※
手当てが必要だった。
しかし、医者に連れて行くわけにはいかない。
自分の城内にある部屋でも駄目だ。目立ちすぎる。
だれか、城市なかでも静かな場所に屋敷を持つ、信用できる人間のところへと考え、浮かんだのはたった一人だけであった。
陳到の屋敷には、かんじんの陳到がいなかった。
代わりに主人を待つ妻と子どもたちがいたが、趙雲が病人を抱えて現われると、事情も説明しないうちから、奥の部屋を空けて寝台を作ってくれた。
そうして、家の者に頼んで、陳到に使いをやり、至急、屋敷に戻るようにと伝言させてもくれた。
斐仁がなぜ、夏侯蘭を襲ったのか、その理由がわからない。
わからないが、ふたたび、襲ってくる可能性がある。
夏侯蘭が追っているという、娼妓殺しの『狗屠』が、斐仁だというのか。
混乱しつつ、みずからも濡れた体を拭いて、趙雲は陳到を待った。
陳到はすぐに屋敷に戻ってきた。
事情を説明している暇がない。
陳到ならば、すくなくとも家族を守りきることができる。
うろたえる陳到から、斐仁の屋敷につけた見張りは、なんの連絡もよこしていないことを聞き出す。
そして趙雲は、斐仁の姿をもとめ、大きな雨粒から変化して、いまや糸雨が降り注ぐ町へ戻った。
※
やはり、あのときも、同じように雨が降っていた。
焼け落ちた易京の城壁のうえで、磔になった潘季鵬の姿を指して、夏侯蘭は、助けなければ、と訴えた。
そのとき趙雲の胸に去来したのは、悔恨にも似た、にがい思いであった。
趙雲は公孫瓚を見限った。
その判断に誤りはなかったと思う。
公孫瓚は易京に一大要塞を作り上げ、数年におよぶ籠城にも耐えうる、膨大な量の食糧を城内へ蓄えていた。
そのあいだにも、世の中は着々と動いていた。
公孫瓚の行動は、めまぐるしく動く時流に、ひとりだけ背を向けて、冬眠に入ろうとする熊のようであった。
兵は拙速を尊ぶ。
戦は短期決戦で望むもの、長びけば長びくほど国力の衰退を招く。
この孫子の言葉を用いて、趙雲は意見したが、無視された。
このころ、公孫瓚は白馬義従によってもたらされる名声におぼれ、奢侈にふけるようになっていたのである。
蛮族より、漢族をまもる英雄。
目下の敵で、漢王朝の血筋を濃く引く劉虞は、蛮族への対応が苛烈すぎると公孫瓚を非難したが、公孫瓚は皇帝にと嘱望されるほど名声の高かった劉虞すら敗北に追い込み、勢いを高めていた。
しかし、蛮族を追い立てたというその功績は、天下の全体から見ればごくごく小さなものであった。
それを理解できたのか、それとも、自分の限界がここまでだと気づき始めたからなのか。
あるいは、劉虞を殺したことで世のそしりを受けることが増えたことを気に病んだのか。
公孫瓚は、自分の内側に籠もるようになり、良臣を周囲から避けるようになっていた。
趙雲も避けられたひとりだったのである。
趙雲は悩みに悩んだすえ、当時、公孫瓚の客将であった劉備に、身の振り方を相談した。
劉備は、公孫瓚とは兄弟弟子にあたる。
おなじ盧植の私塾にかよった間柄だった。
公孫瓚は劉備を厚遇し、白馬義従のなかから選抜して、趙雲に劉備の主騎をまかせた。
劉備は趙雲を気に入って、一緒に連れてきた義兄弟たちと同じくらいに親しく接してくれた。
この方ならば、信頼できる。
公孫瓚のひととなりも、よく知っている。
なにより、外部の人間であるから、公平に見ることができるだろうと、趙雲は思ったのである。
以前に信頼できると思っていた潘季鵬から突き放されたばかりであったから、他人に悩みを切り出すのに勇気がいったが、ひとつ語りはじめれば、あとは止まらなかった。
夢中で語りながら、趙雲は、自分のなかに、これほどの澱が溜まっていたことを知った。
澱、というよりは、毒に近い。
信頼できる者を失くし、言葉を封じ込めていた。
それが解けて、気持ちがすっとした。
劉備は、趙雲の話をよく聞いてくれた。
劉備の言葉は洗練されていないし、鋭くもないが、じっくり考えたあとにつむぎだされる、誠実なものであった。
「おまえが、もう駄目だと思うのであれば、やっぱり、もう駄目なのではないか。兄弟子が駄目だとかいうのではなく、おまえ自身の気持ちが萎えてしまっているところが駄目だ。努力したところで、気持ちが変わらないかぎり、双方にとって、残念な結果にしかならないと思うぞ」
と、劉備は言った。
みじかい言葉であったが、それが趙雲の背中を押した。
主君が道を間違えると、家臣たちもおなじく滅びの道を歩くことになる、厳しい世の中である。
生き抜くために、趙雲は公孫瓚のもとを辞去することに決めた。
ちょうど、故郷の兄のひとりが死んだ、と訃報が入ってきた。
大手を振って、常山真定へ帰ることのできる、よい機会である。
このとき、すでに公孫瓚と袁紹の仲は修復不能なまでになっており、易京の緊張は、日に日に高まっていた。
趙雲の里帰りに、潘季鵬は大反対をした。
おまえは、いままで温情をかけてくださったわが君を見捨てるつもりなのかとなじった。
公孫瓚との間柄も、以前よりぎこちないものになっていると、趙雲は潘季鵬に言葉を尽くして説明した。
だが、潘季鵬は聞かなかった。
葬儀が終わったら、すぐに帰って来い、の一点張りであった。
趙雲は、対話をあきらめた。
殺しが巧い、と言われたことが、いつも心のどこかに棘として残っている。
一度だって、楽しんで殺しをしたことなどない。
逃げる兵士に矢を射掛けたのも、いま、徹底的に叩かなければ、彼らは形勢を整えて、すぐに逆襲してくると思ったからだ。
言い換えれば、いま敵を殺さねば、つぎに味方が殺されると思ったのだ。
味方が突破されれば、無辜の民が犠牲になってしまう。
武人の役目は、戦場で華々しい功績を上げること、わが君に華を持たせることではなく、民を守ることではないのか。
民を守るためならば、戦場で鬼になってもかまわない。
その覚悟でやってきた。
おそらく潘季鵬は、趙雲の想いは知らなかっただろう。
趙雲としては、自分の心を、恩人である潘季鵬が汲んでくれなかったことが、悲しかった。
つづく
手当てが必要だった。
しかし、医者に連れて行くわけにはいかない。
自分の城内にある部屋でも駄目だ。目立ちすぎる。
だれか、城市なかでも静かな場所に屋敷を持つ、信用できる人間のところへと考え、浮かんだのはたった一人だけであった。
陳到の屋敷には、かんじんの陳到がいなかった。
代わりに主人を待つ妻と子どもたちがいたが、趙雲が病人を抱えて現われると、事情も説明しないうちから、奥の部屋を空けて寝台を作ってくれた。
そうして、家の者に頼んで、陳到に使いをやり、至急、屋敷に戻るようにと伝言させてもくれた。
斐仁がなぜ、夏侯蘭を襲ったのか、その理由がわからない。
わからないが、ふたたび、襲ってくる可能性がある。
夏侯蘭が追っているという、娼妓殺しの『狗屠』が、斐仁だというのか。
混乱しつつ、みずからも濡れた体を拭いて、趙雲は陳到を待った。
陳到はすぐに屋敷に戻ってきた。
事情を説明している暇がない。
陳到ならば、すくなくとも家族を守りきることができる。
うろたえる陳到から、斐仁の屋敷につけた見張りは、なんの連絡もよこしていないことを聞き出す。
そして趙雲は、斐仁の姿をもとめ、大きな雨粒から変化して、いまや糸雨が降り注ぐ町へ戻った。
※
やはり、あのときも、同じように雨が降っていた。
焼け落ちた易京の城壁のうえで、磔になった潘季鵬の姿を指して、夏侯蘭は、助けなければ、と訴えた。
そのとき趙雲の胸に去来したのは、悔恨にも似た、にがい思いであった。
趙雲は公孫瓚を見限った。
その判断に誤りはなかったと思う。
公孫瓚は易京に一大要塞を作り上げ、数年におよぶ籠城にも耐えうる、膨大な量の食糧を城内へ蓄えていた。
そのあいだにも、世の中は着々と動いていた。
公孫瓚の行動は、めまぐるしく動く時流に、ひとりだけ背を向けて、冬眠に入ろうとする熊のようであった。
兵は拙速を尊ぶ。
戦は短期決戦で望むもの、長びけば長びくほど国力の衰退を招く。
この孫子の言葉を用いて、趙雲は意見したが、無視された。
このころ、公孫瓚は白馬義従によってもたらされる名声におぼれ、奢侈にふけるようになっていたのである。
蛮族より、漢族をまもる英雄。
目下の敵で、漢王朝の血筋を濃く引く劉虞は、蛮族への対応が苛烈すぎると公孫瓚を非難したが、公孫瓚は皇帝にと嘱望されるほど名声の高かった劉虞すら敗北に追い込み、勢いを高めていた。
しかし、蛮族を追い立てたというその功績は、天下の全体から見ればごくごく小さなものであった。
それを理解できたのか、それとも、自分の限界がここまでだと気づき始めたからなのか。
あるいは、劉虞を殺したことで世のそしりを受けることが増えたことを気に病んだのか。
公孫瓚は、自分の内側に籠もるようになり、良臣を周囲から避けるようになっていた。
趙雲も避けられたひとりだったのである。
趙雲は悩みに悩んだすえ、当時、公孫瓚の客将であった劉備に、身の振り方を相談した。
劉備は、公孫瓚とは兄弟弟子にあたる。
おなじ盧植の私塾にかよった間柄だった。
公孫瓚は劉備を厚遇し、白馬義従のなかから選抜して、趙雲に劉備の主騎をまかせた。
劉備は趙雲を気に入って、一緒に連れてきた義兄弟たちと同じくらいに親しく接してくれた。
この方ならば、信頼できる。
公孫瓚のひととなりも、よく知っている。
なにより、外部の人間であるから、公平に見ることができるだろうと、趙雲は思ったのである。
以前に信頼できると思っていた潘季鵬から突き放されたばかりであったから、他人に悩みを切り出すのに勇気がいったが、ひとつ語りはじめれば、あとは止まらなかった。
夢中で語りながら、趙雲は、自分のなかに、これほどの澱が溜まっていたことを知った。
澱、というよりは、毒に近い。
信頼できる者を失くし、言葉を封じ込めていた。
それが解けて、気持ちがすっとした。
劉備は、趙雲の話をよく聞いてくれた。
劉備の言葉は洗練されていないし、鋭くもないが、じっくり考えたあとにつむぎだされる、誠実なものであった。
「おまえが、もう駄目だと思うのであれば、やっぱり、もう駄目なのではないか。兄弟子が駄目だとかいうのではなく、おまえ自身の気持ちが萎えてしまっているところが駄目だ。努力したところで、気持ちが変わらないかぎり、双方にとって、残念な結果にしかならないと思うぞ」
と、劉備は言った。
みじかい言葉であったが、それが趙雲の背中を押した。
主君が道を間違えると、家臣たちもおなじく滅びの道を歩くことになる、厳しい世の中である。
生き抜くために、趙雲は公孫瓚のもとを辞去することに決めた。
ちょうど、故郷の兄のひとりが死んだ、と訃報が入ってきた。
大手を振って、常山真定へ帰ることのできる、よい機会である。
このとき、すでに公孫瓚と袁紹の仲は修復不能なまでになっており、易京の緊張は、日に日に高まっていた。
趙雲の里帰りに、潘季鵬は大反対をした。
おまえは、いままで温情をかけてくださったわが君を見捨てるつもりなのかとなじった。
公孫瓚との間柄も、以前よりぎこちないものになっていると、趙雲は潘季鵬に言葉を尽くして説明した。
だが、潘季鵬は聞かなかった。
葬儀が終わったら、すぐに帰って来い、の一点張りであった。
趙雲は、対話をあきらめた。
殺しが巧い、と言われたことが、いつも心のどこかに棘として残っている。
一度だって、楽しんで殺しをしたことなどない。
逃げる兵士に矢を射掛けたのも、いま、徹底的に叩かなければ、彼らは形勢を整えて、すぐに逆襲してくると思ったからだ。
言い換えれば、いま敵を殺さねば、つぎに味方が殺されると思ったのだ。
味方が突破されれば、無辜の民が犠牲になってしまう。
武人の役目は、戦場で華々しい功績を上げること、わが君に華を持たせることではなく、民を守ることではないのか。
民を守るためならば、戦場で鬼になってもかまわない。
その覚悟でやってきた。
おそらく潘季鵬は、趙雲の想いは知らなかっただろう。
趙雲としては、自分の心を、恩人である潘季鵬が汲んでくれなかったことが、悲しかった。
つづく