き、世の中を見ているのは、孔明が名づけた『胡偉度』であって、以前の自分ではない。
過去を捨て、恨みを吐き出し生きよ、と孔明は言ったが、やはり、あの人は、愛される一方の星の下に生まれているので、恨みとは、つねに執着や思慕と、離れがたく結びついていることが、ぴんとこないのであろう。
わたしは愛されなかった。その思いをずっと背負って、これから先も生きねばならない。
ああ、鬱陶しい。こんなことは終わりにしないか。楽に死ねる方法なんて、いくらでもあるのだ。
ほら、そこの文鎮。そいつで自分の頭を勝ち割ってしまってもよいし、だれが置いて言ったのやら、帯をちょいと柱にひっかけて、そこに首を載せればそれでおしまい。
護身用の刀で動脈を切ってしまえば、いささか派手だが血の海で凄絶に死ねる。苦しみたくなきゃ毒がいちばん。万が一のためにと言葉巧みに頭をさげて、奥方にもらった毒は、いつも懐にしまってある。
おや、なんだかさっきから、自分は死ぬことばかり考えているな。
なにをしにもどったのであったかな。そうそう、文鎮だ。
胡偉度は、孔明の卓の上にあった文鎮を取ると、丁寧に絹の布にくるんで、ふところに入れた。
そして、星明りに輪郭だけをおぼろに浮かび上がらせる、黒い座卓の並ぶ部屋を振り返る。
昼間の賑わいが、うそのように静かだ。
なんとなく、柱にもたれて座り込み、偉度は闇の中でしばらくじっとしていた。闇にも質があると思う。これは、水にこぼした墨の類いの闇だな、と偉度は思った。
昼間の喧騒を吸収し、大気に薄めて、朝にそなえている静かな闇だ。
闇を凝視していたあと、何も考えることもなくなったので、偉度は立ち上がると、部屋を出た。偉度の中では、過去は足を取るものではなく、彼の中に組み込まれ、いまも生きているものである。
こうして時々落ち込んで、死すら幻想することを危ぶんで、孔明が『恨みを吐き出せ』と忠告したのであれば、やはりあのひとはたいした方なのだろう。
そうして許靖の館にいるであろう孔明のもとへ行こうとする偉度であったが、ふと、左将軍府の一室の、明かりが漏れているのに気がついた。
いましがた残業だというのか。もはや宿直(とのい)の爺さんしか残っていなかった深夜に?
もしや、爺さんの孫が産気づいたというのは狂言で、賊ではないのか。
偉度はすぐさま、孔明の主簿の面を捨て、しなやかな獣のような刺客の顔を取り戻した。
足音をさせることなく、ゆっくりと明かりの漏れる部屋へと近づく。
そして、そおっと隙間から中をのぞくと、蝋燭の明かりに、真っ白な布を頭から被った、何者かのすがたがぼおっと浮かび上がっているのである。うしろ姿からすれば、どうやら女。
女の賊? 細作か?
「何者ぞ!」
偉度は叫び、部屋に入ると、すぐさま、白い女の咽喉笛に、短い刀をつきつけた。そうして、気配ですでにさぐっていた、傍らの男が近寄ってくるのを、すばやく片足で蹴り飛ばす。
「おいおい、宿直の爺さん、いつからこんなに強くなったんだ!」
と、蹴られて壁に叩きつけられた男は、呻きながらも憎まれ口を叩く。
白い女のほうは、自らこぼれた魚のように口をぱくぱくさせて、気絶寸前なのだ。
男の声にきき覚えがあった。
咽喉笛につきつけた刃をゆるめ、蝋燭に浮かび上がる男の顔を見る。
費文偉であった。
「なにをしている、おまえたち!」
「なにをもなにも。偉度、休昭が白目を剥いている。解放してやってくれぬか」
たしかに、白い布を頭から被った女だと思っていたものは、女などではなく、死者が纏うような白い衣に、布を被って髪を垂らしただけの、董休昭であった。
それが、蟹のようにぶくぶくと泡を吹いて倒れかけている。
費文偉は、巴蜀の名族費家のあととり息子であり、族父である伯父と二人暮しである。
名族というからにはきらびやかな生活を想像させがちであるが、費家というのは運のない家で、その家の隆盛の中心であった女性は劉璋の母、つまり追い出された昔の君主の母親だった、というややこしいいきさつのため、新勢力から敬遠され、びんぼう生活を余儀なくされている。
一方の董允は、巴蜀を代表する官吏の鑑・董和の一人息子である。
その潔癖な態度と男気あふれる人格によって、絶大なる民衆の人気を勝ち得ている董和であるが、いかんせん世渡りベタで、せっかく実力はあるのに、いつも浮上できないでいるため、やはりこれまたびんぼう生活を余儀なくされている。
この不器用なびんぼう一家の息子が、びんぼうを鍵にして仲良くなるのは自然の道理。偉度が知る限り、この二人は仔犬の兄弟のように、いつも一緒にいるのであった。
つづく……
今回は偉度が主役のおはなしです。