帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百二十一〕ほそどのにびんなき人

2011-11-05 23:49:06 | 古典

  

                    帯とけの枕草
〔二百二十一〕ほそどのにびんなき人



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百二十一〕細殿にびんなき人


  ほそどのに、びんなき人なん、暁にかさゝしていでける(女房の局には不都合な人がですね、暁に傘さして出て来たのよ……細とのには具合のわるいおとこがねえ、あかつきに嵩さし障って出て来たそうよ)」と、誰かが・言い出したのを、よく聞けば、わがうへ(わが身の上…わが身の下)のことだったのだ。地下(昇殿許されない男)だと言うのでは、容易に、人(女房)に許されるような男ではありはしないものを、変だなと思っているときに、上(宮)より御文もって使いが来て、「返りごと、ただ今と仰せられた」という。何事なのかと見れば、大傘の絵を描いて人は見えず、ただ手だけで傘を持たせて、下に、

山のはあけしあしたより

(山の端明けた朝に・かささして大人物が出てきたようね……山ば果てた朝に、――)。
と書かせておられた。やはり、たわいないことであっても、ただ愛でたい方にだけお観じになられるので、恥ずかしくて不快なことは、何とかご覧になられないようにと思うのに、このような空言がでてくると、くるしけれどおかしくて(心苦しいけれどおかしくて)、別の紙に雨を激しく降らせて、下に、

ならぬ名のたちにけるかな、さてや、ぬれぎぬにはなり侍らむ

(涙雨が激しく降っています。立ってはならぬ噂が立ったことよ、それで、濡れ衣にはなっているでしょうか……おとこ雨が激しく降り、成らない汝が絶ったようで、それで、濡れ衣にはなっているのでしょうか)。

と申し上げれば、右近の内侍らに語られ、わらはせ給けり(お笑いになられたのだった)。


 言の戯れを知り、言の心を心得ましょう。

  「ほそどの…細殿…女房の局…よき女」「細…ほめことば」「との…殿…家…女」「と…門…女」「かささして…傘さして…嵩さしさわって」「傘の絵…傘さした大人物…嵩さし障ったおとこ」「応えの絵の雨…涙雨…おとこ雨」「ならぬ…成らぬ…成就しない…差し障ってならない」「名…評判…(不都合な男をひきいれたという)噂…(細どのなので嵩さしさわったという)噂…な…汝…相手…彼」「たち…立ち…発ち…絶ち…断ち」「ぬれぎぬ…濡衣…無実の噂を立てられる…衣が濡れる」。



 右近の内侍は、もののわかる人。「この雨は彼女の涙雨でしょうか、彼女が細どのだなんて、たしかに濡衣でしょうね」などと応えれば笑える。
 地下の男が秘かに全く別の理由でわが局に出入りしていた。前章に記したように人の動向の収集のため。宮の御周辺はただならぬ頃で、宮もご承知の事。
 
人の噂に立ったのは失態、それを宮は別の話に変えて、お笑いになられた。懐かしい思い出を記してある。
 

 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)


 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。


帯とけの枕草子〔二百二十〕よろづのことよりも

2011-11-05 00:04:05 | 古典

   


                     帯とけの枕草子〔二百二十〕よろづのことよりも



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百二十〕よろづのことよりも

 
 何ごとよりも、みすぼらしい車で身なりわるく物見する人、まったく気に入らない。説教の聴聞などならば大いに良し、罪失うことだから。それでさえ、やはり度を超している様では見苦しいのに、まして祭りなどは、見ないほうがいい。下簾なくて、白い単衣の袖など車からちょっと垂らしてあるでしょうよ。

ただその日のためにと思って車の簾も仕立て、ひどく悔しい思いはしないだろうと出かけたのに、優る車など見つけては、何のためにこうなるのよと思えるものを、まして仕立てもしないで、どんな気でそなさまで見に来るのでしょう。

 よい所に駐車しようと急がせてすぐに出かけて行列を待つ間、座ったり立ったりして暑苦しくて困り果てているときに、斎院の、ゑが(饗宴のお相伴)に参った殿上人、蔵人所の衆、弁官、少納言など、七つ八つひき続いて、斎院の方より車を走らせて来るのは、こと(事…御輿行列の準備)は済んだのだなあと、おどろかれてうれしけれ(気づいて嬉しいことよ)。

 物見所の前に駐車して見ているのも、いとおかし(とっても趣がある)。殿上人がもの言いに使いをよこしたりして、蔵人所の御前駆を務める者たちに水飯食わすということで、階段のもとに馬を引き寄せているときに、おぼえある人(見覚えある人…評判よい人)の子どもは、雑色(下僕)らが下りて、子どもの乗った・馬の口をとったりしていて、おかし(子はかわいい・趣がある)。そうでない人の子どもが見むきもされないのが、いとほしげなる(かわいそうである)。

 御輿がお渡りになられると、ながへ(轅)を、ある限りすべて、台よりさっと下ろして、お過ぎになられれば、まどひあぐるもをかし(あわてて上げるのもおかしい)。その前に、たつるくるま(停める車…立てるもの)は、きびしく制するが、「などてたつまじき(どうして駐車してはならなのだろうか…どうしてもの立たないことがあろうか)」と強いて、たつれば(駐車すれば)、言いわずらって、せうそこ(あいさつなど…お元気ですねなど)しているのは、おかしけれ(おかしいことよ)。

 所もなく停め、ながえ重なっているのに、貴いところの御車と、そこより・人に賜わされた車が引き続いて多く来るのを、どこに停めるつもりでしょうと見る間に、御さき駆たちがただ馬を下りて来て、駐車している車をただちに退けさせて、人に賜わせられた車まで続けて駐車させたのこそ、いとめでたけれ(たいそう愛でたいことよ)。追い退けられた車らが、牛をつないである場所の方へ車体揺るがして行くのこそ、いとわびしげなれ(まったくつらそうである)。きらきらしているよい車などは、けっしてそのように押しひしゃげない。
 たいそう見てくれ良さそうだけれど、また、ひなびあやしきげすなど(田舎じみて怪しいげ衆など)を絶えず呼び寄せ、行かせたり留め置いたりしている、もあるぞかし(車もあるのだ)。


 言の戯れと言の心

 「くるま…車…しゃ…者…もの…おとこ…車が一礼するのは言葉の上だけではなく擬人化されているため」「たつ…停める…立つ…起つ」「せうそこなど…消息など…安否など問う…健在などを知らせる」。



 見かけよく仕立てた車に「ひなびたあやしきげす」を出入させているのは、大勢人の集う所では、人の動向、消息、噂などが多く収集できるため。以前、清少納言もしていたこと。

里の使用人、こもり、おさめ、すまし、みかは人、にせ法師、童子等の使い方は、清少納言が巧みだったことは枕草子を一読すればわかるでしょう。彼らの言葉に通じること、些細な仕事でも必ず褒美(報奨)をあげることなど、お姫様女房たちにはできない。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)


 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。