戸を烈しく叩く者がいる。
「人払いをせよと言ったはずだぞ」
関羽が言うと、聞きなれた声が、どこか掠れた声で返してきた。
「火急の用件でございます。どうか、わが君にお目通りを」
趙雲か、と関羽と劉備は顔を見合わせ、戸を開けた。
つねに冷静沈着な趙雲にしては、まるで似つかわしくない、切迫した声であった。
おのれの家族を殺したという部下を追っているのではなかったか。
戸をひらくと、趙雲が、うずくまるようにしていた。
いや、実際にうずくまっている。
燭の明かりに映えたその顔は蒼白で、これまた、普段の様子とはかけ離れたものである。
「如何した。孔明ならば、ここにおるぞ」
趙雲の火急の用件、というのが、このところ孔明絡みばかりであったので、劉備はそう言ったが、べつにからったわけではない。
場は、わずかにも和まず、趙雲は、平伏したまま、震える声で告げた。
「襄陽城から早馬が参りまして…わが君、申し訳ございませぬ!」
そう言うと、趙雲は平伏したまま、地面に顔を擦り合わせるようにして、泣き始めた。
孔明は、咄嗟に声をかけられずにいた。
まだ短い付き合いであったが、趙雲がこれほどまでに感情を乱しているのを目の当たりにして、実のところ、おどろいていたからだ。
それに、徐庶のこともあって、頭が麻痺して、対処ができなかった。
こういうときに強いのが劉備である。
「おいおい、なんだっていうのだ、今宵は、おまえもか。泣いていちゃ、わからぬであろう。なにがあったのだ」
劉備は言いながら、身を震わせる趙雲の前に、おなじように座り込んだ。
こうしてわざと揶揄することで、相手の客観性をとりもどさせ、自身も平常心を保とうとするのが、劉備のやり方であった。
「襄陽城から、劉公子より早馬が参りました」
「劉公子だと? それで?」
劉備に促され、ごくり、と趙雲がつばを呑んだ。
「わが配下の斐仁が、劉琦さまの家臣を、襄陽城にて斬殺し、その場にて捕らえられた、と」
「なんだと! なぜだ!」
関羽が叫ぶのと同時に、ばたばたと足音がして、麋芳と劉封が、連れ立ってやってきた。
孔明は、趙雲の報告の衝撃で、かえって冷静さを取り戻した。
そうして、武装した将兵を引き連れた、麋芳と劉封をみて、まずいな、と舌打ちをした。
麋芳は、麋竺の弟である。
おっとりした兄とはちがって、弓馬の才能を高く買われ、武将として劉備の配下に連なっている。
劉封は、劉備の実子である阿斗が生まれる前に養子にした少年であるが、孔明が軍師として配下に加わってから、孔明に対立する一派の中核を為していた。
両名とも、孔明があらわれるより前から、趙雲に反感を持っていた。
敵意を剥きだしにしている二人に対し、趙雲は、らしくないことに、すっかりおのれを失くしており、劉備が懸命になだめている。
守らねば。
咄嗟にそう思い、素早く頭を働かせはじめた。
「子龍、ここにおったか! わが君のもとへ逃げ込むとは、卑怯なり!」
麋芳はがなるように言った。
眉の濃さと、目の細さがつりあっていないために、かえって強い印象を与える風貌をしている。
その顔は興奮し、朱に染まっていた。
「わが君、表で襄陽の使者の伊籍どのが待っておられます。子龍を捕縛し、早く襄陽城へ引き渡さねば、劉州牧と戦になりますぞ!」
その言葉に、劉備は素早く反応した。
「莫迦を申すな! まさかおまえら、子龍が先走って、襄陽城になんだかややこしい陰謀を仕掛けたとでも思っているではなかろうな」
劉備はうなだれる趙雲の両肩に、息子にするように、手を置いて励ましていた。
趙雲は言葉を返さない。
沈黙に乗じるように、麋芳がつづけて訴えてきた。
「そのまさかでございます。斬殺された家臣は、かねてより長子の劉琦殿を跡継ぎにと、伊機伯(伊籍)殿とともに、推しておられた方。
これで、襄陽城の群臣の意見は、次男である劉琮殿に傾きましょうぞ。劉琦殿を推されているわが君の分も悪くなり、曹操が南下した場合、襄陽城からの支援が見込めなくなるかもしれませぬ!」
「養父上、子龍はおそらく、蔡氏につながりのある、『とある御仁』の意を受けて、こたびのことを、養父上に相談なく画策したに相違ありませぬ。
劉琮殿が家督を継げば、その御仁を通して、養父上が劉琮殿の後ろ盾として、荊州を意のままに出来ると踏んだのでしょう。
いまならまだ、子龍ひとりに責めを負わせれば、襄陽城側も納得することでございましょう。何事もなく済みます。ご決断を!」
劉封が麋芳のことばを後押しするかたちで、前に進み出て、付け加える。
荊州の太守である劉表には、二人の息子がおり、長子を劉琦、次男を劉琮、といった。
本来であれば、家督は長子が相続するものと決まっているのだが、悪いことにこの劉琦、身体が弱く、くわえて気が弱い性質で、太守の器ではなかった。
一方の劉琮はまだ少年だが、利発な性質で、劉表は目にいれても痛くないほどに可愛がっている。
おなじように、生母の蔡夫人への寵愛も深かった。
さらにこの蔡夫人は、おのれの生んだ子を次の州牧の地位につけるべく、あの手この手で劉表に劉琦のことを讒言し、劉琦を疎んじるように仕向けていたのである。
群臣は黙っていない。
劉琮が若すぎるのと、横暴に権力を振るう蔡一族への反発もあり、いま、襄陽城はすべての家臣を巻き込んで、真っ二つにわれて、争いを起こしているのだ。
その蔡夫人の姪が、黄夫人、つまりは孔明の妻なのだ。
劉封はつまり、孔明が、劉琦を除き、劉琮に家督を継がせることで、蔡一族へ恩を売り、同時に後ろ盾の名のもとに、実権を劉備に握らせようとしているのだ、と言いたいのである。
つづく
「人払いをせよと言ったはずだぞ」
関羽が言うと、聞きなれた声が、どこか掠れた声で返してきた。
「火急の用件でございます。どうか、わが君にお目通りを」
趙雲か、と関羽と劉備は顔を見合わせ、戸を開けた。
つねに冷静沈着な趙雲にしては、まるで似つかわしくない、切迫した声であった。
おのれの家族を殺したという部下を追っているのではなかったか。
戸をひらくと、趙雲が、うずくまるようにしていた。
いや、実際にうずくまっている。
燭の明かりに映えたその顔は蒼白で、これまた、普段の様子とはかけ離れたものである。
「如何した。孔明ならば、ここにおるぞ」
趙雲の火急の用件、というのが、このところ孔明絡みばかりであったので、劉備はそう言ったが、べつにからったわけではない。
場は、わずかにも和まず、趙雲は、平伏したまま、震える声で告げた。
「襄陽城から早馬が参りまして…わが君、申し訳ございませぬ!」
そう言うと、趙雲は平伏したまま、地面に顔を擦り合わせるようにして、泣き始めた。
孔明は、咄嗟に声をかけられずにいた。
まだ短い付き合いであったが、趙雲がこれほどまでに感情を乱しているのを目の当たりにして、実のところ、おどろいていたからだ。
それに、徐庶のこともあって、頭が麻痺して、対処ができなかった。
こういうときに強いのが劉備である。
「おいおい、なんだっていうのだ、今宵は、おまえもか。泣いていちゃ、わからぬであろう。なにがあったのだ」
劉備は言いながら、身を震わせる趙雲の前に、おなじように座り込んだ。
こうしてわざと揶揄することで、相手の客観性をとりもどさせ、自身も平常心を保とうとするのが、劉備のやり方であった。
「襄陽城から、劉公子より早馬が参りました」
「劉公子だと? それで?」
劉備に促され、ごくり、と趙雲がつばを呑んだ。
「わが配下の斐仁が、劉琦さまの家臣を、襄陽城にて斬殺し、その場にて捕らえられた、と」
「なんだと! なぜだ!」
関羽が叫ぶのと同時に、ばたばたと足音がして、麋芳と劉封が、連れ立ってやってきた。
孔明は、趙雲の報告の衝撃で、かえって冷静さを取り戻した。
そうして、武装した将兵を引き連れた、麋芳と劉封をみて、まずいな、と舌打ちをした。
麋芳は、麋竺の弟である。
おっとりした兄とはちがって、弓馬の才能を高く買われ、武将として劉備の配下に連なっている。
劉封は、劉備の実子である阿斗が生まれる前に養子にした少年であるが、孔明が軍師として配下に加わってから、孔明に対立する一派の中核を為していた。
両名とも、孔明があらわれるより前から、趙雲に反感を持っていた。
敵意を剥きだしにしている二人に対し、趙雲は、らしくないことに、すっかりおのれを失くしており、劉備が懸命になだめている。
守らねば。
咄嗟にそう思い、素早く頭を働かせはじめた。
「子龍、ここにおったか! わが君のもとへ逃げ込むとは、卑怯なり!」
麋芳はがなるように言った。
眉の濃さと、目の細さがつりあっていないために、かえって強い印象を与える風貌をしている。
その顔は興奮し、朱に染まっていた。
「わが君、表で襄陽の使者の伊籍どのが待っておられます。子龍を捕縛し、早く襄陽城へ引き渡さねば、劉州牧と戦になりますぞ!」
その言葉に、劉備は素早く反応した。
「莫迦を申すな! まさかおまえら、子龍が先走って、襄陽城になんだかややこしい陰謀を仕掛けたとでも思っているではなかろうな」
劉備はうなだれる趙雲の両肩に、息子にするように、手を置いて励ましていた。
趙雲は言葉を返さない。
沈黙に乗じるように、麋芳がつづけて訴えてきた。
「そのまさかでございます。斬殺された家臣は、かねてより長子の劉琦殿を跡継ぎにと、伊機伯(伊籍)殿とともに、推しておられた方。
これで、襄陽城の群臣の意見は、次男である劉琮殿に傾きましょうぞ。劉琦殿を推されているわが君の分も悪くなり、曹操が南下した場合、襄陽城からの支援が見込めなくなるかもしれませぬ!」
「養父上、子龍はおそらく、蔡氏につながりのある、『とある御仁』の意を受けて、こたびのことを、養父上に相談なく画策したに相違ありませぬ。
劉琮殿が家督を継げば、その御仁を通して、養父上が劉琮殿の後ろ盾として、荊州を意のままに出来ると踏んだのでしょう。
いまならまだ、子龍ひとりに責めを負わせれば、襄陽城側も納得することでございましょう。何事もなく済みます。ご決断を!」
劉封が麋芳のことばを後押しするかたちで、前に進み出て、付け加える。
荊州の太守である劉表には、二人の息子がおり、長子を劉琦、次男を劉琮、といった。
本来であれば、家督は長子が相続するものと決まっているのだが、悪いことにこの劉琦、身体が弱く、くわえて気が弱い性質で、太守の器ではなかった。
一方の劉琮はまだ少年だが、利発な性質で、劉表は目にいれても痛くないほどに可愛がっている。
おなじように、生母の蔡夫人への寵愛も深かった。
さらにこの蔡夫人は、おのれの生んだ子を次の州牧の地位につけるべく、あの手この手で劉表に劉琦のことを讒言し、劉琦を疎んじるように仕向けていたのである。
群臣は黙っていない。
劉琮が若すぎるのと、横暴に権力を振るう蔡一族への反発もあり、いま、襄陽城はすべての家臣を巻き込んで、真っ二つにわれて、争いを起こしているのだ。
その蔡夫人の姪が、黄夫人、つまりは孔明の妻なのだ。
劉封はつまり、孔明が、劉琦を除き、劉琮に家督を継がせることで、蔡一族へ恩を売り、同時に後ろ盾の名のもとに、実権を劉備に握らせようとしているのだ、と言いたいのである。
つづく