※
周瑜のことばは本当だった。
大船団は樊口《はんこう》をはなれ、長江をふたたび遡上《そじょう》し、大地をまわり込む形で陸口《りくこう》へ向かいはじめた。
孔明もまた、周瑜らの動きを見定めるため、劉備とは別行動で陸口へ向かう。
あわただしい出立のさい、孔明は劉備に呼び止められた。
孔明の着物の袖をぐっと引っ張り、劉備は小さな声で素早く耳打ちしてくる。
「孔明、周公瑾にはじゅうぶん気をつけるのだ。あれはなにかを企んでいる顔だぞ。
たくさんの人間を見てきたが、あれはかなり上等な人間だろう。
だが、目の表情がときどき隠しようもなく暗くなる。
こちらをまったく信用していない証拠だ」
孔明は、さすがに劉備は人を見る目を備えているなとおどろいた。
短いあいだに、周瑜が孔明に対し、悪感情を持っていることを見抜いたらしい。
「よいか、無理をしてはならぬぞ、なにか異変を感じたら、すぐに子龍を頼れ」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
「おまえはわが軍のかなめだ。おまえがいなくなったら、われらの命脈も絶たれるも同然。
きっと生きて、また戻ってこい」
はい、と孔明は力強くうなずいて、劉備を安心させることにつとめた。
劉備もまた、うなずいて、孔明を力づけるためか、その腕をぽんと軽くたたいた。
ふたたび小舟に乗り、柴桑《さいそう》から乗って来たのと同じ船に乗り込む。
劉備はまた桟橋に立ち、孔明の姿をじっと見送ってくれていた。
それに応じて劉備に手を振りながら、孔明は、やはり樊口にも胡済《こさい》の姿がなかったなと考えていた。
情報がたしかなら、陸口で蔡瑁率いる水軍と、周瑜率いる水軍のぶつかり合いとなるだろう。
だれかが、それを見越して胡済を柴桑から連れ出したのか?
『しかし、だとしてもおかしい。偉度に戦局を左右させるほどの影響力があるとは思えない。
仮に蔡瑁が偉度(胡済)を連れ出したとしても、その目的はなんだ?
いまさら、襄陽《じょうよう》での仕返しをするためではあるまい。
そう考えるより、やはり周都督がらみで消えたと考えたほうがいいのだろうか……』
孔明は、ふたたび動き出した、先頭を走る巨大な|楼船《ろうせん》をじっと見つめた。
そのなかに、周瑜の姿があるはずである。
劉備は、周瑜に企みがありそうだと言った。
『気をつけねば』
孔明は自戒しつつ、過度な力みを身体から抜くため、ふっと肩を緩ませた。
※
陸口へ向かうその航路にて、孔明はかねてから用意していた甲冑を点検していた。
陸口をめぐって、おそらく激しい戦となるだろう。
曹操の機動力の高さは長阪においてたっぷり思い知らされているので、江陵を出立した後の曹操軍の速さを、孔明はあなどっていなかった。
徐々に陸口に近づくにつれ、緊張が高まってくる。
本格的な戦を目の当たりにするのは、叔父が豫章太守の地位をめぐって朱晧と戦った時以来かもしれない。
長坂の戦いにおいては、劉琦の船団を動かすために、曹操が来襲してくるまえに江夏に向かったので、その戦のすさまじさを体験していないのだ。
関羽が江夏にいた佞臣《ねいしん》を追っ払ったのは、小競り合いというべきもので、戦というほどのものではなかった。
いっぽうの趙雲は落ち着いたものだった。
船旅にもだいぶ慣れてきたらしく、顔色もよくなってきた。
頓服が効いたのかもしれない。
「船上で戦ったことはあるかい」
孔明がたずねると、趙雲は肩をすくめた。
「おれの先日までの様子を見て、それはないなとわかっているだろうに」
「いや、確かめておきたかっただけだ。
これまで長くあちこちの戦の話を聞いてきたが、わが君の軍や曹操の軍が、水戦をしたという話は聞いたことがなかったな」
「おれが思うに、曹操の兵どもも、かなり船酔いに悩んでいるだろうさ」
と、趙雲にしては意地悪く笑った。
そしてこうも言う。
「この戦、曹操はよほどうまくやらないと勝てないぞ。まあ、勝たなくてよいのだが」
「数では圧倒しているけれどね。しかし、地の利ではこちらが有利なのはちがいない」
船は半円を描くように陸地をまわり、やがて陸口に近づいた。
戦になるだろうとだれもが覚悟を決めていた。
孔明の乗る船の兵士たちも、甲冑や武器の点検に余念がなく、物々しい雰囲気が船内を包んでいたほどだった。
ほかの船も、おそらく同様の状況だったろう。
ところが、である。
陸口にはまだ何者の姿もなく、それどころか、水上には近在の集落の漁夫の小舟があるばかりで、曹操の船団は姿も形も見えなかった。
曹操が後れを取ったのだ。
周瑜の乗る楼船の合図にしたがい、江東の船団は、つぎつぎと陸口に上陸。
そして、あっという間に迎撃のための陣を敷いた。
それでもなお、曹操軍の姿は見えず、三日後にして、周瑜の放った細作《さいさく》が、おどろくべき情報をもたらしてきた。
小舟にて待機していた孔明は、魯粛の訪問で、その情報を知った。
「いや、ここ数年でいちばん驚いたな」
と、魯粛は興奮気味に言った。
じりじりと情報を待つ孔明と趙雲にたいし、魯粛は真顔で言う。
「曹操のやつ、陸口を取ろうとしたのはまちがいない。
ところが、連中は霧のなかで長江を渡ったようなのだ。
もとより、操船に不慣れなところへもってきて、霧で方向をくるわせて、なんと、陸口の南の洞庭湖《どうていこ》に入り込んじまったらしい。
そこで二日も浪費してしまったのだと」
孔明は唖然とした。
曹操と言えば、孔明にとっては不倶戴天の巨大な敵。
油断のならない稀代の兵法家である。
その曹操が、なんともまた驚きの愚を犯したものである。
孔明の目が点になっているのを面白がったのか、魯粛はにやにや笑いつつ、つづけた。
「それで陸口を取れなくなった曹操は、対岸の北の烏林《うりん》に陣取ったようだ」
「長江を渡るに渡れなくなった、ということですか」
「兵は拙速を貴ぶ。そのことを知らぬ曹操ではなかろうに、足を止めたのさ。
おそらく、曹操は自分たちが船に不慣れだということを痛感したのではないかな。
そして、慎重になってしまった。
兵の数は二十万近くと向こうが勝っているが、しかしもはや弱点が露呈している以上、恐るるに足らん相手と言い切っていいのではないかね」
そう言って、魯粛は愉快そうに笑った。
だが、曹操はあくまで曹操だった。
その後、曹操軍は動かず、烏林に要塞を建築。
そこを拠点に、陸口への上陸を目指す構えを見せた。
数で劣る江東の船団は、曹操軍を襲うことはできない。
膠着状態のまま、季節はゆっくりと冬に向かっていってしまうのである。
二章おわり
三章へつづく
周瑜のことばは本当だった。
大船団は樊口《はんこう》をはなれ、長江をふたたび遡上《そじょう》し、大地をまわり込む形で陸口《りくこう》へ向かいはじめた。
孔明もまた、周瑜らの動きを見定めるため、劉備とは別行動で陸口へ向かう。
あわただしい出立のさい、孔明は劉備に呼び止められた。
孔明の着物の袖をぐっと引っ張り、劉備は小さな声で素早く耳打ちしてくる。
「孔明、周公瑾にはじゅうぶん気をつけるのだ。あれはなにかを企んでいる顔だぞ。
たくさんの人間を見てきたが、あれはかなり上等な人間だろう。
だが、目の表情がときどき隠しようもなく暗くなる。
こちらをまったく信用していない証拠だ」
孔明は、さすがに劉備は人を見る目を備えているなとおどろいた。
短いあいだに、周瑜が孔明に対し、悪感情を持っていることを見抜いたらしい。
「よいか、無理をしてはならぬぞ、なにか異変を感じたら、すぐに子龍を頼れ」
「わかりました。お気遣いありがとうございます」
「おまえはわが軍のかなめだ。おまえがいなくなったら、われらの命脈も絶たれるも同然。
きっと生きて、また戻ってこい」
はい、と孔明は力強くうなずいて、劉備を安心させることにつとめた。
劉備もまた、うなずいて、孔明を力づけるためか、その腕をぽんと軽くたたいた。
ふたたび小舟に乗り、柴桑《さいそう》から乗って来たのと同じ船に乗り込む。
劉備はまた桟橋に立ち、孔明の姿をじっと見送ってくれていた。
それに応じて劉備に手を振りながら、孔明は、やはり樊口にも胡済《こさい》の姿がなかったなと考えていた。
情報がたしかなら、陸口で蔡瑁率いる水軍と、周瑜率いる水軍のぶつかり合いとなるだろう。
だれかが、それを見越して胡済を柴桑から連れ出したのか?
『しかし、だとしてもおかしい。偉度に戦局を左右させるほどの影響力があるとは思えない。
仮に蔡瑁が偉度(胡済)を連れ出したとしても、その目的はなんだ?
いまさら、襄陽《じょうよう》での仕返しをするためではあるまい。
そう考えるより、やはり周都督がらみで消えたと考えたほうがいいのだろうか……』
孔明は、ふたたび動き出した、先頭を走る巨大な|楼船《ろうせん》をじっと見つめた。
そのなかに、周瑜の姿があるはずである。
劉備は、周瑜に企みがありそうだと言った。
『気をつけねば』
孔明は自戒しつつ、過度な力みを身体から抜くため、ふっと肩を緩ませた。
※
陸口へ向かうその航路にて、孔明はかねてから用意していた甲冑を点検していた。
陸口をめぐって、おそらく激しい戦となるだろう。
曹操の機動力の高さは長阪においてたっぷり思い知らされているので、江陵を出立した後の曹操軍の速さを、孔明はあなどっていなかった。
徐々に陸口に近づくにつれ、緊張が高まってくる。
本格的な戦を目の当たりにするのは、叔父が豫章太守の地位をめぐって朱晧と戦った時以来かもしれない。
長坂の戦いにおいては、劉琦の船団を動かすために、曹操が来襲してくるまえに江夏に向かったので、その戦のすさまじさを体験していないのだ。
関羽が江夏にいた佞臣《ねいしん》を追っ払ったのは、小競り合いというべきもので、戦というほどのものではなかった。
いっぽうの趙雲は落ち着いたものだった。
船旅にもだいぶ慣れてきたらしく、顔色もよくなってきた。
頓服が効いたのかもしれない。
「船上で戦ったことはあるかい」
孔明がたずねると、趙雲は肩をすくめた。
「おれの先日までの様子を見て、それはないなとわかっているだろうに」
「いや、確かめておきたかっただけだ。
これまで長くあちこちの戦の話を聞いてきたが、わが君の軍や曹操の軍が、水戦をしたという話は聞いたことがなかったな」
「おれが思うに、曹操の兵どもも、かなり船酔いに悩んでいるだろうさ」
と、趙雲にしては意地悪く笑った。
そしてこうも言う。
「この戦、曹操はよほどうまくやらないと勝てないぞ。まあ、勝たなくてよいのだが」
「数では圧倒しているけれどね。しかし、地の利ではこちらが有利なのはちがいない」
船は半円を描くように陸地をまわり、やがて陸口に近づいた。
戦になるだろうとだれもが覚悟を決めていた。
孔明の乗る船の兵士たちも、甲冑や武器の点検に余念がなく、物々しい雰囲気が船内を包んでいたほどだった。
ほかの船も、おそらく同様の状況だったろう。
ところが、である。
陸口にはまだ何者の姿もなく、それどころか、水上には近在の集落の漁夫の小舟があるばかりで、曹操の船団は姿も形も見えなかった。
曹操が後れを取ったのだ。
周瑜の乗る楼船の合図にしたがい、江東の船団は、つぎつぎと陸口に上陸。
そして、あっという間に迎撃のための陣を敷いた。
それでもなお、曹操軍の姿は見えず、三日後にして、周瑜の放った細作《さいさく》が、おどろくべき情報をもたらしてきた。
小舟にて待機していた孔明は、魯粛の訪問で、その情報を知った。
「いや、ここ数年でいちばん驚いたな」
と、魯粛は興奮気味に言った。
じりじりと情報を待つ孔明と趙雲にたいし、魯粛は真顔で言う。
「曹操のやつ、陸口を取ろうとしたのはまちがいない。
ところが、連中は霧のなかで長江を渡ったようなのだ。
もとより、操船に不慣れなところへもってきて、霧で方向をくるわせて、なんと、陸口の南の洞庭湖《どうていこ》に入り込んじまったらしい。
そこで二日も浪費してしまったのだと」
孔明は唖然とした。
曹操と言えば、孔明にとっては不倶戴天の巨大な敵。
油断のならない稀代の兵法家である。
その曹操が、なんともまた驚きの愚を犯したものである。
孔明の目が点になっているのを面白がったのか、魯粛はにやにや笑いつつ、つづけた。
「それで陸口を取れなくなった曹操は、対岸の北の烏林《うりん》に陣取ったようだ」
「長江を渡るに渡れなくなった、ということですか」
「兵は拙速を貴ぶ。そのことを知らぬ曹操ではなかろうに、足を止めたのさ。
おそらく、曹操は自分たちが船に不慣れだということを痛感したのではないかな。
そして、慎重になってしまった。
兵の数は二十万近くと向こうが勝っているが、しかしもはや弱点が露呈している以上、恐るるに足らん相手と言い切っていいのではないかね」
そう言って、魯粛は愉快そうに笑った。
だが、曹操はあくまで曹操だった。
その後、曹操軍は動かず、烏林に要塞を建築。
そこを拠点に、陸口への上陸を目指す構えを見せた。
数で劣る江東の船団は、曹操軍を襲うことはできない。
膠着状態のまま、季節はゆっくりと冬に向かっていってしまうのである。
二章おわり
三章へつづく
※いつも閲覧してくださっているみなさま、どうもありがとうございます(^^♪
おかげさまで無事に二章目を連載し終えることができましたv
次回より三章がはじまります。
舞台は烏林、主役は徐庶です。
「飛鏡、天に輝く」とはちょっとちがう雰囲気でのお届けとなります。
どうぞ次回も見てやってくださいませ。
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