宿に帰ると、案の定、大姉が怒り心頭といったふうで待っていた。
「叔父さま、よくご無事でお戻りくださいました。
けれど亮、おまえはなぜ黙って出て行ったの。
とても心配したのよ、この短慮もの!」
「叱るな、わたしも黙って出て行ったようなものだ。
みな、心配をかけてすまなかったな」
諸葛玄がとりなすと、大姉は顔を怒らせたまま、ため息をついた。
「叔父上は亮に甘い」
「亡き兄上から預かった大事な子だからな。もちろん、おまえたちも大事だぞ」
「とってつけたようなお言葉ですこと」
「むくれるな。ほんとうにおまえたちも大事なのだ。
それより、瑾に手紙は書いたか」
「ええ、明日にでも人に託して、無事に襄陽についたとお知らせするつもりです」
「姉さま、叔父さま、ほっとしたら、おなかが空いたわ。
宿の方の料理の支度が終わったようですし、奥へ行きません?」
小姉のことばに、大姉はまた呆れ、諸葛玄は楽し気に笑った。
「そうだな、待たせてすまなかった。
早く食事をしよう。わたしも腹が減って仕方ない」
すると、奥のほうから孔明の弟である均が、諸葛玄のもとへと駆け寄って来た。
「叔父上、よかった、ご無事だったのですね」
「無事だとも。心配させてすまなかった」
均は諸葛玄に頭を撫でられ、気持ちよさそうにしている。
「もうおひとりで出かけないでください。心配で、心細かったです」
「すまぬ、すまぬ」
「叔父上はわたしたちの大切な叔父上なのですから。ねえ、姉上、兄上」
屈託のない幼い均のことばで、眉を吊り上げていた大姉も力を抜き、声を立てて笑い出した。
「そうね、わたしたちの叔父上ですもの。
ほんとうに、おひとりで出かけるにしても、今度から行き先をちゃんと教えてくださいませ」
「ほんとうにわかった。すまぬ、反省しておる」
「こんどはお供にわたしを連れて行ってください。邪魔は致しませぬ」
均のことばに目を細める諸葛玄は、ともに手をつないで、奥の料理が待っている部屋へと向かっていく。
その広い背中を見て、孔明は、わたしもまた、叔父上がどれだけ大切か、機会があったなら、きちんと伝えようと思った。
だが、その機会はこない。
なぜつぎに機会があるだろうと無邪気に思い込んでいたのか。
諸葛玄は、その二日後に、襄陽城にて横死を遂げることになる…
※
悲しい夢だった。
叔父の死の前後の記憶を生々しく思い出すことを避けられたのは、救いだ。
孔明はめずらしく寝台でぐずぐずしたあとに、やっと思いきって気合をいれて起き出した。
新野では、雨の日がつづいていたが、さいわいなことに今朝はみごとに晴れていた。
朝から木々に止まっている蝉たちが、いっせいに大合唱をしている。
夢の中では秋だったので、夏のさなかに現在はいるのだ、ということを思い出すのに、すこしかかった。
さわやかな浅黄色の衣に袖を通す前に、手桶で顔を洗う。
係の者に髪を結ってもらってから、鏡でじっとおのれの顔を見る。
もう夢の余波はない。
孔明はより気分を変えるため、軽く両手でおのれの頬を叩き、それから、ふうっと息をついた。
よし、いつもの自分だ。今日も張り切っていこうではないか。
朝餉をすましたあとには麋竺がやってきて、挨拶をしてくれるのが新野に来てからの日課になっていた。
しかしここ十日ほど、麋竺は体を壊したとかで、登城してきていない。
ふだん一緒の人物がいないというのも、寂しいものだと思いつつ、孔明は執務室へと向かう。
昨日までの雨もやみ、空はみごとな青天。
夏の朝らしく、みずみずしい緑の木々と、咲き誇る花々がさらに元気をあたえてくれる。
気持ちの良い朝であった。
麋竺がいないことで、自分のこなさなければならない仕事も増えてくるころだろうと孔明は予想したが、それはさほど苦ではなかった。
むしろ、望むところだといっていい。
孔明は、自分の力がぎりぎりまで試される状況が好きだった。
限界を超えようと努力していると、それまでの自分を脱皮できる境地をあじわえるからである。
そうして成長を積み重ねていって、自分がどこまで行けるのか、想像するだけでわくわくする。
つづく
「叔父さま、よくご無事でお戻りくださいました。
けれど亮、おまえはなぜ黙って出て行ったの。
とても心配したのよ、この短慮もの!」
「叱るな、わたしも黙って出て行ったようなものだ。
みな、心配をかけてすまなかったな」
諸葛玄がとりなすと、大姉は顔を怒らせたまま、ため息をついた。
「叔父上は亮に甘い」
「亡き兄上から預かった大事な子だからな。もちろん、おまえたちも大事だぞ」
「とってつけたようなお言葉ですこと」
「むくれるな。ほんとうにおまえたちも大事なのだ。
それより、瑾に手紙は書いたか」
「ええ、明日にでも人に託して、無事に襄陽についたとお知らせするつもりです」
「姉さま、叔父さま、ほっとしたら、おなかが空いたわ。
宿の方の料理の支度が終わったようですし、奥へ行きません?」
小姉のことばに、大姉はまた呆れ、諸葛玄は楽し気に笑った。
「そうだな、待たせてすまなかった。
早く食事をしよう。わたしも腹が減って仕方ない」
すると、奥のほうから孔明の弟である均が、諸葛玄のもとへと駆け寄って来た。
「叔父上、よかった、ご無事だったのですね」
「無事だとも。心配させてすまなかった」
均は諸葛玄に頭を撫でられ、気持ちよさそうにしている。
「もうおひとりで出かけないでください。心配で、心細かったです」
「すまぬ、すまぬ」
「叔父上はわたしたちの大切な叔父上なのですから。ねえ、姉上、兄上」
屈託のない幼い均のことばで、眉を吊り上げていた大姉も力を抜き、声を立てて笑い出した。
「そうね、わたしたちの叔父上ですもの。
ほんとうに、おひとりで出かけるにしても、今度から行き先をちゃんと教えてくださいませ」
「ほんとうにわかった。すまぬ、反省しておる」
「こんどはお供にわたしを連れて行ってください。邪魔は致しませぬ」
均のことばに目を細める諸葛玄は、ともに手をつないで、奥の料理が待っている部屋へと向かっていく。
その広い背中を見て、孔明は、わたしもまた、叔父上がどれだけ大切か、機会があったなら、きちんと伝えようと思った。
だが、その機会はこない。
なぜつぎに機会があるだろうと無邪気に思い込んでいたのか。
諸葛玄は、その二日後に、襄陽城にて横死を遂げることになる…
※
悲しい夢だった。
叔父の死の前後の記憶を生々しく思い出すことを避けられたのは、救いだ。
孔明はめずらしく寝台でぐずぐずしたあとに、やっと思いきって気合をいれて起き出した。
新野では、雨の日がつづいていたが、さいわいなことに今朝はみごとに晴れていた。
朝から木々に止まっている蝉たちが、いっせいに大合唱をしている。
夢の中では秋だったので、夏のさなかに現在はいるのだ、ということを思い出すのに、すこしかかった。
さわやかな浅黄色の衣に袖を通す前に、手桶で顔を洗う。
係の者に髪を結ってもらってから、鏡でじっとおのれの顔を見る。
もう夢の余波はない。
孔明はより気分を変えるため、軽く両手でおのれの頬を叩き、それから、ふうっと息をついた。
よし、いつもの自分だ。今日も張り切っていこうではないか。
朝餉をすましたあとには麋竺がやってきて、挨拶をしてくれるのが新野に来てからの日課になっていた。
しかしここ十日ほど、麋竺は体を壊したとかで、登城してきていない。
ふだん一緒の人物がいないというのも、寂しいものだと思いつつ、孔明は執務室へと向かう。
昨日までの雨もやみ、空はみごとな青天。
夏の朝らしく、みずみずしい緑の木々と、咲き誇る花々がさらに元気をあたえてくれる。
気持ちの良い朝であった。
麋竺がいないことで、自分のこなさなければならない仕事も増えてくるころだろうと孔明は予想したが、それはさほど苦ではなかった。
むしろ、望むところだといっていい。
孔明は、自分の力がぎりぎりまで試される状況が好きだった。
限界を超えようと努力していると、それまでの自分を脱皮できる境地をあじわえるからである。
そうして成長を積み重ねていって、自分がどこまで行けるのか、想像するだけでわくわくする。
つづく